まさみちゃん受難日記



 受難の幕開けは、さわやかな目覚めからだった。
 いつもなら残るはずの前日の疲れも、うそのようにとれた、まさしく快適な朝だった。
 築30年は経っている老朽化した2DKのアパート。その小さな窓を開け、隣接する建物の間から見える朝日を拝んだ。 いつもより半時間ほど早い起床。
 すがすがしい朝の空気が、美味しく感じられた。
 今日は何かよいことがあるのだと、予感に心が躍った。
 それなのに……。
 どこで狂ったのだろう?
 両脇を抱きかかえられ、抵抗する間もなく取調室直行となった27歳の青年は、憮然となった。 自分の身に何が起ころうとしているのか、神崎まさみにはまったくわからない。 いや、導き出したくない回答に、無意識に脳が思考を拒否したのだ。
 しかし、彼に降りかかった災難がそれで遠ざかるわけもなく、彼を取り巻く無言の圧力は、数秒ごとに重さを増していった。
 警察官としてはやや肉つきの悪い──これでも標準並みには筋肉はついているのだが──弱々しい印象を与える青年の全身に、 12対の眼差しが突き刺さる。
 四方を壁に囲まれ、唯一の出入り口は最も苦手とする人物によって遮られていた。 所轄最強のアマゾネス軍団を束ねる富永という女刑事その人によって。
 彼女は扉に背を預け、他人事のようにタバコを呑んでいる。
 部屋の中央には机の他、一脚の椅子が置かれ、彼はそこに力ずくで座らされ、12人の集団に取り囲まれた。逃げ場はなかった。
 まさみは半泣きになりながら、手渡された──押し付けられたという表現が正しいのだが──自分とはまったく縁がないはずのソレを持ち上げた。
 腕の中のものをのろのろと視線と平行に持ち上げる彼のぐるりを、完璧な化粧を施したお姉さま方ががっちり固めていた。 彼の正面では直属の上司たる係長が、同情の眼差しを寄越してくる。
 鬼気迫る勢いの女性陣を見上げ、まさみは顔色を伺うように恐る恐る問いを口にした。
「コレは何ですか?」
 何をさせるつもりでいるんですか?
 犬が尻尾を巻くような、怯えた雰囲気を醸し出す青年に対し、女性陣は互いに目配せを交し合い、得体の知れない笑みを浮かべる。
「知りたい?」
 駐禁取締り時と同様の柔和な愛想笑いをみせる彼女らの、目だけが獲物を捕らえた肉食獣よろしくらんらんと輝いている。
 背中に、いく筋もの冷たい汗が伝っていく。
「……知りたくない、です」
 ごくりと音が鳴るほど唾を飲み込み、思わず本音をこぼしたまさみの顔は、次の瞬間凍りつく。
 女たちの顔が変わる。母性を思わせる深い笑みを浮かべていたにもかかわらず、どの顔も目がそれを裏切っていた。 どの目も笑ってはいない。アイラインで強調されている分、獲物たる青年の恐怖は倍である。
「あら、そう? 知りたくないなら知らなくてもいいのよ」
 派手でもないが、地味でもない、抑え目のネイルアートを施した指を、笑みを刻んだ唇に這わせ、妙齢の美女が口を開く。
「でもそうすると、捜査に支障がでるわよ」
 それでもいいなら……。
 ただし、成果があげられなかった場合の全責任は、君自身にかかってくるけれど。
 断定的な物言いに、他の仲間も同調する。
 どちらにしてもこの件に関する責任はまさみ自身が被ることになるのは目に見えていたのだが……。
 いやだ……。絶対に嫌だ。
 助けを求めてさ迷わせた目は、四方の壁に阻まれ、外の同僚たちの誰にも届かない。唯一の同性である係長は彼から目をそらせたまま。
 諦められずにもう一度必死にさ迷わせた視線の向こう側で、短い髪をかきあげ、こちらを見ている富永刑事と目が合った。
 助けて!っと訴えるまさみの眼差しを、アマゾネス軍団のリーダーたる彼女は煙をゆっくり吐き出し、はねつける。
