索引
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おぎやか
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首里城南殿
農村民那覇移住禁止令
向象賢

琉球歴史年表・用語人名系附解説

阿摩弥姑 (アマミ キユ):女


西300年 永康一年、阿摩弥姑一族が天帝から「ニライカナイ」より遣わされ琉球へ渡り住み文化を伝えたとさる。

阿摩弥姑とその一族は、はじめに琉球列島周辺諸島島々へ幾数か伝説を残し、琉球久高島の地降り農耕農耕祭祀文化を伝えた。

後に玉城村百名へ渡り住みついたとされ稲作や農耕儀礼等の祭祀が文化始まり子孫を残した

琉球の開闢神、開祖人子は南海大神加那志、他、男女十二人の子を残したとされる。



志仁礼久(シニリ キユ):男

阿摩弥姑の夫として知られている。



南海大神加那志

妻・天美人加那志(ティンビジンガナシー)、巣出美人加那志、(スデビジンガナシー)(瀬長島下穴)等、三人とも阿摩弥姑の子。子は天太子神加那志 他、男女12人が周辺各地へ遣わされ移住したとされる 



天太子加那志

 妻・竜宮女大神加那志、子・天帝子加那志、豊見城大神加那志(瀬長上穴)-宜保大神、中城大神加那志-中城按司、他、男女23人(各地へ)



天帝子王

琉球歴史神話の王統初代中山王で歴代二十四代目だが天帝子以前の歴代王は不明(天孫子の父で天太子の子)妻・天女神加那志。

嫡子は王の始まり(天孫子)、ニ男は按司の始まり(北山大按司、今帰仁親泊)、三男は百姓の始まり(島尻世主)、長女は君の始まり、二女はノロの始まり、とされ琉球王国開国となる



天孫子王 

天帝子王統二代・中山王、神話の歴代二十五代目。阿摩弥姑の血筋、天帝子の嫡子。乙丑、琉球史神話天孫子降臨伝説の祖、西445年〜丙午,西1186年まで25代(742年間)続いたとされる伝説、神話の王。首里城は天孫子以来と伝えられている。

世衰えて政廃れて諸按司に叛く者が多く、逆臣利勇なる者が王を弑してみずから王となった。

(中国)宋史琉求伝によると、西1174年〜1189年、琉求常に数百隻を率い中国、泉州、水漢頭等へ押しかけ海賊的行為を起こしたとある。

ということはすでにこの頃、船による航海術ができていて大陸にも及ぶことは日本との行き来はもちろん海外諸外国とのなんらかの交流も行われただろう。

長女 孫太子大君(今帰仁湧川新里)、嫡子 湧川按司、二女 豊見城大君(子十二男三女)、瀬長大神加那志(瀬長公房御嶽)、小禄大君(小禄田原村)、百名大君(百名世主-百名大主-二男垣花按司、男女24人


琉球国王(オー) 首里城が都の中心となった頃より王のことを首里加那志前とといい尚巴志王以前の王城は百浦添(浦添城)を中山の都としていて王のことを百浦添加那志前といい 妃のことを御妃(うふぃ) 姫は王姉妹部(うみないび) 側室夫人を女按司(うんなじゃら)
妻は阿護母志良礼(あぐうしたんめえ) 王子(おーじ) 世子を黄金加那志前(くがにがなしーめえ) 

按司・築登親雲上(あじ・ちくどぅんうやくむい)

一地域や部落など連合して権力で土地と住民を領有する長(おさ)をいい勢力争いによって選ばれ、または王及び國祖母・國母・國妃など親族によって親近者が君ノロとともに選ばれる。

それによって按司は定置定職ではなく一地域の同一按司名であっても政権が替われば統治者も代わる。

古く十七,八世紀までは土地(耕地)は女系相続で娘に祭祀とともに領地が継がれ婿をとり勢力争いがあって負ければ領支配から出ていくか逃げる。その為、地名に名指した人名は根づかない。入り婿に入っても男女別姓が普通だったようだ。



嫡子(ちゃくし)

後継ぎの子。沖縄では長男のことを指し「ちゃくし」と言うが琉球王朝時代は元祖(がんす)相続人を嫡子という。

沖縄方言と思う人も多いが方言ではない。儒教思想の長男の長男が生まれながらにして徳が高いとして後継者となるのが普通だが長男を不慮の喪に憑いたときは祖先神々からの天命とし残された子の有徳者が継ぐ、もし長男が、仁・義・礼・等を身につけず立派な行いを出来ずに親や家の名誉を汚した場合はその限りでは無く残された子の有徳者が継ぐ、汚さぬ場合は親を中心として家族、親戚が決断を下す。という家族主義、血族主義が根底にある。

また、王朝時代の権力者には複数妻(妃)がいて、その中から先に生まれた第一子が長男であるが本妻に二男が生まれた場合は本妻の子が二男ではあるが嫡子といい後に述べる英祖王の場合がそれにあたる。

それ以外の妻の外子(妾)を世子という。嫡子は祖先を祀る為の位牌を相続する人をいい位牌(トートーメー、頭々前)と、按司などの権力と財産全てを相続する。

嫡子・第一子は長男・世子・と別表琉球年表に記してあるが子沢山になればややこしく継承争いも度々で現在の相続権の争いよりも無法の倫理観だけでの殉死もあり複雑であったに違いない。



トートーメー

儒教思想の祖先神崇拝で位牌を受け継ぐに従って位牌も多くなり頭々(地頭)銘々「とうとうめい」を持つようになり後に沖縄独特の仏壇ができてそれをトートーメーいうのが語源と云われるが、仏壇ができるそれ以前からの人の頭(頭骸骨)を墓で祭ることからきているとする説にはうなずける。もともと権力者の按司などは地頭(ジトゥー)といい領有地の頭であって元祖(位牌)を引き継ぐ時も長男(頭)の長男(頭)と頭が継ぐ冥々の位牌に刻まれた銘といい仏壇そのものをいう。

仏教は出家主義で死ぬと位牌も魂も何も残らず墓も意味も無く、輪廻転生するとされ、出家前仏壇に釈迦如来または法を掲げて生きる苦しみを救わんが為に祈るが、沖縄では位牌だけを仏壇上から段階的(頭々)に上から置き祖先の霊を呼ぶ祖先礼拝として清明祭など招魂儀礼の先祖祭祀を行い線香を立ててお供えをしてお墓にご先祖の魂を招魂しお迎えに行き永遠の生命を幾日か尊び「カビアンジー」紙銭(冥界のお金)を持たして永遠の魂に別れを告げる儀礼を施す。

