| 本 島 |

● 具志頭村字新城にて、歩くこともできず、泥土にまみれてはって逃げる人、つえにすがって避難する負傷兵等の姿です。 大城 信清 (左)
● ひめゆりの壕。天蓋なし。外も迫撃砲の雨。意を決して外に出るひめゆりの乙女の声が聞こえる。
沖縄市 渡口 竹夫 (当時19歳) (右)
● 死んだ子どもとも知らず、精神状態のおかしくなった若い母親。
母親自身も片手を失い、死んだ子どもの顔面は爆弾でもぎ取られていた。
知花 テル

● 1945年(昭和20年)4月、避難途中の真和志小学校前で、B29の投下した爆弾の破片によって母親の首が吹き飛び、1〜2分は立ったままの状態でした。背中におぶった女の子は奇跡的に助かりました。その女の子は現在、健在だそうです。 沖縄市 仲間 喜美子 (左)
● 戦争中の食糧難はひどいものでした。近くの畑で拾ってきた殺虫剤・DDTをメリケン粉の代用にし、車の油を溶かして天ぷらをつくって食べ生き延びました。モービル油も天ぷら油の代用でした。また、クリーム色の石けんを食べたこどもたちは、おなかをこわす有様でした。食糧難は実に大変なものでした。
具志川市 中村 サカエ (当時32歳) (右)
● 当時6歳の私と1つ違いの兄。ゼンソクの姉がいるため、あの壕この壕から追われ、隠れるところもなく3つの岩場で家族6人が暮らしている状態でした。我が家へ一日一度、食事を作りに行くのが日課でした。つい30分前まであった製糖工場があとかたもなく燃え尽きてなくなっていました。暗い夜道を母と2人で歩いていると、何かにぶつかりころびそうになりました。よく見るとまだ歩けないハイハイしかできない幼い子どもでした。おそらく母親が抱きかかえていたために助かったのでしょう。母親の死も知らず死体にすがりつき、お乳を求めているあわれな幼子の姿、今でも鮮明に浮かんできます。
沖縄市 新垣 里子 (当時6歳)
| 集団自決 |
● 鮮血に染まった母親。娘の名を3度呼んで、やがて息絶えた。
稲垣 守国