那覇マラソン
2004.12.5
太陽と海、ジョガーの祭典といわれる那覇マラソンは1985年、ハワイ州ホノルル市と那覇市の 姉妹都市締結25周年を記念して始まりました。
今年、2004年で20回目の節目を迎えました。20回という節目の年だからか、今回は過去最高の参加者だったようです。
この那覇マラソンをホノルルマラソンのステップにするランナーも多いようです。
キャッチフレーズは「走るあなたが主役です」
本当にいろいろな方が参加されます。(笑)
「平和を祈念し、マラソンランナーの底辺拡大および市民の体育・スポーツ意識の高揚と健康増進 をはかり、あわせて冬場の観光客の増大と国際親善交流の促進に寄与する」というのが、 この那覇マラソンの大会趣旨です。
参加資格は16歳以上の健康な方。(国内外問わず)18歳未満は保護者の承諾を必要とします。 代理人不可。
募集は7月半ば〜9月末(県在住は7月半ば〜8月初旬)という早い時期です。ので、いつも知らないうちに 募集があって、知らないうちに締め切られています。
ちなみに、某会社ではいつのまにか会社側が社員の参加を決め、応募をし、強制参加をさせるとか。 (今でもそうなのかなぁ)
那覇マラソンはスタート地点である奥武山公園から国際通りを抜け、与儀公園沿いを通り、 南風原、与那原を走り、平和記念公園で折り返し、ひめゆりの塔、糸満ロータリーを通り、 兼城交差点を通り、自衛隊基地を横目に眺め、モノレール沿いに走り、 再び奥武山に戻る42.195kmのコースです。 コースの3箇所では制限時間が設けられ、折り返し地点である平和記念公園では昼12時15分、 31.8km地点では13時45分、ゴールである奥武山競技場では15時15分にゲートが閉じ、 参加者の足きりが行われます。 (制限時間までにその地点を通れなければ、自動的に失格となります)
季節はずれの台風が、思いもかけず直撃なのでは?という進路でやってきたために、 中止になるかもしれない、と直前まで危ぶまれました。が、大会前日に台風も温帯低気圧に変わり、 雨という予報だったにもかかわらず、なんと大会当日は晴れ間がみえるまでに回復しました。 午前中は雲が多かった上空も大会が盛り上がる頃には太陽がさんさんと降り注ぎ、暑いくらいでした。 (日焼け止めの効果のある美容液を塗りたくっていたにもかかわらず焼けました……悲しいほどに)
朝9時、15歳の女子アマチュアゴルファー宮里みか選手がスタートの合図である万国津梁の鐘をつくと同時に、 ランナーたちは走り出しました。
今回、チーフ(元会社では上司であり、現在では友人である彼女のことを私はこう呼びます)が 再チャレンジするということで、私も応援に行きました。
今回の応援の場所は、31.8km地点の糸満市兼城交差点。道沿いにケンタッキーやロッテリア、 TSUTAYAやベスト電器が並ぶ、にぎやかな場所でした。
私がここの場所を選んだのは、経験者である母の友人から、そこからが一番苦しく、 応援が必要なところだときいたからでした。
朝10時を少し回った時間の31.8km地点では人影はまばらで、ゆったりとした時が流れていました。
ボランティアスタッフさんたちが準備に入っている中、私はまだ人の少ない交差点で、 カードラジオを聴きながら、先頭集団の姿を今か今かと待っていました。
しばらく経って、警察車両が通り、報道の中継車が通りすぎると、 にぎやかな声援が波のように近づいてきました。首を伸ばし、人の間から覗いてみると、 1位のランナーが苦しそうに顔を歪め、やってくるところでした。 すぐにカメラを構えたのですが、うまくタイミングが合わず、 シャッターを切った時にはすでに通り過ぎたあとでした。
それからけっこう間があいてから2位の選手がやってきました。それが写真の方です。
その後、ぞくぞくとランナーが通過していきます。
沿道はいつの間にか応援の人々で埋め尽くされていました。 みなと一緒になって私もランナーに拍手と声援を送っていましたが、途中、 応援やボランティアの方々も写真に収めなければ、と場所を移動。 ちょっと歩いて31.8kmの通過地点へ。そこでは幅1メートルほどのブルーのシートが敷かれ、 そのシートの上を通り過ぎるとゼッケンに付けられているICチップが反応し、時間が記録される、 というハイテクな技術が導入されていました。