道教の場合永遠の寿命とする教えからきている。



※注釈 

以降の人名と系附等の説明の項で伝わらずとしているのは、祖先代々の系附を辿ると不自然に直系の後継ぎがなく世子の系附の一部でしか伝わっていないのは、後の世に系附が戦や事故で焼かれて焼失したり、その当時の時代的策略にて故意に捻じ伏せられたりとしているため実際にあった琉球王統の文化の史実も空白の伝わらずとなるのである。また、殉死制もあり王・王子・王家の最高神官・諸士が死ぬと挙って殉死するのだが一人二人でなく十数人以上が競って殉死する空白となり伝わらずとしている。始まりは天孫子からであろう。



利勇王

天孫子25代目のとき逆臣利勇なる者が君を弑してみずから王となったとされる伝説の人物。のちに尊敦(舜天)に討たれ舜天王統が築かれる。経歴不詳



源為朝公

源為朝伝は日本本土の説(学校で学ぶ説)琉球の歴史説(学校で学ばない説)全く違うものだが琉球に伝えられる歴史として鎮西八郎為朝公1156年伊豆大島に流され1156年運を天に任せ大島を出て流れついたのが琉球今帰仁運天港とされる。為朝公は弓矢を持ち鎧を着ていたので民は恐れて彼に服従した。というのが琉球説。


その後、天孫氏後裔大里按司の妹とのあいだに男の子を生み尊敦と名づけた。彼は日本に帰りたくなって妻子をえそ(伊祖)に残して浦添牧港より旅立ったとされる。

妻・大里按司妹・四男三女、外子8人、子・舜天(尊敦)、浦添按司(平良村地組)、高嶺按司(豊見城平良)、外子豊見城按司(豊見城)、外子中城按司(中城泊)、外子大里大君(東大里ノロ)、外子天久按司(真和志天久村)、外子伊良部主(玉城)



舜天王

舜天王統初代中山王・尊敦

為朝の子、尊敦浦添按司。首里城の利勇を討ち取って王となる。

子・舜馬順煕大里王子(大里村)他



舜馬順煕王

舜天王統二代中山王・舜天の子。子・義本(中城仲順村)ほか伝わらず。



義本王

舜天王統三代中山王・舜馬順煕の子。即位の翌年より飢饉がしばしば起こり疫病も流行して人民の半分が死んだとされ11年目に私は徳が無いから飢饉と流行病がやってきた天が私を見捨てたのであるとして群臣の推挙と義本王により恵祖の世主(浦添市伊祖)の嫡子英祖に王位を譲り義本王は隠れた。

子・仲村渠王子(長堂村仲村渠)、豊見城王子(高江州)、満名子本部へ



恵祖の世主

浦添按司。初代王統天帝子の後裔、英祖王の父(恵祖世主の墓は浦添市伊祖トンネル上と伝えられている)



英祖王

英祖王統初代中山王、一代から代まで恵祖世主の嫡子、ニ男。(長男伝わらず) えそのてだこ(伊祖の太陽の子)として崇められた。浦添市のてだこ祭りはてだこ発祥の地として名がつけられた。

義本王より王位を譲り受け翌年より国大いに治まる。この時代各港を支配下に置き統制し浦添城を居城とした。この頃まで浦添(牧港、伊租、浦添)が公易の中心であった。

那覇港に泊御殿をたて貢物、交易品を収める倉とした。

久米島、慶良間、伊平屋、奄美大島、など北の諸島にも按司とノロを置き初めて英祖王へ入貢され、公館をたて官使を置き諸島のことを治め、按司領内の田野をめぐり経界を正し耕地を等しくし、民を農事に努力させるようにし、穀物も豊かに実り生産も増加し貢祖も十分に納まり制度も効果的に行われ国が大いに治まった。

本土との交易は各々島々伝いの物の交易はあったとされ久米島(米の島)は米を本土との交易に使ったとされる。

僧侶、禅艦漂着し始めての仏教伝来と伝わる。極楽寺をつくり極楽山に墓を造る(浦添市ようどれには右に英祖王墓、左隣に後の尚寧王の墓、)英祖王の姉は大君として首里城に住んだとつたえられる。

子・大成王、玉城王子(玉城垣花)、大里王子(大里)、世子長男 伊祖按司(浦添伊祖)嫡子 沢岻新垣親雲上、二男 前田按司(浦添前田)-叉孫伊是名親雲上(伊平屋へ)伊平屋は後の時代に伊是名と伊平屋に分けられる世子・二男 沢岻按司(浦添市沢岻当間)子・(花城、鐃波、高江州)親雲上



大成王

英祖王統二代中山王・英祖王の子。子・英慈王ほか子伝わらず 

英慈王

英祖王統三代中山王・大成王の第二子。 子・玉城王ほか長男伝わらず

玉城王

英祖王統四代中山王・英慈王の第四子(長男〜三男まで殉死)子・西威王 子-大城按司(首里)-糸数按司-豊見城按司(名嘉地)

三山勢力争い対立し南山(大里城)・中山(浦添城)・北山(今帰仁城)と分立し戦乱勃発、戦乱止まず。諸島貢絶、民苦しむ。尚巴志の時代まで大きく分けて舜天系と天孫子系との「我こそは世主」とする勢力争いが南・北・中に起こり続いた。

西威王

英祖王統五中山王・西威王の即位後、太子が歳と幼く君政(母后政)をし、賢者退く前王政よりの三山戦乱もあり、王薨去(二十二歳)に際し、太子を廃し、皆、察度を称えるので天命とし王となる。

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察度王

母后政を敷いた前王十歳の西威王王子に代わり王となり王府を浦添城から首里城へ移す。

察度王統初代中山王・奥間大親と天女加那志の間の子。(系附 天美人加那志⇒天済大神⇒御巣人加那志(佐敷新里村の並里)⇒並里按司⇒辺戸名里主⇒奥間大親(浦添謝名村、大謝名)⇒察度 

妃・勝連按司娘(舜天系北山大按司の後裔)子・武寧、豊見城王子、裔孫瀬長按司

察度、明への封を最初に受けて中山を中国読みの山中王となる。

明朝(唐)に通じ従属し琉球始めて入貢する。つづいて南山入貢し、北山入貢し、三山停戦となる。

中山を舜天派に南と北で挟まれた形となるが察度の妃も舜天の血を引く有力按司の娘であり大君として王の実権は妃君が握っていたと思われる。

つまり、天孫子時代から大陸の軍の侵略を跳ね返してきた天孫派は英祖王王統で終わり、替わって察度なる舜天派は明朝帝の大祖招諭し権力を味方につけ血統統治の安泰を計り南と北も舜天派に代わると同時に明の冊封を受けているのでありこれは儒教における基本の理論的考え方。孝で祖先や親族血統の親を敬う念が妃(大君)に対する忠と結びつけることによってできている政治理論なのである。