『諦めな』
 音にならない声を聴き、まさみはがっくりと肩を落とした。
 手の中のコレを渡された時点で、どうやら拒否権も奪われてしまっていたらしい。 いや、人選の段階ですでに拒否権はなかったようである。つまりは泣こうが喚こうが逃げ出そうが、 いまさら決定事項を覆すことはできないのだ。
 これ以上の抵抗は無駄だと悟り、まさみは半べそのまま、12対の瞳を見上げた。
 まさみの態度を肯定と受け取った女性軍は、満足そうに互いに目配せを送り、 彼の英断に拍手を送った。


『ということで今日からよろしく!』
 明るさの欠ける声と同時に降ってきたのは、デザイン違いの多くの制服だった。
 大雑把な説明を済ませ、さっさと立ち去った面々が最後に残していったのは、多量の制服だった。 しかもどれもこれも女子のもの。ブレザーにセーラー、スカーフやネクタイ、ベストやカーディガン。 プリーツスカートに巻きスカート、ボックススカートにタイトスカート、長さはどれもまちまちだが、 共通して言えることはどれも丈が思った以上に短い。
 色鮮やかな服の海に埋もれた状態で、神崎まさみは途方に暮れる。
『どれでも好きなものを選ぶといい』
「選ぶったって」
 無彩色で統一された室内。頑丈な灰色のデスクがしなるほど積まれた色鮮やかな布たち。 そのひとつひとつを摘んでは、思案に暮れてもとの山へ戻し、また拾っては戻しを繰り返す。
 管内の小中高校の校区内で最近頻発している変質者を取り締まるのが今回のまさみの使命だった。
 素っ裸にコート一枚を羽織り、登下校中の学生を狙っては、彼らの前でコートを全開にし、反応を楽しむ愉快犯的変態。 あちこちで自らの裸体を晒し、子どもたちを追いかけ回していた。 被害にあった学生のほとんどが女子学生であったため、 ことがエスカレートして万一のことがあってはとPTAや学校長らが動き始め、 警察にパトロールの強化を願い出たのがつい先日のことだった。
 経緯はまさみの耳にも入ってはいた。変質者を捕まえるための捜査は、おとりを使って行われるという方針も聞いたばかりだった。 女子生徒をターゲットにしていることから、おとり捜査も女性だと思っていた。それなのに、お鉢が自分に回ってこようとは。
 所内に女性がいないならまだしも、13人もいるのだ。剣道、柔道、空手、合気道、それぞれ有段者ばかりがそろった、 一般男性が裸足で逃げ出す猛者ぞろいのアマゾネス軍団が。
 それなのになぜ自分が……。
 童顔の刑事の、可愛らしい女装姿をみてみたいという彼女たちの思惑が組織を動かしたのだということを幸か不幸かまさみは知らなかった。
 おもちゃにされていることも知らず、まさみは深く重いため息を吐き出す。この部屋唯一の窓から雨模様の空を見上げながら。


 冬の一日は短い。19時ともなれば辺りは夜の闇に包まれる。
 下校の時刻も過ぎ、人影がなくなった街灯の乏しい通学路。 下校時刻も過ぎると、通りの民家からもれ聞こえてくるテレビの声や飼い犬の鳴き声が唯一の音となる。
 学生相手の商売なのだろう、学校向かいに構えている商店、その隣に並ぶ食堂はすでにシャッターが閉じられていた。
 ひっそりと静まり返った通学路を足早に歩く長身の影がひとつ。
 街灯の明りに照らされた髪はクセのある柔らかそうなショート。ほっそりとした顔はどこか少年っぽさがあった。
 日中よりぐんと下がり、気温も一ケタ台というのに、ブレザーに膝丈のスカート、膝までのハイソックス姿の大柄の人物は、 俯き加減で足早に通学路を歩いていた。
