清明祭(しーみー)


旧暦3月の<清明の節>に行う祖先供養の行事。 中国から伝わった祖先供養の行事です。(1) 『球陽』(きゅうよう)の尚穆(しょうぼく)王17年(1768年)の項に始めて、毎年清明祭を行うことを 定めるという記述があり、この年以降、年中行事のひとつとして行われるようになったようです。
首里士族を中心に、徐々に地方農村へ普及、伝播していきました。本島北部や先島地域(宮古・八重山) は例外で、士族階層だけに普及は留まったようで、ごく一部だけに広まったり、 簡略化されていたりしているようです。(16日祭を盛大にやったり)
清明祭は神御清明(カミウシーミー)と清明祭(シーミーサイ)の2つに区別されます。
神御清明は清明の入り日に行うことが多いですが、最近は入り日に近い休日に行う傾向があります。 (今年は清明の入り日は4月5日。神御清明は4月7日の日曜日に行う、という具合) 神御清明は(2)門中(ムンチュー)や(3)ハラの 構成員が費用を出しあって(4)宗家(ムートゥヤー)で料理を作り、 (5)サチヌユーの墓、(6)ナカヌユーの墓、 (7)按司墓(あじばか)、(8)ノロ墓等の墓を 含めて巡拝するらしいです。
また第2尚氏王統初代の王、尚円王縁の地伊是名島では村役場の人間が、以前は尚円王縁の家 (めかる家等4殿内)が 行なっていた神御清明を引き継ぎ、以前と変わらぬ方法(料理、器、作法すべて)で、行なっているようです。 (器は当時使用したものをそのまま使っています。通常は伊是名村ふれあい民族館に保管されている 道具を清明祭の時だけ持ち出すのです)
伊是名の村しどうの清明祭は、普通の清明祭の「お墓の前でお弁当を広げてピクニック感覚」とは違い、 子孫の繁栄を祈る儀式的な意味合いが強いもののようです。
第2尚氏王朝時代、尚円縁の地である伊是名からその年の清明祭が始まり、このような王府の清明祭が終わってから 民の清明祭を行なったのだそうです。 清明祭(シーミー)は(9)トーシー墓を対象に行う墓前祭のことをいいます。 門中やハラのメンバーが墓前に集まって、お酒や重箱料理を供え、ウチカビ (紙銭。あの世のお金と私たちは呼んでいます)を焼きます。
で、この後が本番。ひととおり、祖先供養の儀式(表現が大げさすぎるかな。ようするに手を合わせて 拝んだ後、ということ)が終わったら、供えていた重箱料理をみんなで食べるのです。それもお墓の前で、です。 お墓の前でピクニック、(酒もあるので宴会か……)という感じでしょうか。シーミーは日頃疎遠な親戚と顔を合わせる(親交を深める) またとない機会。久しぶりにあう従姉妹・従兄弟たちや親戚たちとわいわい楽しく騒ぐために参加する っと言っても過言ではないかもしれません。
清明祭は神御清明の後、後日行います。(休日に行うことが多いです。今年で言えば、14日、21日の日曜日、という具合)
仏前だけの清明祭をする地域も中にはあるようです。
この時期、休日になるとあちらこちらで墓の前でピクニックしている光景をみることができるかと思います。 それをみてみるのもまた面白いかも。


解説
(1)実録風に編集された編年体の琉球の正史。正巻22巻、附巻4巻からなり、外巻に『遺老説伝』がある。
(2)始祖を共通にし、父系血縁によって結びつく集団のこと。
(3)沖縄本島地域で同一先祖から出た男系血縁集団。門中の同義語として用いられる場合もあれば、 門中の下位集団(次男バラ、三男バラ等)もしくは分枝をさす場合もある。
(4)元、本、根源の意。本家のこと。
(5)過去から現在にいたる時間の流れを相対的に<先><中><今>の3つに分類する民俗時間観念の うちの最初の時代。沖縄全体のレベルでは神話時代をさすことも。この場合は始祖の時代の墓をさす。
(6)↑の説明にある真ん中の時代のこと。沖縄全体のレベルでは首里王府時代全般、人々の数代、十数代 前の祖先たちの時代をさすことも。ここでは始祖以外の最終年忌を過ぎた祖先たちの墓をさす。
(7)古くは琉球各地の政治的為政者。王府時代は位階名。または国王の子孫。そのお墓。
(8)祝女と書く。<祈る人><宣(の)る人>の意。按司のオナリ神(兄弟を姉妹が霊的に保護し、 優越した位置に立つという信仰。オナリは姉妹のこと)・根神(村落の古い草分けの家が根家。 村落祭祀の中心となる。その家の長男が根人─ニーッチュ─といい、その姉妹が根神となる。 オナリ神信仰との関係から根神が祭祀の主導権を握る)的立場から、やがて王国の政治的組織に 組み込まれ、公的な神女として公的祭祀の中心的役割を担うようになった。その墓。
(9)現在使用している墓のこと。遠い祖先を祀ってある墓は<アジシー>といって、区別している。

参考文献 沖縄大百科事典・琉球歴史便覧・RBCウチナー紀聞より

戻る