奥間大親は誰の後裔にあたるかは不明としている(中山世譜編者)

※察度は貧乏な百姓の子であったが貴族娘に惚れて申し込むも親に反対されるが晴れて娶り、娘は彼の貧相な家に入るとそこの釜戸は灰と松脂にうもれた黄金であった。驚いて尋ねると、田畑には「こんな物」がいっぱいあるという。それを喜び、そこに楼閣を建てて金宮と名づけた後の金宮社となる。

察度は黄金さえも知らぬほど貧乏だった。三山戦乱のなか幸運なひとである。彼は金宮の前を通る飢えた人には食を与え、凍える者には衣服を与え、日本の交易船などが来ると鉄などをすべて買い取り農民に与え農具を作らしめて農民は功をなし徳ある者とし、この地の按司とした浦添按司(察度)である。



武寧王

察度王統二代中山王・察度王の子、子・国頭按司、兼城按司(阿波根)

日夜淫蕩、諸按司朝せず、燻り続けた三山停戦も虚しく人民も苦しみ、民意失ってしまう。そんな王様は天命をもって取り替えるべしとする天命思想にて天帝子後裔佐敷小按司尚巴志により亡ぼされ尚思紹首里城主となる。

天命は誰が与えるかは御真人(うまんちゅ)たる現人神(按司やノロの神々とされる人)である。

人の手の負えない天災、自然災害、飢饉、流行病でも天命とした。そのため琉球や中国においても王統の継続はたびたび崩壊している。

御真人は選ばれた優れた人いう(士やノロの役職以上の人)。御万人(うまんちゅ)といい現在では全ての人々をいうように解釈されとらえられている。



尚思紹

尚巴志王統初代・中山王・佐敷按司、尚巴志の父、(詳細年表参照



尚巴志王

尚巴志王統二代・尚思紹子、中山王(詳細年表参照



中山ちゅうざん(山中王)

浦添城を権力の中心としていたが後に首里城へ移す。那覇、泊、真和志、真玉橋、豊見城、小禄、南風原、西原、浦添、北谷、中城、越来、読谷山、勝連、具志川、東諸島の沖

縄本島中部地域を支配する。



南山なんざん(山南王)

1314年〜1320年・大里城を権力の中心とし兼城、真壁、喜屋武、摩文仁、東風平、具志頭、玉城、知念、佐敷、東大里、慶良間、久米島の沖縄本島南部地域が連合し各間切の按司が大里按司に従い。承察度自ら南山世主(なんざんよのぬし)と称して支配する。



南山城主(大里城)⇒大里天孫子⇒大里按司⇒舜天の子舜馬順煕⇒舜天の子湧川王子孫大里世主⇒英祖王の子大里王子(大里大主)⇒大里世主の孫大里按司⇒山南王承察度⇒汪応祖⇒他魯毎となり、二、三代ごとに天孫子系城主と舜天系城主に入れ替わっている。



北山ほくざん(山北王)

今帰仁城を権力の中心とし羽地、名護、国頭、金武、伊江島、伊平屋、の沖縄本島北部地域を今帰仁按司自ら北山王と称して支配する。



北山城主⇒天帝子二男北山大按司(親泊)⇒孫太子北山按司(湧川)⇒舜天の子北山大按司(湧川)⇒怕尼芝(湧川)⇒a(湧川)⇒擧安知(湧川)⇒尚巴志二男監守



間切(まきり)

各按司が主張する地域や部落など数区から十区以上を一つにした区切、領有地



人神、根人(にんがみ・にっちゅ)

世始めの部落統制のため部落や間切の長(酋長)を決めその姉妹が信仰行事を司るようになり、人神、根人といわれ、百姓以上の位の高い者を神とし、信仰させて祭政統治し、貢米(粟、米、雑穀)献上させ豊穣祈願や祭祀、神事を行なった人。

貢米が少ないと御願不足(うがんぶそく)とし神事を怠ったとしてより強い信仰心を煽り立て徹底させ利子をつける。

雨が少ないとノロを先頭に百姓総出で祈願し、雨を乞うたり祭祀をおこない連帯感と信仰心を植え付ける。

貢米が多く豊穣のときは祖先の霊に供えものをして豊穰を感謝し、祭りごとをおこない高揚感と充実感をもたせる。

人神、根人には儀礼行動を教えてエリート意識を持たせる。幼い時から無意識にこれらが刻まれて最終的には天罰をおそれ人神、根人のために働くようになる。

その後の時代になって長も人神も多くなり百姓以上の位には按司、ノロ神など階級が築かれていくのであるが孔子をはじめ儒家の人々は統治技法をもって政を成す野望をもっていたが日本において論語など浸透したものの受け入れられず琉球はそのまま最後の尚王朝まで儒教による統治技法が行われたのである。



里主(さとぬし)

根神・根人を後世、里主という。部落民に労役を課し貢米を取り立て役とした。


ノロ

祭祀、神事として豊穣祈願や稲作儀礼に始まり、天災、災難、厄除け、戦勝祈願など祈祷し百姓から一定の貢作が納められるように種蒔や収穫時期を神のお告げとして管理する神役職。

王より百姓取扱通達書なるものと勾玉や扇子に衣服などと役地をもらう。終身職で代々受け継がれる。祭祀も始め王の妃(君)、姉妹などのノロ(女)が司っていたが、次第に階層化して権力者、支配者などの按司一族のノロ(女)が司り、次に里主や人神、根人の部落の家からノロ(女)が出され2,3の部落を一人のノロが司るようになった。



王家の最高神官として聞得大君加那志がいて按司一族の姉妹より尚真時代三十三君としてノロ神が置かれ有力な神として姉妹(ウナリ)自然を司る神(海・山・天)などを置いた。


戦乱や出陣の前にも必ず相手のノロを調べて相手より強い女神官を用意し神のお告げとして行動し、出陣の先頭に立って風水をもちい相手を呪い戦勝を祈り、戦乱が終るまで続けられた。


