第1章
歴史の濁流
1609年、薩摩軍は三千の兵を率いて琉球王国を武力制圧する。ここに、沖縄苦渋の歴史は始まった。以来、琉球処分、”捨て石”作戦としての沖縄戦、そして米軍による統治と、沖縄は侵略と国策による悲劇の歴史を繰り返す。それはまた、沖縄が歴史的に背負った宿命ともいえよう。時代こそ違え、その類似の事件は、権力者に利用され、踏みつけにされた民衆の歴史なのである。
| 日本への帰属 |
−島津侵攻と琉球処分−
1609年、善隣友好国として交易してきた薩摩藩の島津氏は、逼迫した藩財政を立て直す政策として琉球から大島分割(奄美諸島の奪取)と中国貿易の利益を求めて琉球侵略を敢行した。
【薩摩軍の琉球侵略経路】
薩摩軍は海上からの琉球侵略のあったて、東シナ海から現在の北谷方面に上陸(旧暦3月29日)その後、首里城に向かって軍を進めた。336年後の4月1日、慶良間諸島を占領した米軍は薩摩軍と似たコースをたどり、同じ北谷に上陸、やはり首里城を目指し、沖縄攻略を果たした。
薩摩軍の琉球侵略。「琉球渡海日々日記」にもとづいて作成(日付は旧暦)
| 琉球処分 |
江戸時代末期、アジアとの貿易上、中継地が必要なことから日本への強引な開国を迫る西洋諸国に対し、江戸幕府は西洋諸国の日本進出を琉球でくい止め、日本国内の安寧を保とうと考えていた(琉球防波堤論)。しかし開国によって目覚めた日本は、江戸幕府を倒して維新政府を樹立し、近代国家への仲間入りを急いだ。その過程で1879年(明治12年)、琉球処分(琉球王国の明治政府への強制的組み込み)が断行され、事実上、琉球という王国は消滅した。
「琉球処分」は、日本のアジア隣国(台湾、朝鮮、中国など)への対外膨張政策として隣国への侵略の一契機をなしていた。事実当時の政府指導者、軍の高官たちが次々と沖縄を訪れ、軍事的観点から「秩序統制の維持」が強く推し進められた。