制限通過地点ということで、ラジオやテレビの中継もあり、 水やスポンジを選手に渡すボランティアの姿や、 エイサー演舞で応援している潮平太鼓の子どもたちの姿を映していました。
これがその写真です。沿道では水やスポンジの他に、バナナやミカン、チンスコウ、おにぎり、 ちゅーちゅー、塩、黒砂糖などいろいろなものが準備されていました。
朝ごはんもちょこっと、お昼はまったく食べていない私にとってはそこは地獄でしたけれど、 応援の声がとても温かくて、チーフが通り過ぎるまで、と写真を撮りながら、 そこで待機することにしました。
同じくチーフの応援に来ているはずの友人と連絡を取り合い、彼女の現在の通過地点を聞きながら、 ランナーをみていると、やはり以前と同様、仮装ランナーの姿が。 チョンダラーのようにクバ笠に着物姿の男性。ドラえもんを頭に乗せて走っている男性。 ピンクのナース服の女性。バニー姿の男性。虹色のアフロのかつらの上に、 アフロ犬を乗せて走る青年。セーラー服姿の女性。 ピカチュウやくまのプーさんの被り物の部屋着をつけて走る方々 (ピカチュウはこどもに大人気でした)浅黄色の新撰組の格好をされていた方もいたような気がします。 阪神タイガースのハッピ姿の方もいました。戦隊もののコスプレをして走る方 (一応息できるようには作っていたようですが、なんだかとっても息苦しそうでした。 私がみたのはグリーン、ブラック、イエロー。ピンクもいたかもしれません) 多かったのはクリスマス関係のコスプレでした。頭にクリスマスツリーを飾っていたり、 トナカイの角をつけていたり、男女ペアーでサンタのスカートを履いて走っていたり。 サンタのスカートがけっこう多かったです。で、一番びっくりしたのは、 ボーリングのピンの格好(どうやって作ったんだろう??と思うくらい素敵に作られていましたよ) のランナー。写真を撮るつもりだったのですが、その予想外の姿にあっけにとられ、 構えることもできませんでした。
待っている間にいろいろな方が通り過ぎて行きました。
視覚障害の方と伴走の方の二人三脚のランナーも何組かありました。 そのうちの一組は伴走者の方が遅れ、足並みが乱れる、といった光景もあり、 二人で走ることの難しさを垣間見たような気がしました。
また今回は韓国、台湾からの参加者も多かったです。確か前日に観光バスで団体で台湾のランナーは やってきたとニュースで聞きました。でも韓国人も台湾人も同じアジアなので、 顔つきでは私たちと全然変わりません。鉢巻にハングルが書かれていたり、胸に中国略字の漢字 が書かれていたり、で、そこでようやく、あ〜〜韓国の人なんだ、台湾の人なんだ、ということが分かります。 けっこうたくさんの方が参加されていたのにはびっくりでした。
また前回、コスプレ関係の方々に目を奪われ、肝心なチーフを見失った、という前科があったので、 あまり気をとられないようにはしていたのですが、コスプレが面白すぎて、 ついつい目がいってしまいました。そのため、危うくまたまたチーフを見失いそうになったのですが、 なんとか友人との密な連絡でなんとか走る彼女を発見。もしかしたらこの辺りでリタイアかも、 と思っていたのですが、思ったより元気そうな彼女は、 その先もゆっくりとした足取りでしたが走り続けました。
本当に苦しいのはこの地点からだと過去に参加されていた方々から聞かされていたので、 私は完走の手助けになれば、と、実はそのあとの10km、一緒に走ってみました。(汗)
13時30分あたりから糸満兼城交差点から、時には歩道で、時には車道で、早歩きしたり、 小走りに走っていたりしたのは、私です。ランナーのみなさん、その節はすみませんでした。 進路を邪魔してごめんなさい。m(_ _)m
