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映画雑文 えんぴつ
A.I.
A.I. Artificial Intelligence
監督■スティーヴン・スピルバーグ
原作■ブライアン・オールディス
原案■スタンリー・キューブリック
脚本■イアン・ワトソン/スティーヴン・スピルバーグ
出演■ハーレイ・ジョエル・オズメント/フランシス・オコナー/ジュード・ロウ
2001 アメリカ 146分
http://aimovie.warnerbros.com/(オフィシャル・English)

http://www.ai-jp.net/(オフィシャル・Japanese)


正直言って、私にはワカラナイ。印象的な映像はあるけれど、主題が何なのかワカラナイ。かといって、どこをどうツッコんでいいのかもワカラナイ。むむ、そこがスピルバーグの凄いところなのかもしれないけど・・・。

唯一涙が出たのは、似非(えせ)ママが少年を捨てる場面。
「いい子になるから、いい子になるから」と何度も何度も繰り返し、似非ママの足に手に腰にまとわりついて追いすがる少年。辛いよねぇ。辛すぎるよ。

それでもアンタは“ロボット”だから捨てるのね。全く勝手なもんだ。

いやいや、似非ママに怒ってもしょうがない。そういう話しなんだから。この場面で日本映画『鬼畜』が頭をよぎった。ヒジョー(非常とも非情とも卑情とも)に恐い子捨ての映画だが、それ以上に、「鬼畜」という字の何とおぞましいことか。口にすることさえはばかられる。・・・で、似非ママは鬼畜か?

彼女は実子との確執を回避するためにロボットを廃棄したというわけだ。なるほど合理性に基づく決断だね。粗大ゴミなら私だって捨てたことはある。果たしてAIBOを燃えないゴミに出したら動物愛護団体から非難がくるだろうか?

なぜ捨てる?なぜ涙が出る?彼女は責められるべき?AIBOとハーレイ・ロボットはどこがどう違うの?彼は特別?・・・いや、それは違うだろう。目的あるいは用途に適したプログラムがセットされているだけで、それは他のロボットも同じこと。何も変わらない。ジゴロ・ロボットともね。

“知性”があろうが無かろうが、“リセット”に慣れきっている現代人にとってそれは大して重要でないかもしれない。

そして将来、ロボットに職を奪われた労働者が暴動を起こしたって不思議じゃない。過去には“打ち壊し”という例だってある。ロボット狩りをする人々が、私は悪玉に見えなかった。童話『ピノキオ』に出てくるサーカスの親父とは違う。

だからよく分からないのだ、この映画。観ていて、自分の感情の行き場がなくなる。誰にも感情移入できない。ロボットにも、人間にも。

ハーレイ君の迫真の演技に涙しながら、頭の中で様々な思いがクルクルと渦巻いていく。

“クローン人間”のこと。何があっても開発すると鼻息の荒い科学者がいる。

なぜ今クローンなのか?何のためのクローンか?どうして人間のクローンはダメなのか?クローンは主体性を持った存在になりうるのか?自らの意思で自己決定できる個人なのか?ロボットとクローンは人間のためにという点で並列の存在か?ならば役目を果たしたら処分されて然るべきなのか?クローンを捨てたらやはり鬼畜か?

「動物と人間の違い」について先哲たちは様々な定義づけをしてきた。
ホモ・サピエンス(知恵のある人)、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人=遊ぶことで文化を創り出す人)、ホモ・ファーベル(道具を使ってものを作る人)、ホモ・レリギオス(信仰心を持つ人)等々。

つまり、「人間」を定義したわけだ。動物と人間の違いは、「文化・文明」を創造できるかという点に集約できると思う。現在の私達の生活は、高度な物質文化から成り立っている。そして、それを支えているのは人間の“知性”だろう。

キューブリックは、この“知性”を、「人間」を定義づけるものとして位置づけたのか?
それこそ“知性”は、人間を向上させもするし、滅ぼさせもする。心して使うように!という彼の警鐘なのだと素直に受け止めることにして、この映画を胸に納めよう。

ロボットと共存する社会、クローンと共存する社会はもう近い。


2001.9.8
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*CATVの「CSN1 ムービーチャンネル」の番組「E!」で、『A.I.』に関するジュード・ロウのインタビューはとても興味深かった。ものすごく思慮深い人ですね、彼。機会があれば是非記録したいと思っているけど無理かなぁ・・・。


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