勝利を治めると地位と信仰に対する霊力があると高められ負けると御願不足(信心不足)とし地位を下げられる。


尚真時代にはさらに信仰統制のため有給化し身分(ノロ神職)を細分化し社会制度化となして、尚真王の妹聞得大君(音知殿茂金)があり王家の女神官は君(きみ)と称えられ、さらに三山の神「おおあむしられ」現人とする三役地を建てて首里殿内、儀保殿内、真壁殿内とし、さらに大阿母「おおあも」さらにノロ雲上「のろくもい」があり、親ノロ「おやのろ」があり「のろ」がありその下に人神、根人があり、のろ以上の位には役職として有給の神職になった。


信仰に逆らう者や従わぬ者には呪いを受け祟りがあるとし、より一層の貢米を枷て信仰させて、それでも不作により納めきれず利子が積もる貧農者は身売りに出す始末である。


ノロ信仰儀式を行うという階級化信仰絶対的社会主義に育てて、知識のない百姓を管理し、さらに伝統行事化し王の地位や上層部の安泰を目指す一つの上納独裁社会を創りあげようとするものであった。


飢饉、悪疫、諸按司の乱あれば、最高神官や女神官口を借り、すべて神の怒りであり、王を改めよという考えで王の命運と戦乱の勝ち負けまで左右し女神官に退けられると従人に殺されないうちに隠れるのである。


尚真王の時代から王統崩壊を恐れたのかさらに信仰の影響力を濃くしていった。この制度そのものは、尚円妃おぎやかと女神官にて制度化されたものであった。


尚真王即位の翌年漂流した朝鮮人が残した見聞記に書かれた王母の出遊を見た彼らは王母を担ぐ人や付き人や護衛など130人余の中から出てきて馬から降りてきた少年に酒振舞われ「前王亡き後、国王が幼いから母后が政を見ている。


国王が成人すると国王になると国人にいった」とある。1479年に出来た政策は全て母后おぎやかと女神官による制度が見てとれる。



(ぐすく)

按司や世主の居城で150ヶ所余り確認されている。権力者が入れ代わると居城主も入れ代わる。天孫子時代から武力争いを続けながら一山間区切りの領有(縄張り)としながら徐々に築城が始まっていったとされる。



隋書琉求国伝

西608年、中国より来琉した朱寛の琉求伝なるもの



泰期(たいち)

察度中山王の弟


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怕尼芝王(はにじ)

北山王、明へ冊封受け最初の山北王になる。今帰仁城主



閹者(えんしゃ)

去勢した男子(明帝では、罪人を去勢し、宮の小役人に使わされた)武寧王が明帝へ貢し斥けられる。帝王は「彼らも人の子である、罪無くして刑するのは忍びない・・・天地は物を生ずるをもって徳となす。人を絶やしてはいけない」と一括された。



承察度(うふさとぅ)

南山王、明へ冊封受け最初の山南王になる。 大里按司の子 子・大里若按司、三男瀬長按司、五男豊見城按司、6男長嶺按司、七男西平按司



通事(つうじ) 異国等の通訳



汪応祖(やふそ)

南山王承察度の従弟大里若按司の子。汪応祖が後を継ぐ1404年山南王なる。汪応祖の兄、達勃期(たぶち)これを嫉んで1414年汪応祖を殺す。達勃期は汪応祖の家来や按司達はこれをうらまれ討たれて汪応祖の子、 他魯毎



他魯毎(たるみ)を王とす。1416年山南王となる。 



a(みん)北山王 怕尼芝の後を継ぐ。1392年山北王



擧安知 (はんあんち)北山王 aの後を継ぐ。1396年山北王。1416年、尚巴志軍に今帰仁城を攻められ擧安知自決、中山に併合される。



佐銘川大主(さめかわおおぬし)

尚思紹 の父。伊平屋、伊是名の出身で佐敷馬天へ流れつき、大城按司(佐敷馬天)の娘と一男一女の子ができて男の子は苗代大親(尚思紹)、女の子は馬天のろくもい(のろ親雲上)となる。後に成人した苗代大親は佐敷按司となり尚一代目の王となる。



尚思紹王・尚巴志王

天帝子の隠居の地とされる伊平屋の佐銘川大主と大城按司(玉城王)の娘との子が苗代大比屋こと佐敷按司(尚思紹)と佐敷の美里之子(みさとしー)の娘との子が尚巴志。

尚思紹の姓名は明帝より授かる。


尚巴志、妃は最高神官は聞得大君加那志となる。武寧を亡ぼして父思紹を王とし自ら佐敷按司となる、

尚巴志は尚思紹のとき北山擧安知王を亡ぼし、尚巴志の時に南山、を亡ぼし三山分立の終わりを告げ実質的天孫子世(てんそんゆー)となり統一国家となる。


玉城王以降三山対立で途絶えていた日本の博多商人や九州商人の交通も復活し頻繁になる(武寧から尚徳に至る間の幕府への遺使は盛んに行われた)朝鮮との通商も活発になり倭寇対策にと二人の船匠が朝鮮にわたり戦艦を建造し処遇を受けるが朝鮮側は遠隔のため琉球からの一方的な通行に留まり察度に始まり尚真時には衰退する


尚巴志の子はニ男尚忠、三男尚金福、四男布里、五男尚泰久、長男伝わらず、尚忠・尚恩達・尚金福 尚忠王の子長男尚恩達 尚恩達王は子がなく 尚巴志の子三男で尚金福が王位を継ぐ。金福王の子長男志魯と金福弟との王位継承争いとなり両者傷を負い死んでしまう。



他魯毎(たるみ)南山王

南山最後の王。冊封後おごりたかぶり、政事せず、宴遊に耽り、諸按司も忠誠を拒み、内紛もあり、1429年尚巴志中山軍に不意を衝かれ討たれる。四代百余年山南国滅びる。



王位争奪戦1453年

尚忠在位五年で死んで尚恩達継ぐも在位5年で死に後継ぎの子が無く叔父である金福が継ぐも在位4年で死に世子の志魯が継ぐが、恩達弟で叔父の布里は私こそ巴志の子第七子であり父の業を継ぎ王に成るべきとし各々兵を集めて王位に即かんとし争い城も燃盛り王城金銀印を焼き尽くし布里も志魯もともに傷を負い死んだ。そこで因縁治まらぬなか巴志の末子の越来領主(王子)尚泰久が国王となる。



