1368年に創建され、開山は薩摩の国(鹿児島県)坊津の一乗院より来琉された頼重法印(らいじゅうほういん)とされております。当時の琉球国王察度(さっと)の尊信を得て勅願寺として建立され、天下泰平、鎮護国家、五穀豊穣、万民豊楽を祈願し、県内で最初の密教道場となりました。以来、武寧王より最後の尚泰王に至るまで、王が即位する際には家来数百名と共に参詣し、当寺本堂に於いて君臣の縁結びの盃を取り交わしたとされています。
琉球王国時代を描いた小説『テンペスト』(池上永一著)の中でも、ベッテルハイム博士の滞在地として登場する当寺ですが、現在でも境内には「ベッテルハム博士」並びに同博士から牛痘種痘法を伝授された「仲地紀仁」両氏の石碑が建っております。
沖縄戦の際、海岸に近い当寺は艦砲射撃をまともに受け、戦前の建物や仏像、資料等の全てを焼失してしまいました。そこで、昭和22年頃より手始めに那覇市開南地区に場所を移して仮復興した後、もとあった若狭町(通称・波之上)にて本格的復興に取り組む事となりました。そして、現在の本堂、納骨堂、書院(講堂)は昭和50年頃に完成。その後、現在の庫裡は昭和60年に、山門は護摩堂の新設と共に平成6年に建て替えしました。
(山門の仁王像は昭和30年奉安)
戦後は先代住職による遺骨収集や慰霊塔建立を始め、県内各地での慰霊祭執行に携わって来ました。特に当寺に隣接する「小桜之塔」(対馬丸遭難者慰霊塔)では、現在でも遺族会を中心に多くの参列者が集まり、毎年盛大な慰霊祭が行われております。
また、同じく隣接する碑に「台湾遭害者之墓」があります。
これは1871年(明治4年)に宮古島の貢納船が遭難して台湾に漂着した際、原住民によって殺害された乗組員(54人)を弔う為に建立されたものです。この事件が後の台湾出兵(1874年)の引き金になったとされています。
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