 柔らかな女性特有の線ではなく直線的な体のラインが違和感を覚えずにはいられないが、 遠目からみれば十分にさまになっている女子高生姿の人物は神崎まさみであった。
 が、やはり近づけば一発で男とバレてしまうおそまつな変装である。 顎のあたりにぽつぽつと濃いものがみえるし、スカートから伸びる足からはすね毛がみえていた。
 無理があるのはまさみ自身、十分にわかっていた。これでひっかかってくるのだとしたらそれはかなり間抜けな人物に違いない。 これで変質者を逮捕できるなど彼自身露ほども期待してはいなかった。が、やらなければ今後、 あのアマゾネス軍団になにをされるかわかったものではない。その一心で恥ずかしさを耐え、この格好を続けているまさみである。
 無理のある女子高生姿で通学路を歩くこと、すでに3日目。
 女子高生と見ることには無理があるといっても、あまり男臭さを感じさせないまさみの容姿である。 大半の女性に「可愛い」と言われてしまう外見だけに、実は予想以上に似合っていたりした。
「こんな姿、瑞穂には絶対にみせられない……」
 ぼそりとこぼした台詞には湿ったものが滲んでいた。
 自分を省み、情けなさと惨めさを覚えた。瞳いっぱいに浮かべた涙は今にもこぼれんばかりである。
 落ちそうになる雫を鞄を持たない右手で乱暴に拭ったまさみは、背後に迫る靴音に気づいた。
 いつの間に追ってきたのだろう。自分と相手との距離が近い。気づくのが遅れたか。
 それにしても……。
 意外にも効果があったこの姿に、喜ぶべきか悲しむべきか、複雑な感情がよぎる。
 ひっかかる相手も相手だ。
 もうすぐ解決だとこの姿から解放される嬉しさを感じる一方で、相手に対する情けなさも沸いてきてしまう。
 複雑な胸のうちを見せることなく、わざと演技で身体を強張らせ、歩調を速めてみた。
 近づく足音も歩調をあげる。伸びる影がまさみの足元に現れた。
 相手はどうやら小柄な人物のようだ。身長も高くなく、横幅もなさそうな。 被害者のあげた像とは多少違っているように思えた。被害者たちが語ったのはもう少し肉の付いた人物像だったはず。
 似た種類の変質者が複数いるのかもしれない
 思い至った結論に、まずいなとひとりごちる。もし複数だとすると全員捕まえるまではこの姿で町中歩き続けなければならない。
 自分の考えに囚われていた彼をいっきに現実に連れ戻したのは背後の人物だった。まさみの、女にしては太い腕を大胆に掴まえてきたのだ。
 反射的に自分の腕を引き取り、相手の腕を掴み返し、腕をねじ上げる。
「うわっ。い、痛っ」
 静まり返った空間に低い悲鳴が響き渡った。
 聞こえてきたのは聞きなれたハスキーボイス。
 耳を疑って見下ろした先には、青陵の緑のセーラー服に身を包んだ少女の背中があった。
「え? 結城! なんで君、こんなところに?!」
 慌てて組み手を外すと、顔をしかめてこちらを見上げる真っ直ぐな瞳とぶつかった。
 今日は珍しく長い髪をふたつにわけ、ゆるいみつ編みにしている。 意識的に眼光鋭い眼差しを緩めているのか、外見だけではなく身を包む雰囲気もどことなく知的な、優等生的印象を他者に与える。
「んー。まさみちゃんがなんか面白いことしてるって聞いたから」
 赤い唇を怒ったように引き結ぶ少女の肩は小刻みに震えていた。笑いを堪えているような表情に、まさみの顔が赤くなる。
「な、だ、誰から、そんな情報を」
「そんなこと、おれが言うわけないだろ。秘密だ。ひみつ。にしても」
 かわいいな。けっこう似合ってんじゃん。心配したけどこれなら変態も無事に捕まえられそうだな。
 他にも違う変態さんが釣れたりしてな、とニカッと笑む現役女子高生を、まさみは呆然と見下ろした。
 かわいい?? 変態も無事捕まる?
