映画雑文 |
マグノリア MAGNOLIA |
1999 アメリカ 187分 |
監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン 製作:ジョアン・セラー 共同製作:ダニエル・ルピ 製作総指揮:マイケル・デ・ルーカ&リン・ハリス 撮影:ロバート・エルスウィット 美術:ウィリアム・アーノルド&マーク・ブリッジズ 編集:ディラン・ティシュナー 衣装:マーク・ブリッジズ 音楽:ジョン・ブライオン 歌:エイミー・マン |
|
出演:ジェイソン・ロバーズ/ジュリアン・ムーア/トム・クルーズ/ジェレミー・ブラックマン/マイケル・ボウエン ウィリアム・H・メイシー/フィリップ・ベイカー・ホール/メリンダ・ディロン/メローラ・ウォルターズ ジョン・C・ライリー/フィリップ・シーモア・ホフマン/エマニュエル・ジョンソン |
「ブギーナイツ」(1997)の強烈な印象そのままに、「自分の撮りたい映画を撮ってやるぞーっ!」という監督のやる気と心意気に拍手です! その独得な演出が要所要所でツボにはまり、「映画って楽しいですね。」なーんて、満面の営業スマイルでお茶の間に向かって手を振る映画評論家の気分になってみたり…。 劇中のコーラス。 モルヒネさえ効かない息絶え絶えの重病人までが、このシーンではしっかりとした声で歌詞を口ずさんでいる…。笑っていいんですよね、監督。私、吹き出しちゃいました。 音楽といえば、全編を通してBGMがかなり多かった。それも“歌”です。 3時間のうち、音楽無しの場面の方が少なかったのでは? 「ブギーナイツ」はディスコでガンガン踊っていたけれど、アンダーソン監督って好きなんですね“MUSIC”が。 私としては、画面よりも“音”の方が気になる部分もあって、もチョット静かな方がいいかな、と。 そして、“アレ“。(あの大きさからして食用モノなんでしょうか。) 一瞬何が起こったのか訳が分からなかったけど、あぁいうのはとても映画的で好きです。 その“影”をスローモーションで撮るところなんて、ニクイッ!、でしょ。 真っ白い壁にハッキリそれと分かるシルエットがまだら模様のようにくっきりと…。 キャ〜、鳥肌ものの映像センスだと思いませんか? 「なぜ?」 という疑問はこの際必要ないな、と思いました。 聖書からの引用というような意味づけや解釈も要りませんね。 だって、冒頭やラストで執拗に、「世の中、何が起こっても不思議じゃない」的エピソードを繰り返していましたもの。 なんのなんの、日本では絵本の中で既にブタが空を飛んでいますからね。(『はれときどきぶた』矢玉四郎著、岩崎書店) ただ、“大満足な作品”とまで言えない理由があります。それは“ドラッグ”。 常習者の女性が2人登場しますが、優しくないと言われるかもしれないけど、私は彼女達にどうしても寛容になれませんでした。 〈若い妻〉 ただただヒステリックな女性。大量の処方箋を持って薬局へ行くが、ジロジロと見られ怪しまれたことでそのヒステリックぶりは最高潮に達する。 「アンタなんかに私の何が分かるのよ! 何も知らないくせに!」 この台詞、皆さんも誰かに言った事ありませんか? 実際口にしないまでも心の中で呟いたことは? 例えば夫婦喧嘩で…、例えば恋人と言い合いになって…、例えばソリの合わない友人・職場の同僚に対して…、例えば偶然遭遇した見ず知らずの他人に向かって…。 私はあります。 そして、そう言いながら思うんです。「私もあなたのことを分かってないわね…」って。 誰も自分のことを理解していないと嘆く時、自分自身も他人を理解しようとしていないんだ、ということがあるのでは? ストーリーに登場するこの若い妻はまさにその典型でした。 もともと金目当ての結婚だったのが、本当に彼を愛していることに気付いた時には夫は死の床で、取り返しのつかない人生に愕然とする。 それが彼女のヒステリーの原因なのですが、余命幾ばくもない夫が生き別れた(自分が捨てた)息子を捜してくれという、最後になるかもしれないその願いの真意を確かめようともしなかった。 「そんなはずはない」と思うだけ。 「金目当てじゃない、本当に愛しているの」と宣言しているのに、です。 「私の気持ちなんか誰にも分からない」と思うのと同時に、「彼の気持ちも分かっていないのだ」ということが、彼女にとっては耐えられない重荷だったのかもしれない。 