尚泰久王・尚徳王

尚忠から尚泰久までは神職(ノロ)も儚く権力者の内紛権力争いがつづき、尚泰久は芥隠の教えを受け仏教を信じ仏神を崇め僧侶を重んじて数々多くの(16余箇所)寺院を建て宮を祭り朝夕経を唱え法を説かしめ、従臣(按司など親近者)して禅に参じ拝し仏を拝し大平の治を祈らしめたが僅かに仏教の興隆見ただけで在位僅か7年で世を去り尚徳にて継ぐも宗教改革失敗に終り政権も入れ替わった。


尚徳は暴虐無道、祖宗の功徳を思わず、天災地変も起き、群臣や従臣を休ませず従わぬ者は理屈であしらい、なおも従わぬ者を罰した。王勇気に富み賢臣退く、僅か9年で尚徳は国人に殺され(金丸)尚円を迎う。


祖宗の功徳を思わずというのは父、泰久より仏教念仏を受け継いだが尚徳には従わない神職(のろ君)や従臣(先王代々の祖宗を基底とする)者もいて。そういう時に偶然にも天地異変も起きたのは天におわす神(天帝)の怒りだとする儒教の思想からきていて王は退くべしとして天のお告げは絶対であるとするものとした。

また儒教社会においての神職(のろ役職)の地位が損なわれ兼ねないとして祭祀・儀礼を重視する体制に戻ってしまうのである。仏教理念と儒教理念の観念争いを尚泰久の意に反して翻弄される時代であった。


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護佐丸(ごさまる)

護佐丸(名は盛春)山田城三代目の城主の按司、尚巴志の北山討伐に従軍して今帰仁城を落城し今帰仁城駐屯⇒居城を山田城から座喜味城主(読谷村)と移すが往還の不便さと振興勢力阿摩和利牽制のため首里城との中間地中城の地を尚泰久より賜り、中城城主(中城村)となり兵をたくわえ城を固く備えた。



阿摩和利(あまわり)

勝連城主茂知府(もちづき)按司を攻め城主となり新勢力となる。その新勢力を無視しえなくなった尚泰久は娘百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせて政権安泰を願うも後に国を奪う策略をはかる。



護佐丸と阿摩和利の乱

阿摩和利は策略を練り護佐丸が謀反を企てているとし、疑う尚泰久を説得し、泰久は密偵の使いをうかがわせたところ兵馬準備する様子ありとの事を受け、驚いた泰久は王軍を阿摩和利につけ討伐を命じ中城城を奇襲。


8月15日の月見の宴を催おしてるとき突如として湧きあがる声に驚いた護佐丸は、はじめて阿摩和利の陰謀を知りおおいに怒ったが王軍に手向かうのは義に背くと一剣一矢も報いず幼児一人逃れ妻と子ふたり刺し自刃し陥落。ほどなく、阿摩和利は首里城攻略を計画。謀反をかぎつけた百度踏揚の付き人鬼大城は踏揚とともに陰謀を告げようと闇夜に抜け出し泰久に告げた。


阿摩和利は追っ手とともに軍を首里に差し向け火を放って攻め、四方軍兵集めた首里側に大敗し逃げ帰る。王は鬼大城を討手とし反撃、混戦の末、阿摩和利は鬼大城に斬首し終止符がうたれた。



鬼大城

百度踏揚(尚泰久王の娘)を阿摩和利に嫁がせるときに王が御附きとして娘とともに勝連城に遣わされた武勇士。謀反した阿摩和利の首を討ち取り功を賞した彼は勝連城を与えられ越来の総地頭となり越来親方と称せられた。



尚円王(金丸)[英祖にや末]英祖王統末裔

1415年伊平屋の諸見に百姓の家に生まれ27歳のとき王叔の越来王子尚泰久に奉公をして仕えた。


その後4代目尚恩達王に勧め、家来赤頭(けらいあかがみ)という役に就き、尚泰久が王位に即くと、西原間切内間の地頭に任ぜられ百姓の才を功て豊穣し称えられた。


1460年尚泰久王の側近にて国の貿易を司る重要な役人となり、御物城御鎖側遣われた。国王はもとより、国人、海外諸島に及ぶまで人徳厚く才気まわり皆感服せられた。


尚徳の死後、群臣の中の老翁は前王の蛮行を問い一人の国家ではなく、万人の国家であるといい群臣皆賛成したため一族貴族人は戦いて、我先にと逃げ退き群臣皆の奨励を受けて王となり、第二尚氏の尚円王となる。



尚徳王の死と金丸

尚円の即位には他にも説はあるが第二尚円王以後円一族が400年余続いたので、第二尚寄りの意向で伝えられある程度美化した部分はあるだろう。


尚徳の世の子として冊封を受け明帝から「汝の父が尚徳では年が合わずおかしいが?」と告げられながら黙って即位したという。


尚円は泰久と同年であり側近であった皇帝としては貢物さえあればどうでもよいということだろう。儒教を基にと築き上げた祖宗信仰社会は(金丸)尚円の時代仏教を信仰する者も出てきたのでよりいっそうの統制と神事を改革する必要性が出てきたのである。


尚円死んで、王妃(おぎやか)は次の世代の尚円弟、尚宜威を王位から落として尚真の時代母后政をし前西威王(母后政)のような体制崩壊を恐れたのであろう。未熟の尚真に代わり武器撤廃(刀狩り)、殉死を禁じ、全島の按司を首里に住まわせ中央集権の断行して崩壊を防いだのである。



御物城御鎖側

御物城は那覇港にある外国貿易貨物貯蔵庫でそれら貿易と那覇の港行政を管理する重要な職



尚宜威王

尚円の弟で尚宜威は泰久の領有にて越来王子とされていたが、神号(神名)授かりの儀で尚円の妃おぎやかと聞得大君、君々神女(ノロ)の策略により神の口により退位させられ6ヶ月で臣位に退き越来に隠れる。


おぎやか妃の血ひく者以外王位から徹底排除する策略であった。尚宜威は、神の口から王位とがめられた言葉は絶対と信じ、人徳無く王の座を汚し、神号を与えられなかったこと悔いたという。


それほど、ノロの権限は絶対的であり、尚泰久からの流れで、尚徳が後を継ぎ殺されるのも恐ろしいほどの祖宗(ノロ)の影響力が政治も左右し、今で言うなれば祖宗(ノロ)の口を借りたマインドコントロール社会ということである。


神号は最高女神官らが授けていたが1589年尚寧王の薩摩侵入後、王位は薩摩が即位の承認権限をもつようになったので神号そのものは無くなった。といっても祭事、神事等を行う者は根神、根所またはノロなどは政治の統制下に置いてそのまま利用したのである。娘は妃居仁、尚真妃となる