 意外すぎる予想外の台詞に、思考が停止する。
 そんな女装刑事に構わず、発言者はしみじみと上から下まで彼を観察し、 もっともらしい口調で顎のひげとすね毛の処理までするのがマナーだと続けた。
 マナー? 女装にマナーなんてものがあるのかよ!
 そこまで徹底する(なりきる)つもりはない! と言いかけ、まさみはそうではない、と思い直す。
 問題はそんなことではなく──いや、それもおとり捜査をする上では問題点のひとつではあるのだろうが ──今ここに少女がいることが最大の問題だった。
「結城! これは仕事なんだ。わかるね?」
 少女と同じ目線まで腰をかがめ、眉を吊り上げ、できるだけ厳しい口調で諭す。
 まじまじと至近距離でまさみを見つめていた相手は、彼のその言葉を一笑した。
「まさみちゃん。その姿で言っても悪いけど迫力ないよ」
「公務執行妨害で逮捕することもできるんだぞ」
 強い言葉も彼女にはまったく効き目はなかった。
「お上に協力するのは一般人の義務だろ?」
 家業が家業なだけに警察嫌いでもある少女から飛び出た台詞は白々しく耳に届く。が、言っていることは間違ってはいない。 義務かどうかは疑問が残るところではあったが。
「似合っているけど十分怪しげなんだよなぁ。捕まえることはできるとは思うけどさ、それなりに時間はかかると思うよ」
 少なくとも正真正銘の女のおれがいたら、捕獲率も高くなると思うんだよね。
「その姿を続けたいっていうなら協力するの、やめるけど」
 ビシッとまさみの鼻先に人差し指を突き出して、得意げに提案する少女にまさみの心は揺らぐ。
 この姿から早く解放されるのはありがたい。ありがたいが、もし相手が刃物などを持っていたりしたら、 彼女に危険が及ぶのは必至だった。
 一般の、しかも女子高生をおとり捜査に参加させ、怪我をさせてしまったとなれば、ことはおおごとになり、 まさみひとりの責任ではおさまらない。けれど、少女が言うように「女の子」が一緒に歩けばそれだけ解決も早まるかもしれなかった。
 女装からの解放か、女装姿を晒し続けるか。
 街灯に照らされた幼さの抜けきらない横顔が迷いに歪む。
 続けていればいつかは隠しているこのコトが、恋人である瑞穂にもバレてしまうかもしれない。 バレるだけならまだ傷は浅いが、この姿でばったり彼女と会ってしまったら……。
 立ち直れない。絶対に立ち直れない。
 顔色を赤、白、青といったりきたりさせる年上の青年を、現役女子高生は爆笑寸前の顔で眺めていた。 鼻の穴をぴくぴくと動かし、目に涙を浮かべ、堪えるように唇を固く噛みながらも大人しく、青年刑事が結論を出すのを待っている。
 やがて迷いに迷った苦渋の選択、という顔つきのまさみは朱蘭に向き直った。
「万一のことがあった場合、責任がとれないかもしれない」
 真面目にゆっくりと告げるまさみの前で、少女は笑う。
「まさみちゃんは大げさすぎんだよ」
 大丈夫だって。自分の身は自分で守れるんだからさ。
「一応これでも泣く子も黙る工藤組の13代目総長ですから」
 おどけた口調でさらりと流そうとするが。が、それでもまさみは真面目な姿勢を崩さなかった。
「万が一という場合がある。そのとき、君は後悔するかもしれない」
