第3章

戦争の諸相


 
朝鮮からの強制連行
 戦線の拡大にともない、当時、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島では、日本での労働力不足を補うために徴兵・徴用として多くの人たちが強制連行された。1940〜45年の間に日本に連れてこられた朝鮮人は120万人余りで、沖縄戦にも1万に余りの朝鮮人が送られ、戦争の犠牲者となっていった。強制連行された人々は、日本軍による人権を全く無視した強烈な民族差別の中、家畜同様の扱いを受けた。さらに、言葉のわからない異国の地で戦火にさまよう二重の苦しみを味わった。

日本軍による虐待行為

 朝鮮人軍夫は沖縄各地に配属され、壕堀や弾薬運搬など危険できつい労働を強いられた。口にできるものは一日一杯の水ガユなどわずかな食料だけで、多くの朝鮮人痩せ衰え、病気や栄養失調などで倒れていった。また、極度の空腹をしのぐため、食料の略奪や逃亡をするものもでてきた。そのため彼らの中には、「スパイ容疑」や「逃亡未遂」「食料統制違反」など、見せしめとして銃殺されるものもあった。 

証言

 今でも忘れられないことがある。ある日、あまりにかわいそうなので朝鮮人軍夫にオカラと芋を混ぜた馬糧の中の芋だけを拾って食べさせた。(そんなものしか与えられなかった)。ところが、これが班長にばれた班長は軍夫を並ばせ、「今食ったものを全部吐き出せ!」と命令した。軍夫たちは口に指をつっこんで、無理に吐き出した。それにいく粒かの麦が混じっていた、すると班長は、「おまえらおそれ多くも皇軍の食料を吐き出したな。誰がそれまで吐き出せといったか。粗末にするな拾って食え!」と怒鳴った。軍夫たちはしかたなく、麦粒を拾って食べた。すると班長は「誰が余分に食えといったか。余分に食ったものを出せ」と命じた。これを何度も繰り返していた。
                   (「強制連行虐殺調査団報告書」より 富村氏)

従軍慰安婦

 強制連行されたのは男性ばかりではなく若い女性達が「慰安婦」として戦場へと送られた。沖縄でも一個中隊に6、7名の女性が従軍していた。 彼女たちは日本軍の慰みになるばかりではなく、壕などでは危険な入り口付近に追いやられた。そして戦況が悪化して軍隊が撤退すると、食料も与えられず戦火のまっただ中に放り出され、銃弾の犠牲となっていった。また戦後終了後助かったものも、駐留する米軍に利用されるケースも各地で見られた。終戦後の彼女たちの行方、生存の有無はいまだにほとんど明らかになっていない。


沖縄戦で米軍に保護された朝鮮人慰安婦(沖縄県発行「沖縄 戦後50年の歩み」より)

 
証言

 この女性達はみな20代(一人だけ19歳)だった。1944年9月頃、古賀隊と一緒に来た。「南風荘」というクラブを作って住まわされた。午前中は雑用、糧秣運び、それに壕堀、材木切りなどもさせられ兵と同じように働かされていた。そのうえ、昼の12時からよるの12時頃まで全部隊(日本将兵300名)の相手をさせられていた。昼は兵、夜は将校だった。札を持った兵隊たちが列をつくって並んでいた。(中略)酒を飲むといつも「死ぬ」といっていたのは、アケミという23歳の人だった。演芸会などがあるとこの人は、よく朝鮮のうたをうたっていたが、そのたびに涙を流していた。悲しい歌でみんなもらい泣きした。本島に帰ってからハルミとコユキという人が死んだと聞いている。コユキさんはタマにあたって死んだと日本兵から聞いた。
                                    (「強制連行虐殺調査団報告書」より 兼島氏)   


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