ユタ

ユタとは神がかりする霊媒師のことをいう。薩摩の侵入後、農業技術も盛んに取り入れられて行われるようになったためこれまでの百姓を司る人神やノロ神などの神職は百姓取り扱い通達書などに従っていたがそれも次第に無くなりこれまでとは逆に百姓の中から財を成す者やそれまで神とされていた百姓以上の位の高い者にも逆に多くの貧しい者もでてきてその中から百姓を始める者もでてきたのである。


1670年諸士に系図の提出を命ずる通達がなされたのをきっかけにそれを情報として利用(祖先にはこういう人がいるからああしろこうしろ)して神がかりや風水をしてお金を稼ぐ者も出てきた。


薩摩藩士と琉球藩士とのよもやま話も盛んに行われた。呪い(まじない)や幽霊話もおこなわれた特にそういう話はヨタ話として面白がられその呪い(まじない)そのものをする人をいつしかヨタといわれ沖縄方言風に喋るとユタになりユタ話などという。



おぎやか

第二尚氏時代王妃の座を与えられたおぎやかは第二尚氏以降、王位継承には強く関わり第三尚氏時代には実子即かす。また逆臣を恐れるにいたり、祭事、神事、ノロの頂点(最高神官聞得大君加那志)を司り、冊封後の尚円王亡き後、母后政は祭祀、神事一体となりより権力を行使し百姓から按司に至まで国中の武器を完全に取り上げ管理し、各地の按司を首里に住まわせ中央集権を断行。管理の難しい地域諸島は人とノロを辞令書とともに遣わし管理せしめた。


おぎやか亡き後、恩戸金按司加那志は最高神官聞得大君加那志となる。


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尚真王

思想統制在位50年と長く安泰していたようだがその要因として、尚真王となり武器取締りおよび按司を首里に集め中央集権化し身分貴族、按司上下関係を定めた。幕府琉球の来貢を促すも本土の応仁の乱や文明の兵乱のため海賊船や兵船の襲撃、が多発し使船の商品押収や未払いなどもあり途絶し明への進貢も制限され財政難続きとなり父の尚円が貿易物と貿易地域の管理行政するように大きく国と人とを全体管理し、物の管理から人の精神管理社会へ重点を置いたため争いもなく政治も安泰したのであり、後に薩摩藩に統治されたため第二尚円王統は永い歴史を飾ったとみたほうがよいだろう。


全て母おぎやかあって成しえた王統である。彼はまた30歳代から沢山の牌を建て自らの事績を列挙し褒め称える碑文を残していて仏教に帰依したとあるがこの時代碑文だけ多く立てている。神号までも母を思わせるそのまま「おぎやかもい」であるからして聞得大君や君々の偉大さを誇示しているように思える。



尚清・尚維衡

尚真王長男尚維衡(正妃、居仁の子)を退け、宇喜也嘉(おぎやか)の血をひくニ妃恩戸金按司加那志の子尚清を王位に就かす。



身分制度

尚真王時代制定。第一に王とその家族、王の子は成人(13歳くらい)で王子、世子以外。第二首里居住にさせ集めた按司。第三、三司官のような重臣、近臣は親雲上(おやくもい)または親方と称する。王子、第四、王家、按司、親方の従臣は士と称する、


これを簪(かんざし)とはちまきの色にて紫、黄。紅、緑。青、黒にて示す。第五、その他一般の住民は百姓と称し代々百姓とする。按司の子は按司でニ男以下は平士(筑登之)とし上に仕えて功を得た者は一間切与え位が昇格する。



八重山赤蜂の乱1500年

尚真は中央集権政策で八重山の風俗、風習を改め統治権の行使に恩納親方安治を生産を高め貢租を多く課すために八重山へ遣わされ八重山の島始めの祭り(いりきやあまり)は民力を損ない民財を費すものとして禁止した。


それに反発した大頭の赤峰は反抗し数年貢租を治めず赤峰に従わない石垣島と波照間島の民を殺し、宮古島を攻略しようと一触即発であった。


これを知った尚真は兵船46艘、兵300人で征討に向かわせ宮古島の仲宗根豊見親を乗せ先発に征討軍には久米島の女神官(軍尼)が首里の神のお告げにより従軍し八重山へ到着。首里軍が上陸してみると赤峰は大勢の八重山軍兵を率い、司(女神官)が十数人木の枝を振って天に地に叫び法術を勢い盛んに行い首里軍が進んでも女達は恐れる気配も無く赤峰は鋭気意気揚揚に進み戦に挑み首里軍は船を両隊に分け一隊は登野城へ攻め一隊は新川を攻め、女神官はいかだに木竹を乗せ火を点け流しこれを防ごうとした赤峰軍は膚いをつかれ首里軍に捕らえられ、赤峰は佐原山で捕らえられ首を刎ねられた。


このとき八重山軍女神官は首里軍女神官に従ったので八重山軍は驚き民衆も信服した。


この征討の功により仲宗根豊見親は宮古島の頭職に任ぜられ、長男の金盛豊見親は八重山の頭職任ぜられ、久米島の女神官は子孫世々女神官を賜り、これを機に政治的にも宗教的にも尚真は権威を得て女神官の祖宗(ノロ)の信仰の力と重要さを示した。



与那国鬼虎の乱

与那国島の鬼虎が叛いたので首里王府の命を受け宮古島の精鋭と女軍(ノロ)を率いて与那国島へ渡り女軍(ノロ)の術にて鬼虎を討ちその美しい娘(ノロ)を捕らえた。



仲宗根豊見親

宮古島は豊見親の支配下に置かれ年貢による苦役を強制されたが豊見親の急死により解放されたという。尚真は中央集権化を進めていたが服従関係はあるものの遠距離にて統治力が弱かったとされ新たにノロ大阿母「おおあも」という神職を置き統治力を浸透させた。



進貢の制限

尚円1472年明への進貢、ニ年一貢の交易に制限される。琉球使船の従臣が福建滞在中に中国役人夫婦を殺害したことにより乗員と正貢以外貨物の制限を受け且つニ年一貢に制限される。1506年の尚真の晩年34年ぶりに明への進貢、一年一貢許されるが1521年再びニ年一貢に制限され乗員もさらに制限される。



異国人による見聞記

見聞記は極めて少なく残された物もあるが注釈不明な物も多く言語の壁やうわべの理解では史実を損ないかねない、琉球の史実や書物は度重なる紛争や火災や台風にまして第二次世界大戦にて全てが焼失した。