「変態一人捕まえるだけだろ?」
「ひとりとは限らないし、危なくないとはいえない」
 甘く見てたら痛い目をみるぞ。
 くそ真面目な姿勢を崩そうとしない青年刑事に、それまで茶化した物言いだった少女も真剣なものへと変化する。
「自分の身は自分で守る。協力するって言ったんだ。邪魔になるようなことはしない」
 おれに二言はない。
 街灯の少ない暗がりでにらみ合う二つの影は、もし誰かがここを通ったとしたら奇異な光景として長く記憶に残ったかもしれない。
 顔を突き合わせ、にらみ合っていた大柄と小柄のコンビは交渉が成立すると、やがて何事もなかったような穏やかな空気を身にまとい、 深くなっていく闇の向こうへと消えていった。


「もう一週間だな」
 小さなポシェットのようなカバンを振り回しながら、あくびをかみ殺し、小柄な少女が呟く。
 少女と同じ緑色のセーラー服に身を包んだ大柄な人物が、少女と同じ歩調で自転車を押しながら並んで歩いていた。 こちらは360度周囲にアンテナを張り巡らせるように、気を張り詰めている。
 おとり捜査は今日ですでに1週間を経過していた。これといった成果はなく、まさみは現在も恥ずかしい女装姿を世間に晒し続けていた。 といっても生徒たちの下校時刻が過ぎた今頃は、通学路を通る人の姿はない。 時折すれ違っていた会社勤めの大人たちの帰宅時間のピークもすでに過ぎていた。もう人と出会うたびに顔をそらすこともなかった。
 出没頻度の高い順で当日のルートを選び、それに合わせアマゾネス軍団がまさみの衣装を決め、彼を送り出す。 朱蘭と合流するのは現場に到着してからだった。
「今日もかわいいな」
 語尾にハートマークがつきそうな台詞がポニーテールの少女から飛び出した。 かすれた低い声音から繰り出された言葉は、耳を閉じて聴けば、くどき文句に感じるものだった。 だが発した主の性別と、言われた側の性別が逆な場合は、冷やかしにしか聞こえない。 実際彼女もからかいのために吐いているのだから手に負えない。
「結城……」
 ママチャリを押す手から力が抜ける。
 張り詰めていた糸が切れ、盛大に落としたまさみの肩は悲哀さえ感じさせるものだった。
「なんで? かわいいってほめ言葉だろ。素直に受け取っておけよ」
 おれなんて絶対に言われないんだからな。
 贅沢だぞ、と続けた横顔はむくれていたが、それも演技だとまさみは知っていた。それに男の自分が言われて嬉しい言葉ではない。
「それにしても……かからないな……」
 不機嫌そうな表情でわざと話を逸らした女装警官に、現役女子高生がさらに頬を膨らませる。
 わざとらしいと呟く横顔は、しかし話題を引っ張るつもりはなかったらしく、まさみの言葉に素直に頷いた。 が、思わぬ方向に話題を振る。
「やっぱり徹底した方がいいんじゃないの?」
 彼女の視線の先には青年刑事の、無駄毛未処理の膝小僧。
「いいんだよ」
 うるさいな、と珍しく声を荒げ、女装刑事は現役女子高生の視線を払った。
 そんなこと、できるわけがない。
「捕まらなかったらずっとこのまんま続けることになるんだろ?」
 中途半端で続けるより、いっそ腹決めて徹底させちゃった方が気分的に楽なんじゃない?