ウォーミングアップをする余裕もなく、しかも9時からこっち飲まず食わずで応援していたので、 思っていたよりきつかったです。 途中、喉が渇きすぎてスポーツドリンクでも、と思って自動販売機を探したのですが、 なぜか見つからず、35km辺りでようやく自動販売機を発見し、慌てて水分補給し、 時間を気にするチーフに「なんとかなるよ」と励ましつつ、 メールで友人連に1km通過するごとにメールを送信していました。 (彼女たちは私が一緒に走っていることに気づいていなかったらしく、 40km地点でそれがわかった時には笑っていました)
ゆっくりとしたペースで併走しながら、沿道の応援をみていたのですが、 31.8kmを過ぎると沿道の応援はまばらになり、そのためか、ランナーにも力がなくなっていくように感じられました。 先へ行くにつれて、立ち止まる人、座り込む人が多くなりました。 残り10kmが思ったよりも遠く感じられました。 でも、諦めそうになる場所には、やっぱりいるのですね。応援の人たちが。 ちいさな子どもたちがパーランクーを持って、一生懸命声援を送っていたり、 勇ましいエイサーを踊っていたり。なんとも微笑ましい光景がランナーを待っていました。 小さな子どもたちの一生懸命な応援を聞いていると、あ、 走らなくっちゃっという気にさせてくれます。 10kmしか走っていない私でも思ったのですから、 ランナーの皆さんにはそうとう力付けられていたのではないでしょうか。
30kmを越えると、1kmずつがかなり長く感じられます。 最初に先頭を走っていらしたランナーの方も、35km前後の地点でリタイアされていました。
37km、38km辺りの地点は店なども点々としているため(また自衛隊基地が広がっているためか) 応援はぐっと少なくなるため、完走を目指す人にはここの地点が一番つらかったのではないでしょうか。 (私もこの地点で並走するのをやめようか、と悪魔の誘惑に駆られました)
この精神的葛藤地点を過ぎ、40km地点にくると今度は一転、大型店舗があるためか、 またゴールに近いためか、応援の数は倍以上に増えます。 沿道に埋め尽くされる人、人、人の群れ。歩き始めるランナーに「もう少しだぞ〜〜」 と叱咤激励をする男性。小さな身体で一生懸命大きな声を振り絞り、声を嗄らして応援する子どもたち。
そんな一生懸命な姿の人たちに見守られながら、ランナーは最後の力をふりしぼって、ゴールの奥武山 ゲートをくぐって行きます。
私もなんとか奥武山まで戻ることができ、チーフも制限時間内(あと数分でゲートを閉められるところでしたが) にゴールし、2回目の参加にして完走を果たしました。 完走すると琉球ガラスで作られたメダルがもらえるらしく、実はチーフはそれが欲しくて完走を目指していました。 でも結局、飛行機の時間があったために(那覇マラソンのために本土から来てたんですよ〜。で、マラソン当日に 帰るという強行軍でした)余韻に浸ることができず、そのまま空港に直行したので、私たちは その琉球ガラスのメダルをみることができませんでした。(当日受け取れなくても、後日郵送するそうなので、 今頃はチーフの手元に届いているはずですが)
私もその日と翌日、翌々日までは筋肉痛がものすごかったのですが、わずか10kmとはいえ参加できて 良かったと思います。でも本格的に参加する時は半年前からちゃんと練習しよう、と固く心に誓いました。
ということで、こんな感じですが、那覇マラソンについてレポートをまとめてみました。 伝わりましたでしょうか?(汗)次回はランナーとして参加できれば、と、ちょっとだけ思っています。
参加されたランナーの皆さん、応援ボランティアのみなさん、お疲れさまでした。
特にボランティアのみなさん、後片付けも大変だったと思います。(実は1時間ほど後に 31.8km地点に行ったのですが、落ちていたスポンジ、紙コップ、みかんの皮等、ゴミも含めてすべて綺麗に 掃除されていました)お疲れ様でした。
あ、今回の一番悔しかったことは、サンプラザ中野さんを見つけることができなかったことです。 (友人はみつけたそうで、思わず「あ、サンプラザ中野だ」と叫んだそうです。そしたら、「どうも!」 っと言って去っていったそうな。いいなぁ)それが一番悔しかったです。。
参考サイト
沖縄観光情報:真南風ネット(沖縄コンベンションビューロー)
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