残る物は海外または日本に残されたものや押収されたもの以外伝説的なものと現実とを照らし合わせる術はない。



倭寇(わこう)

日本の海賊、商船などの交易船を襲撃して物品や金品を奪い乗員を捕らえ人身売買する船舶集団で足利義満は明の要求で取り締まりに乗り出したが効果なく戦国時代になると海上(東支名海周辺)での倭寇の蔓延に琉球の海外中継貿易は影響を受けた。倭寇といっても名ばかりで始の頃、琉球人だけの集団が確認されているが日本人だけの集団や日本人を首領とする中国集団や中国人だけ集団も出てきていた。


やらざ森城築造

尚徳時琉使足利義政に謁して総門外で鉄砲を放ったというのは琉球使船の物品を押収し且つ代金未払いの為であったがその後琉球使船の取り締まりや制約を受ける事になり渡航も減少した尚真時には足利幕府琉球が来貢を促すも明との関係上と幕府の琉球に対する無礼さもあり無視せざる得なかった。その後琉球征服を目論む備中連島の領主が兵船12艘率いたところ島津の藩主は討ちとったと恩を着せていた。


その後も幾度かあったとして恩を着せていたが幕府の急襲を恐れるにあまり、倭寇対策も兼ねて1553年(尚清)、やらざ森城築造(那覇港)し砲台を築いた。那覇は首里城から眼下に見下ろす浮島であったが尚金福 1450年頃から埋め立てられて至るところに石橋も架けられていたがその後も埋め立てられて今では石橋もどの辺りにあったのかも分からないくらい現在では完全に埋め立てられた。



大島征伐

1537年大島では数人の首領として大親をおいて治めていたが与湾大親なる者が叛意ありと他の大親によって冤罪をきせられ与湾大親は王軍に抵抗せず自ら首を絞めた王軍はその子を虜にして帰還したが子の話によると他の大親たちの陥れだとした。


大親たちは叛いて貢物を納めず参観もなかったので1571年艦船50余隻を率いて大島を征伐し新たに大親をおいて統治し凱旋し、大親たちに捕らえられていた中国人を送還した。



海外交易国

交易国はシャム・バレンバン・ジャワ・マラッカ・スマトラ・パタニ・安南・スンダ・福建・などで毎年1隻2隻余が渡航していたとされる。また遠くアフガニスタンへの渡航もあるが極めてまれであったと思われる。年代は14世紀察度王の時代から活発になったと思われる。


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公易物

として蘇木・磁器・胡椒・高麗胡椒(唐がらし、コーレーグス)・硫黄・鎧・象牙・青磁・金襴緞子・薬草・香薬類・丁香・檀香木・丹木・砂糖・甘草・馬・羊・山羊・鳥・豚・アヒル・弓矢・甲衣・刀剣・馬具・屏風・扇子・生漆・黄金・銀・鉄・銅・真鍮・絹・酒・綿布・苧麻・櫛(くし)・芭蕉・針・鍋・釜・椀類・装身具類・他いろいろな物交易が行われていた。



島津威圧的態度1574年

足利幕府は琉球渡航の本土商船に対し島津の印判を受けるようにし、琉球商船も島津の印判を受けるようにして勝手に兵庫や大阪へ渡航することの無いよう制約をつけ取り締まった。利益の独占を狙ったものではあるが私船や印判を持たずに渡航する者も多く、いざこざや殺し合いや琉球側の使者接待もあり業を煮やし不満を買った島津は琉球側にも取り締まるように威圧的態度で細かい制約をつけ伝えた。



島津の進入1609年

徳川幕府が島津に琉球征討の理由として討琉球詩並序による一説によれば為朝が琉球創世の主にして子孫世々主君となっていることを挙げているが尚円王統は英祖王の後裔にあたり天孫子の後裔にあたるわけで為朝の後裔には系附を調べるにあたらない。


しかし、英祖王が伊祖「イズ」の地の王で「えそのてだこ」とする「えそ」は古語で「イズ」=伊豆にあてはまる。中山世鑑や球陽などの歴史書が薩摩の侵入後、「伊豆」の意味が恵祖、英祖、伊祖、伊是名、の全てが古語の「イズ」にあたりけしからんと事実を伏せられた可能性も否定は出来ない。


島津軍は百隻余の軍船と約3000の兵を琉球にさしむけ大島、徳之島、沖永良部を降伏させ琉球北部運天港につき海路今帰仁へ至ると兵は逃げたので薩摩軍は那覇に軍船を向けた首里では来襲がつたえられやらざ森城では砲弾をかまえた上陸し難きを知り運天港と読谷山に上陸首里に向い村落を焼き払い城を陥れ那覇勢力と交戦制圧し首里城から出てきた尚寧王は和議を申し入れ戦は終わった。この戦において武器を捨てて百年の琉球にはほとんど戦意がなかったとされる。



島津の進入後

島津は尚寧王を捕虜に二年半拘束し琉球は昔から島津の附庸であったと諸々の事を一筆書かせ完全に島津の附庸国とした。


島津の主な目的は与論島以北大島までは直轄とし残りの琉球を中国との交易の利益と年貢を得るためだけに琉球国として残し帰ってきたのである。


国王は中国に対してだけで国司と称するよう申し渡された。琉球を検地せしめ課税を付し国王の代わりに国質として三司官級の人質が廃藩置県後も捕らえ遣わされた。


島津の命に従い尚寧は諸士に二十万余石のうち三万余石の領地を配分し地頭代を置いた。尚寧には掟十五か条なるものを守らせた。


内容は薩摩の承諾なしに唐へのあつらえ物停止、由緒あろう人も按司の妻であってもこれまで神職(知行道)の給与終らせること、人を私物にしないこと、諸寺社を多く建ててはいけない、薩摩の印版なき商人許すべからず、琉球人買取日本へ渡るまじきこと、年貢他の公物奉行の定めたとおり納める事、三司官おきて別人就かすこと停止すること、押し売り押し買いやめさせること、喧嘩口論やめさせること、町人百姓に定め置かれた諸役の外無理非道の扱いさせる人あれば藩州へ訴えること、琉球より他国へ商船一切遣ってはいけない、日本の京判升外で使用してはいけない、賭博など癖があってはならないこと、以上、条々違反あれば厳科に処す。横山久高の印判 その他となっている。