 無責任な発言をぽんぽん放ち、朱蘭は立ち止まり、しげしげと相手の格好を眺めやる。
 第一、まさみちゃんの格好って中途半端なんだよなぁ。
 そう言って見上げてきた眼差しがまさみの顔を捉えた。
 青年刑事は彼女の視線を払い、ハンドルを掴んでいた手を顔に持っていく。
「だめだって! せっかくやってくれてんのに」
 思わぬ可愛さに署の女性陣が悪乗りし、うっすらと目立たないようにチークやらルージュを 施した顔を台無しにしようとするまさみの手を、朱蘭が止める。
 化粧までしてるんだから徹底すればいいのに、というのが朱蘭の言い分なのだが、むりやりやられたまさみにとっては頷けるはずもない。
 すね毛は彼にとってのちっぽけだが最後の抵抗なのだが、朱蘭はそんな彼の事情など知る由もない。 まさみの腕を掴んだ少女は、指の隙間から覗いた彼の腕時計の針を確認すると、のんきな声をあげた。
「もう10時近いけど、まだ続ける?」
 歩き続けて身体は温まってはいるものの、これからぐんと気温は下がってくる。 セーラー服にカーディガン一枚の格好では寒さを防ぎようがなかった。
 これ以上続けても成果が得られそうにもない。
「そうだな。帰るか……」
 引き上げようとした瞬間、風が微かな悲鳴を運んできた。
 反射的に相棒の顔を見下ろすと、待ち焦がれていたといわんばかりの、らんらんと輝やく眼差しとぶつかった。 同時に悲鳴が聴こえた方角を振り返る。
 正門側。逆側か!
 瞬時にママチャリを方向転換させ、飛び乗る。その背に続けてひらりと飛び乗る小柄な少女の影。
「結城! 二人乗りは違法」
「非常事態に何を言ってんの」
 鋭い声は先を急げとせかす。肩にかかる重さが思いのほか軽いことに驚きながら、まさみは勢いよくペダルを踏んだ。
 切るような冷気が頬を、身体をいっきに駆け抜けていく。予想以上の寒さにすぐに指先がかじかんできた。
「こっちにひっかかってくれれば良いものを」
「同感!」
 舌打ちするまさみの呟きに朱蘭が同意する。
 人工の光が二つの影を照らしては過ぎていく。風を追い抜き、坂を駆けのぼり、 角を曲がるとコートを広げている男の向こうにおびえて顔を背けている少女の姿があった。
「変態!」
 静まり返った空間を引き裂いた声が、ふたつの影の間に滑り込む。
 ズサズサズサーと、地面を強く擦れる音がそれに続き、悲鳴の主を守るように男の前に二つの影が立ちふさがった。
 現れたでこぼこコンビは、仁王立ちの男をしげしげとみつめる。
 変態のぼさぼさの髪には白いものがちらほらと混じっていた。無精ひげは何日剃っていないのか、伸び放題に伸びているため、 ひとめで男の人相を知ることはできない。
 街灯に照らされた濁った瞳と、口角が下がりだらしなく開けられた口は、見た相手に不快感を与えずにはいられないものだった。
 この寒空というのに薄い色のコート一枚だけを羽織り、やはりその下には下着も何も着けてはいなかった。 かろうじて足は靴下を履いてはいたけれど、その姿はとても滑稽だった。何よりも男が晒している身体がどうにもいただけない。 鍛え上げられた筋肉ならまだしも、酒で太ったぶよぶよの腹を突き出した男の身体はお世辞にも綺麗とは言いがたいものだった。 正直な感想は「醜い」だった。
 突然の新手の出現に対応できずにいた男は、呆けたようにふたりを見つめ、やがてにやりと笑った。 どうやら獲物と思ったらしい。浮かべる笑顔は生理的に受け付けない類のものだった。
 まさみの中で苦手意識が芽生える。
 男に抱いた思いは少女も同じだったようだ。腕っぷしならそこらの男より自信がある朱蘭も、全身の毛を逆立てて、 嫌悪感丸出しの顔でまさみを見上げてくる。彼女にしては珍しく腰が引けていた。 口元を押さえているところをみると吐き気がこみ上げてきたのだろうか。
「結城? 大丈夫か?」
「おれ、ダメ。なんか吐き気が……」
 胸がむかむかする。
 僕もおなじなんだけどなぁ。
 胸の内でこっそり呟くまさみの背を、朱蘭の腕が前に押す。お前が行け! という合図に、青年刑事は抵抗を諦める。
 いつだって貧乏くじだよな。
 口元を押さえる指の隙間から、おぇっと続ける少女を下がらせ、まさみは嫌々ながら男と対峙した。
「おじさん。それ、しまってくれないかな」
 投げやりの言葉に意外な声が返る。
「見たいから来たんじゃないのか?」
 お嬢さん。
 ますますにやりと気味の悪い笑みを浮かべる男の最後の台詞に、まさみは衝撃を受けた。
 こいつの目は節穴か?
