雨が降る


 ぼんやりと外を眺めていた咲樹さきは、突然、バタンと勢いよく開いたドアの音に、驚いて肩を振るわせ、立ち上がった。
「ごめん……」
 消え入りそうな声が咲樹の耳を打つ。はっとなって声のした方向に目を向けると、つい先日出会ったばかりの14,5歳の少年がすまなさそうに立っていた。
「ううん……ごめん。こっちこそ、驚いちゃって」
 立ち上がった拍子にひっくり返してしまった椅子をゆっくりとした動作で起こすと、咲樹は「コーヒーを入れてきてあげる」とキッチンへと入っていった。
「なに? また描いてるの? 咲樹さん」
 遠慮がちに聞こえる声とともに、紙をめくる音が聞こえる。
 咲樹はその音が聞こえた瞬間、風のような素早さでダイニングテーブルへと戻った。そして少年が手にしていた原稿の束を横からかっさらう。
「あっ……ごめん」
「勝手に見ないでくれる」
 自分よりも頭ひとつ高い少年の顔を恨めしげに見上げ、咲樹は少年から奪った原稿の束を大事そうにテーブルの上に戻した。
「目の前で読まれるのってそんなにいや?」
 澄んだ少年の瞳が、真っ直ぐに咲樹を見下ろして問う。
「いや!」
 大声で叫びながら、咲樹は自己主張の激しいヤカンのうるさい音を止めに、再びキッチンへと消えていく。
「どうしてさ」
 少年は居間のソファーに長身の体を埋めるようにどかっと腰を下ろす。
 がらりと変わった口調でキッチンへと消えた咲樹へ言葉を投げる。
「どうしても!」
 ムキになって叫び返す咲樹の答えに、少年は笑いをかみ殺し、問いを重ねる。
「なんで?」
「いいじゃない。子どもには関係ないの!」
 返ってきた言葉に、少年の顔がむすっと歪む。もとの子どもっぽい拗ねた口調に戻って、もう一度キッチンへと言葉を投げた。
「咲樹さんの『子どもには関係ないでしょ』ってそれ口癖? 俺、子どもじゃないよ!」
 キッチンからわははっと咲樹の笑い声が聞こえる。
 ちぇっ。どうせ俺は子どもですよ。
 小さく呟き、少年は不貞腐れてソファーにゴロンと横になった。
「一樹かずき。できたよ。ほら」
 天井を睨みつけている少年の目の前に、ぐいっと湯気の立った入れたてのコーヒーが差し出される。
 漂うコーヒーの匂いにしばし浸って、一樹は咲樹からマグカップを受け取った。一口すする。
「すぐ拗ねるのは子どもだよ」
 ソファーに座り直した一樹に、すべてを暖かく包むような咲樹の笑顔が向けられる。
 向けられた笑顔と紡ぎだされた台詞のギャップに、一樹は顔をしかめた。
「咲樹さんはすぐ子ども扱いする」
「当たり前でしょ。あんたはまだ未成年の中学生でしょうが」
 笑う咲樹の顔をぎっと睨みつけて、一樹はまだ熱いカップの中の液体を喉にぐいっと流し込むと、ぱっと立ち上がる。
「どこいくの?」
 目を丸くする咲樹に「関係ないだろ」と捨て台詞を残して、一樹は大股で玄関へと続く廊下を歩いていった。
「夕飯は6時だからね! それまでにはちゃんと帰ってくるのよ!」
 背中に投げられる咲樹の言葉に、一樹はちっと舌打ちする。スニーカーを乱暴に履き、力任せにドアを閉めた。
 騒々しい足音がドアの向こうの廊下に響き、遠ざかっていった。
「まったく……子どもなんだから」
 すぐ拗ねて……。
 まだ半分も中身の残っている一樹のマグカップをキッチンに持っていきながら、咲樹はため息をついた。