仕上世座・1611年

仕上世座奉行、島津への貢祖を扱う役所。算用座・1625年算用座奉行、琉球の諸歳出入役所で諸貢船貨物や諸知行給与に関する行政役所。



烽火の制定1644年 貢船や異国船の到来を首里に通達するための周辺島々や本島嶺々の烽火



尚寧王

尚清の子⇒尚元の子⇒尚永⇒尚真王長男尚維衡曾孫尚寧⇒尚永弟尚久四子尚豊と王位継承となる。


第二尚氏王統の尚寧は在位32年57歳で世を去った。遣命して浦添極楽陵(ようどれ・英祖王墓)の左隣に葬られた。


第二尚王統の王位で尚家の霊御殿(たまうどぅんお墓)に葬られないのは尚寧だけである。たまうどぅんお墓は尚真母おぎやかが建てておぎやかの血を引くもの以外許さないとするたたりの碑文まで建てたことが要因だが尚円は英祖王統の後裔にあたるので英祖王墓の隣に葬るように遣命したのである。


琉球王統の歴史のなかで最後の王となったものは屈辱的に歴史書には記してあるが尚寧ほど束縛的人生で屈辱的な後半生を送った人物はいないだろう。


儒教統治社会においての王は天災地変があろうとも王の徳の無さであり業のためとされるわけである。


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第二尚家の紋(三つ巴)

尚真時代に全琉球から按司を首里城下に集め住まわせて中央集権化した。集めた按司は三山の区分に従い三派に分けた


南山は真和志の平等、中山は南風平等、北山は西の平等としその各派を祭祀統制するために南山は真壁殿内、中山は首里殿内、北山は儀保殿内としそれぞれ有力者のノロ神を三人置きおおあむしられとして全島三つの地域に分けてそれぞれのノロを統率し根神、根人はその配下に置いた。


この三殿内中心に諸島含め琉球が統制されるわけである。この三殿内のおおあむしられの証が勾玉で勾玉の形三つで三つ巴の紋となり、三つ巴一丸となって琉球が統制されるわけである。



首里城南殿 1627年

南殿建てる。首里城内には冊封使のための西殿に対し、南殿を新しく建てて薩摩役人接待用とした



年総山奉行1636年

年総山奉行、山林を管理する役所。異国奉行、異国船異国人取締り役所。島津藩の宗門手札改めの指令にて切支丹宗の札改事務所として双方の役所が扱った。



農村民那覇移住禁止令1645年

那覇、久米、泊以外の農民がこれらの都会地に移住することを禁止した。



貢納増額1635年

島津への貢納も前後してたびたび風害で作物被害があったにも関わらず増額され負債もたまり1645年砂糖、欝金(うこん)ターメリックで返済するようになり専売制がはじまり、貢糖制がはじまった。



向象賢

1617年生まれ1650年中山世鑑編纂する巻一(琉球開闢)〜巻五(尚清)で終っている。1652年羽地総地頭(羽地按司朝秀)1658年年頭使1666年、摂政となり始めに王府内の社寺参詣、祝い、祭祀を簡略化し城内諸役人の数を制限し治者階級に質素と倹約命じたことを手始めに諸制度改革した。蔡温本中山世譜正巻



島津統治下の琉球情勢

尚真時代に各地域の按司を集め中央集権化して各按司の配下から代表して按司掟として按司の地に派遣していたが薩摩の命により尚寧王は按司掟を廃止して首里の諸士に配分して地頭代をおいた。


按司掟は按司の従臣として領地で農耕貢物の代理管理役であったがそれから階層分解していき南方諸国との通行通商も禁止され、明との冊封や大和通商も完全管理下に置かれて島津への貢納も増額となり国財政も圧迫しはじめ治者階級の苦悩も深く経済的圧迫は一般民に圧し掛かり百姓などは荒廃の途をたどる始末となっていった。


貧しくなると神に頼りたくなるものも多く百姓は祖宗を生きる糧としよりいっそうの農耕儀礼を祭り司ることを止めずユタなども多くなっていったのである。


後に羽地按司朝秀こと向象賢が制度改革の一つ改めべきこととして通達をだしているのである。ユタについて信じるものも多く偽りに惑わないようにとのことであるが「このことについて私の真意を知るのは薩摩の12人の御方であるとしている」。


このことはユタの項で説明しているが、つまり、アマミキョから儒教の統治技法の一つとして五穀儀礼がもたらされ人間も子孫繁栄しそれから始まったに過ぎないのということであるが諸悪の根源ということではなく尚真、おぎやかの時代であっても、さらに後の世であっても時代の背景を知り一部の心理的情報をあおったりエスカレートすることなく正しい情報や歴史を伝える社会こそより良い社会の礎だと思います。


沖縄に住んでいても沖縄の歴史、琉球の歴史すら知らず。琉球の歴史すら教えてもらえない知識の乏しい恥ずかしい県民だと思います。もっと自分の地の誇りと大切さの知り琉球王朝文化の歴史を理解し歴史そのものを好きになってください。学ぶ事がたくさんあります。これを読み終わったあたたはきっと自分の先祖を垣間見たことでしょう。

たどれば祖先は一つ阿摩美久が久高島(琉球)にわたるまでは「民は農耕を知らず禽獣を捕らえては食とし果実を拾って飯としていたらしいがその後ウキンジュハインジュに苗を植え久高、知念、玉城と各地へ農耕が広まった。

原住民へ農耕と信仰(農耕儀礼)を広め百姓を司り各地へ子孫を残した集団こそが天孫氏集団だがのちに我こそは按司だ王だ神だとアジクェー(按司喰い)競争がはじまり、ノロクェー(巫女喰い)もはじまっていくのである。負ければ首を獲られるか職を失い百姓になるかその地を追い出される。

沖縄において今では百姓も按司も君もノロもすべての人が天孫氏の後裔であり、さらに古くはアマミキヨ後裔である(遠い昔からのどん百姓で無い限り血が混ざっているであろう)

王家の聖地巡礼として東御回り(ヒガシウマーイ)も頭頭銘々(トートーメイメイ)遠い祖先のウヤファーウジを崇(アガミー)るための巡礼でアマミキヨ渡来地やウキンジュハインジュに英祖王が生まれたとされる地などをまわる。

中山世鑑の著者向象賢は「ひそかにおもうに、この国の人生のはじめは日本より渡りたる儀、疑ござなく候。然れば、末世の今に天地、山川、五形、五倫、鳥獣、草木の名に至るまで皆通達せり。然りといえども、言葉の余(末)の相違するは、遠国の上久しく通融絶えたるたる故なり」としている。(ほとんどの名前、言葉は通じるけれど言葉の相違は遠い国のため情報が絶えたるため)

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ARAKAKI MASARU