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映画雑文えんぴつ
マトリックス
THE MATRIX
監督・脚本■アンディ・ウォシャウスキー/ラリー・ウォシャウスキー
製作■ジョエル・シルヴァー
撮影■ビル・ポープ
音楽■ドン・デイヴィス
出演■キアヌ・リーヴス/ローレンス・フィッシュバーン/キャリー=アン・モス/ヒューゴ・ウィーヴィング
1999 アメリカ 136分


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やはり、「自分の目で確かめろ」ですね。 どれくらい素晴らしいか、何のどこをどうパクって(ヒント、アイディアにして)いるのか、何が物足りないのか……の話は山ほど出尽くされているので、やめましょう。

私は作り物が好きです。その方が自分の好き勝手に想像をめぐらせることができるから。だから映画や小説は日常描写や私小説よりも、作者の想像力をフル稼働したような虚構の世界がみたいと思います。

そこで、予告編〜本編を観て断片的に頭に浮かんだことを整理しながら、少し違ったアプローチ、勝手なイメージをしてみようと思います。




この映画にはとても興味がありました。というのは、あの予告編の映像……ではなく、ローレンス・フィッシュバーン(とてもたくましく頼もしく渋い演技だったけど、どうしてもホモっぽく見えてしまうぅ……ごめんなさい)の「ようこそ真実の世界へ」という台詞に惹かれたからです。

世界を多元的に捉える発想は小説や映画など創作の中だけでなく、哲学・思想の学問的立場でもよく行われています。神を引用することと同じように事物の本性・本質の概念にとってきわめて合理的なのでしょう。(不条理ではあるけれど)

◆虚構と現実

目の前の現実の世界を疑ってみる。

パターンとしては〈夢〉との錯綜です。そこで思いついたのが、最近観た「アンナ・オズ」
(1996、監督:エリック・ロシャン、出演:シャルロット・ゲンズブール)。サスペンスの要素もあり、シャルロット・ゲンズブールのおかげでお洒落に仕上がっています。でもこれは夢を扱ったというアイディアの面白さだけ。

そしてもう一つ、予告編から浮かんだのは筒井康隆の小説『パプリカ』。夢と深層心理をつなぐ精神分析学の領域をあざやかにSFで表現していて、好きな作品のひとつです。

この「パプリカ」的展開を予想して、交錯する夢と深層心理と現実をどう映像化するのだろうと勝手に期待していたというわけです。実際はまったく異なる展開でしたが、予想しなかった面白い発見がありました。

◆認識論

目の前の現実の世界を疑ってみる。映画「マトリックス」のそれは〈夢〉ではなく〈認識〉による現実との錯綜でした。

一切の事物は“実在”しておらず、ただ認識する心の働き(主観)によって生み出される、という大乗仏教の中心的理論=“唯識”があります。これは仏陀の説く縁起説をさらに発展させたナーガールジュナ(竜樹)の“無自性”という思想が根幹にあって、無自性とは、すべての存在が“固定的、実体的な本性=自性”をもたず、他のものに条件づけられて成立しているということです。

目の前にあるものは、有るから見えるのではなく見ようと思うから見えるのだと。そしてそれはまったく主観によるものなので、私が見えているのと同じようにあなたに見えているとは限らない、ということを理解しなければならない。そこにあるものがその通りに実在するのは疑わしいことで、心のイメージ(表層)がそれを存在させるのです。なぜなら、すべてのものには本体がない(無自性)から、ということ。

神が存在しない仏教ならではの思想ですが、経験論的でもありますね。これらはすべて“空(くう)”に基づく思想です。空を知ることで一切のこだわりや執着から解放され、また心を惑わす煩悩や生老病死などの苦は空によってその存在基盤を失い、人々は新たな可能性を手にすることができる。

心を解き放つ……とはまさしく悟ること。とすると、主人公のネオ達はさしずめその真理の境地に達したということでしょうか。

スクリーンの最新SFXを見ながら、「これは認識論だ、色即是空…」などと、独り思っていました。では、真実もまた主観的なものか。

◆数の概念(イメージ)

コンピュータ社会における事物の素材(本質、本性)の解釈が、“matrix(行列)”という数の概念というのは面白かったです。コンピュータと数字の関係は当たり前のようだけれど、最先端の科学技術は唯物論でなく観念論で支配されるという点ですね。

そう考えると、古代ギリシアの哲学者ピタゴラスが万物の根本原理を“数”に求めたというのも、十分説得力があるのでは?

 (こんな事考えてるから未だに数学が苦手なのです。)



監督兄弟がファンだというアニメ「AKIRA」(1988、監督・原作:大友克洋)のなかで、ゲリラの女の子が“アキラ”について話す件があります。

アメーバー(微生物)でしかなかった地球上の生物が進化する瞬間、生命の起源にもつながる、そこには想像をはるかに超えるエネルギー(力)が存在したはず。宇宙誕生のビッグバンの契機・きっかけにも匹敵するその力をひとりの人間の肉体に収めたとしたら…。
(古い記憶ですが、大体こんな内容だったかと)

かくして主人公の少年は宇宙そのものとなってしまう…。原作も知らないまま映画が初見でしたが、このテーマにとても感動したのを憶えています。




“数”という概念(0、1、2、3…)が生まれるきっかけ、その瞬間にも生命が誕生するのと同じくらいのエネルギーが必要、というか、存在していたのかもしれません。

コンピュータが知能をもつなんて荒唐無稽な話しだとずーと思っていましたが、もしかしたら機械に命が宿る、なんて事は有り得るのかな……なーんて。



この後、長い続編が待っています。今回はどうも説明的なイントロダクションという気がしました。どうするのかな、兄弟。

何か私も完結しないまま終わってしまいました。このレポートも「続く」、ということでご了承下さい。



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