もし、少なくともその相手に愛情を抱いているのなら、そこから思いやりや優しさが生まれてくるのではないでしょうか。 ほんの少しの想像力で構わない。 相手の立場になって考えるとか、相手を労るとか、理解しようと努力するとか、己の欲せざることを他人に施すなかれとか…。(注:ニャンコは無神論無宗教です。あしからず) しかし、しかしです。夫の最期を看取ることをせずに、ただ自らの心のやり場を求めて“薬”に手を出す。 どうして“薬”なの? それが彼女の懺悔? ……アメリカは病んでいる。 「世の中、何が起こっても不思議じゃない」。 なぜか? それは何事も、〈原因〉があって〈結果〉があるから。〈原因〉が変われば〈結果〉も変わる。 また、その〈原因〉は〈選択〉の結果であり、何を〈選択〉するかによって、その〈結果〉は幾通りにも変わってきます。 原因A→結果A 原因B→結果B 原因C→結果C ・ ・ さらに、〈結果〉は同時に次の選択肢の〈原因〉になるわけで、 原因A→結果A=原因A’→結果A’=原因A”… 原因B→結果B=原因B’→結果A’=原因B”… 原因C→結果C=原因C’→結果A’=原因C”… ・ ・ しかし実際に経験できる〈結果〉は一つだけですから、「あぁ、あの時あーしていればなぁ」なんてことはしばしばです。 また私達は常に自分以外の誰かと関わりながら社会生活を営んでいます。 そうなると、自分の〈選択〉はもはや自分だけのものでなく、他人の〈選択〉にも影響を与えることになる。 こうして幾重にも絡み合った〈原因〉と〈結果〉が私達の周りを取り巻いている、ということを監督は表現したかったのではないでしょうか。 〈原因〉を“過去”、〈結果〉を“今”、と置き換えてみてもいい。 そして“未来”は、“今”の自分の選択によって幾通りにも変わっていく。未来は今!(ありゃ、これはコーエン兄弟だ。失礼。「未来は今」(1994)) 私は、「何が起こっても不思議じゃない」というのを〈可能性〉と捉えたい。そこに希望がある。 だからその選択肢に“薬”など加えてほしくないし、持ち出してもらいたくないです、監督。 映画を観た帰り道、この感想をどう表したらいいかとそればかり考えていました。 孤立するだろうなぁ…。 この作品が、誰もが抱える悩みや痛みの“癒し”をテーマにしていることも知っているし、登場人物達は無様で弱い本性をさらけ出している。 こう書いている私は、強い人・幸せに生きている人だからと思われるだろうか…。 〈司会者の娘〉 極度の精神不安定で、重度の“ヤク”中毒。 その原因は父親による性的虐待。父親にとっては記憶に残るか残らないかの些細なことだったが、彼女は深く傷つき、生きているのがやっとという具合。おそらく誰にも打ち明けられずにいる。 この彼女と彼女に恋する警官を通して監督のもう一つのアプローチが感じられました。 〈カタルシス〉(浄化)です。 「何でも話してごらん。」 日常よく耳にする台詞です。ただの気休めのようにも聞こえますが、しかし実際心の内を言葉にして吐き出してみると、これが本当にスッキリするものです。それがカタルシス。 フラストレーションを過剰に抱え込まないために有効な心理面の“合理的解決”のひとつとされています。カウンセリングの基本ですよね。 父親を避け、かたくなに心を閉ざす娘に対して警官は繰り返しこう言います。「何でも話そう。」 このように登場人物一人一人に誰もが直面するであろうさまざまな悩み・心の痛みを与え、そのありのままの心をさらけ出すことで作品そのものが強いカタルシス効果を持ち、観客は“誰かを愛し、誰かを許す”ことで自らも癒される…。 分かる。十分すぎるくらい伝わってくる。 ところが、ここでもまた今にも壊れそうな心の拠り所として“ドラッグ”が登場します。 うら若き乙女が鼻の穴広げてズズゥ〜、っていうのは美しくないです! なにも、教育的・道徳的であれとは思いません。 ただ、それぞれ行き場のない気持ちを表現する手段として、なぜ“ドラッグ”なのか、本当に必要な場面なのかなと疑問でした。 題材としてでなく、キスシーンやベッドシーンと同じように“ドラッグ”を持ち出すのには大いに抵抗を感じます。 …やっぱりアメリカは病んでいる、ということか…。 |