 一樹少年を拾ったのは、二週間前、どしゃ降りの雨の日だった。
 公園の前で傘もささず、天を見上げて立っている姿は、咲樹の胸にずしんときた。
「君、家出少年?」
 声をかけるつもりはなかった。ただ、風景に溶け込んでいた少年が、とても儚げで、思わず近づいただけだった。消えてしまいそうなほど儚げで。
 それなのに、気づいたら少年に話しかけていた。
「君、家出少年?」
 咲樹のその一言に、何度も目をぱちぱちと瞬かせ、三度目の問いかけに、やっと反応を示し、頷いた。
「そう……」
 言葉が途切れ、雨の音だけが耳に届いた。
 そろそろ沈黙に耐え切れなくなったと思った時、少年の身体がぐらりと傾いた。
「ちょっ……」
 慌てて彼の身体を支えてやると、剥き出しの腕から通常以上の熱が伝わり、咲樹は思わず少年の顔をまじまじと見つめた。
「君、熱あるじゃない!」
 慌ててタクシーを捕まえ、咲樹は少年を自宅へと連れ帰った。中学生くらいの年齢とはいえ、異性を一人暮らしの家に連れ帰るのはどうかとも思った。しかし少年の家がどこだか判らない以上、連れ帰るしかなかった。
 親切なタクシーの運転手の助けで、なんとか自宅のある三階まで少年を運ぶことができた。意識を失っている少年をソファーに寝かせ、毛布で包んで暖かくしてやった。
 少年が意識を取り戻したのは、それから二日後のことだった。
 目覚めた時はすごくうるさくて、拾ってやるんじゃなかったと思った。が、慣れるとけっこう可愛かったりした。突然弟ができたように思えてきたのである。ひとりっこの咲樹にはきょうだいは憧れだった。
 少年は自分から一樹と名乗った。彼は目覚めても家に帰ることはしなかった。咲樹も強引に家に返すことはしなかった。彼の気持ちが落ち着くまでの間、客間として利用している一室を彼に貸した。
 慣れてくると少年は用もないのに咲樹の部屋に侵入してきては、黙々とマンガを描き続ける彼女の邪魔をするようになっていた。
 お願いだからっと叫ぶ咲樹の横から原稿をかすめとって音読したこともあった。その時は咲樹もかなり焦って本気で姉弟喧嘩並の盛大な取っ組み合いを始めてしまった。
 当然、描き上げたばかりの原稿は見るも無残な姿と化していた。それでも咲樹にはなんだか嬉しかった。


 ここ最近、二人ともこの状況に慣れてきたのか、皮肉の応酬までやりだすまでに接近していた。
 けれど……。
 この状況に慣れてはいけない、と咲樹は自分の心にストップをかける。なぜなら少年は親に見つかってしまえば、ここから出て行かなければならないから。
 どんなに険悪なムードになっても、一樹少年はこの家から出て行きたがらない。居心地が良いからだと咲樹は知っていた。自分自身がそうだから。
 咲樹自身、彼の数倍以上もこの居心地の良さに感謝していた。上京して早3年。時には独りぼっちの寂しさに枕を濡らすことだってあった。
 だから咲樹自身、本当に何を望んでいるか良く解る。
 一樹に出て行ってほしくない。ずっとこのままがいい。
 強く望んでいる自分がいる。でも、きっと、この状態は長くは続かない。明日にでも終わってしまう夢のような時間なのだから。
 だからこそ、いつか来る別れのときに備え、これ以上の深入りを自分に禁止していたのだ。
「ふぅー」
 描き上げた原稿を一枚一枚めくり、汚れの有無を確認し、封筒の中に入れた。開いて中身が出ないようにピッチリ封をする。
 今度こそは入りますように!
 この通り! と封筒に合掌をして、咲樹はふぅーと息を吐いた。
 漫画家のアシスタントをしながら、自分自身もマンガを描いて3年が経つ。何度も持ち込みをしているというのに、編集者はいっこうに咲樹の漫画を認めてはくれなかった。どこが悪いのかさえ言ってくれない。
 家出同然で上京してきたため、親の仕送りはあてにならない。電話をしてもすぐに切られてしまうというのが現状だった。
 アルバイトに明け暮れ、呼び出しがかかれば徹夜でアシに行く。そんな生活に疲れが出始めている。
 咲樹は子どもの頃から描いていた夢を諦めかけていた。
 これが入らなかったら、もうやめよう。
「だから……どうか今度こそ」
 願いをこめての囁き。
 テーブルの上に封筒を置き、ふと時計に目を向けて、慌てて咲樹は立ち上がった。
「やばい。もう6時」
 急いでキッチンに駆け込むと、冷蔵庫から夕飯の材料を引っ張り出し、料理に取り掛かる。
 6時と宣言しながらも夕食を用意していなかった場合、あの少年は唇を尖らせてぶうぶうと抗議してくること間違いなし。
 へたをすると大切な睡眠時間まで邪魔してこないとも限らない。
 時に迷惑な性格を披露する少年のことを考え、意識を彼に向けていた自分に気づいて苦笑する。それでも咲樹は食べてくれる人がいるなんて幸せだなぁと口の中で呟いた。