「僕のどこが女に見えるって言うんだ!」
 可愛らしいと言われたことはあるが、女と間違えられたことはない。
 かっとなって思わず口を出た言葉に、またしても屈辱的な男の声が返る。
「お? 男が女の格好をしているのか?」
 変態か?
 けらけらと笑いながら珍しいものでもみる目つきとなった男に、まさみの細胞という細胞から煙が噴出した。
「あんたに言われたくはない」
 顔を真っ赤にして叫んだまさみに対し、男は相変わらずコートを全開にしたまま、憤慨した顔で反論する。
「何を! 女の格好で、化粧して歩いている男が変態じゃなくてなんだっていうんだ!」
 濁っていた瞳が生気を取り戻したかのように、激しく怒りに燃えていた。
「そんな格好を年頃の女の子の前に晒してあんたの方こそ変態と言わないのか!」
 反論に次ぐ反論は怒鳴り声となり、辺りに響き渡る。
 いくつかの民家の玄関先に明りが点き始めたが、ヒートアップしているまさみは気づかない。 袖を引く少女と被害者の少女が呆れた眼差しを自分に向けていることも気づかなかった。
 近所の人々が出てくるのも時間の問題。
 このまま不毛な言い合いが続くかと思われたそのとき、幕を下ろしたのは現役女子高生であり、工藤組13代目総長その人だった。
「どうでもいいけど、早くそのちっさいものしまえよ! ちいさすぎて目にもはいらねぇんだよ」
 醜いだけの身体を晒すんじゃねぇ。このブタが!
 ハスキーボイスから繰り出されるドスの効いた声と、刃先の研ぎ澄まされた刃物のような鋭い眼差しは相手に多大な効力を発揮した。
 大声で相手を罵倒していた人物は、喉に言葉を詰まらせ、身体を強張らせる。 数秒遅れで、浴びせられた言葉の意味を理解したのか、怒りに真っ赤にさせていた顔が瞬時に青白く変化した。
 相当ショックだったのだろうか。青くなった顔が徐々に歪み、重く垂れた目からは透明な雫がこぼれ出す。
 変態男はコートの前をかき合わせ、冷えたアスファルトにへなへなと倒れこんだ。
 小さいっと言われたらなぁ。
 あまりの凹みようが気の毒だった。が、 この変態のために女装をさせられた青年刑事には、同情心はこれっぽちもおこらない。
 朱蘭のおかげで頭が冷えたまさみは、泣き崩れる男の腕を取り、 その顔に携帯していた警察手帳を掲げて見せる。
 変態男は抵抗する気も起らないのか、うなだれたまま動かなかった。
 その姿を見下ろしながら、こんな男の挑発に軽々と乗ってしまった自分を恥ずかしく思った。 激しく自己嫌悪に陥りそうになる気持ちを叱咤し、今回の功労者たる人物を振り返る。
 本当に効力があるんだな。
 とりあえず声に出してみただけだったらしい。台詞の予想外の効き目が彼女にとっては ひどく衝撃的だったのか、こちらも呆然としたまま動かない。 朱蘭の後ろでは彼女の背を羨望の眼差しでみつめる、変態に出くわしてしまった被害者の少女。
 またひとり彼女の信望者が増えそうだな……。
 無意識で、パンツが見えないようなしとやかな仕草で倒れた自転車を起こし、 まさみは暢気にもそんなことを考えていた。朱蘭が何を思っていたのかも気づかず……。
 神崎まさみの受難の日々はまだまだ幕を下ろしそうにはなかった。






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