 ジリジリジリジリ。
 遠くで目覚し時計の鳴る音が聞こえた。咲樹ははっとなって目を覚ました。
 上半身を起こしたところで、何時の間にか自分がベッドの中の住人となっていたことに気づいた。
「あれ?」
 昨日の記憶をゆっくりと手繰り寄せながらベッドから起き上がると、着ている服に目を落とした。
 どうやら着替えずに眠ってしまったらしい。
 昨夜は遅くまで一樹を待っていたような気がする。
「あ!」
 叫んで、咲樹は一樹の部屋と化している客間へ駆け込んだ。帰ってきているのなら、一言ガツンと言ってやろうと思って。
 しかし、昨日の朝整えたままの状態の誰もいない部屋が目に映っただけで、少年の姿はなかった。
 帰ってきて眠った様子はない。
 とすると、彼は一晩中どこかで遊びほうけていたのだろうか。
 一発叩いて、叱ってやらなければと、すっかり保護者の気分になっていた。
 イライラと室内を歩き回るけれど、一樹が帰ってくる様子はない。
 とりあえず気分を落ち着ける為にコーヒーでも入れようかとキッチンに入った。
 食器棚からカップを取り出そうとした咲樹の目が、冷蔵庫の前でとまる。
 冷蔵庫のドアにクリップで留められている紙切れ。昨日まではなかった。
「なんだろう」
 うん? と首を傾げて紙切れを手に取る。
 紙面に目を通していた咲樹の目が大きく見開かれる。驚きに声を発することができなかった。
『迎えが来たから咲樹さんには悪いけど、おれ、帰るね。ありがとう』
 ミミズののったくったような汚い文字は、間違いなく一樹のものだった。
「そんな……かってな」
 不意打ちに身体中の力が抜ける。
「うそつき……」
 責める響きを宿した言葉を浴びせる相手は、目の前にはいない。もう、行ってしまった。
「うそつき……」
 力のない小さな声が、キッチンに響いた。
 目の前がぼぅと霞み、紙の上に透明な雫が落ちる。
「かずきの……うそつき」
 黙って出て行ったりはしない。
 少年を拾って1週間あまり経った頃、ふと一樹が真剣な口調で言ったことを思い出す。
 黙って行かないって言ったくせに。
「うそつき」
 咲樹は繰り返す。
「かずきのうそつき」
 今になって、自分が相手をこんなにも深く心に入れていたことを咲樹は知った。知らないうちに少年は彼女の心に深く、しっかり居座ってくれていたのだ。
『咲樹さん、ほんとは寂しがり屋でしょ』
『ひとりにしておくの、可哀想だもんな』
『だから一緒にいてあげるよ』
 心の中を見透かされたような言葉に、ドキッとすることもあった。
 おれ達、なんか似てるね。
 その言葉に異論はなかった。
 寂しがり屋なのに、そのくせ離れていかれるのが怖くて人を寄せつけなかった。極力人と交わることを避けていた。自分が傷つくことが怖くて。
 自分と似た少年の言葉に、だから素直に頷いていられた。
『咲樹さんの絵、おれは好きだよ』
 眩しい笑顔で囁くように紡がれた声。
『おれも描いてみようかな』
 珍しくそんなことを言う一樹にスケッチブックを渡したら、小学生のような、絵ともいえない代物を得意げにみせてくれた。
 嬉しそうに一つ一つ解説していく少年の顔が、今も目に浮かぶ。
『これがライオン』
『これが?』
 思わず吹き出した咲樹に、ぷーと頬を膨らませながらも、解説をやめようとはしなかった一樹。
 ひと通り説明し終わって、最後に彼は小さな声で呟いた。
『いいね。咲樹さんは。追いかける夢があるなんてさ』
 挫けそうになる度にかけられる彼の言葉は胸に響いた。
『頑張ってよ。デビューしたら、おれ買うからさ。その時はサインな』
『女の子向けだったら?』
 咲樹の意地悪な投げかけに、しばし言葉を失って、それでも一樹ははっきりと首を縦に振ってくれた。
『それでもいいよ。咲樹さんのならね』
 時折、大人びた表情をする一樹が眩しかった。
 二週間だけだったけれど、咲樹の中に希望の種と諦めないことを強く心に植え付けていった少年。
「もう……戻ってこないんだね」
 住人が一人だけになってしまったマンションの一室で、咲樹は呟いた。
 声がやけに響く。
 ああ、また一人に戻ってしまった。
 ひとりぼっちだ、と思った。
 けれど彼と会う前の以前の寂しさは戻ってはこなかった。代わりに2週間前とはほんの少し違う寂しさが胸を占めていた。
『諦めちゃ、ダメだよ』
 悪戯っ子の笑みを残して去っていった少年。
 「一樹」という名前以外、苗字すらも知らないなぞの少年。
 この2週間で咲樹の中で何かが変わった気がした。
 描いてみよう。
 ふと、そんな気持ちが湧いてくる。
 諦めかけていた心から、意欲という芽がポンと飛び出す。
 描いてみよう。今までのこと、全部。
 一樹と出会ったことを描いてみよう。
 小さな勇気が膨らみ、咲樹は乱雑なままのデスクへと歩み寄った。
 ペンを取って描き始める。


 外は出会った頃と同じ、優しい雨が降っていた。





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