首里城祭
2001.11.2〜11.4
「首里城祭」は首里城祭実行委員が主催しています。
首里文化祭実行委員会が主催している「首里文化祭」とは別物のようです。「首里城祭」は県(または国)が、
「首里文化祭」は那覇市というか首里の地域が主催しているお祭りってところでしょうか。
今回は第3回世界のうちなーんちゅ大会とリンクしていたためなのか、文化の日を挟んだ3日間開催されました。
11月2日・3日は首里城の正殿に入る最後の門の手前にあるちょっとした広場に特設ステージを設けて、
伝統芸能(琉球舞踊や組踊り)が催されました。
一日目の11月2日は琉球古典芸能真髄披露と題して、特別プログラムが設けられたようです。
(ようです、としているのは実際には見に行っていないので。私は翌日の「沖縄伝統芸能祭」
の伝統芸能の宴のみをみました)
右下の写真は二日目の文化の日に催された「沖縄伝統芸能祭」の中の伝統芸能の宴で踊られた踊りのひとつ。
「四ツ竹」といいます。お祝いの座開きとして踊られる舞踊。被っているのは花笠。
手に持っているのが四つ竹。竹を手に挟んでカスタネットのように
(片手づつでやるんですが)音を鳴らします。
もうひとつの写真は「上り口説」(ぬぶいくどぅち)といって、江戸上りの様子を踊っています。
(ちなみに下りもあります)実は写真は従姉妹のねぇねぇ(お姉さん)です。写真撮っていた時は
気づかなかったんだけど、踊り終わったあと、メイクを落とした従姉妹が声をかけてくれました。
声をかけてもらえなかったらずっと気づかず家路についていたはず。
この写真の他にもいろいろ踊りはありましたが、長くなるので割愛します。この後、第2部として
(1)
組踊(沖縄の伝統芸能のひとつ。音楽と舞踊、台詞で構成された劇。戯曲。物語は過去→現在、という風に
時間の流れに沿って進められるため、能や狂言に似ています。《授業でそう聴いた記憶があります》
琉球国劇ともいうそうです)が踊られる予定でしたが、私は友人とふたりで同日に行われていた芸大祭にも
行きたかったので、みませんでした。この会場もうちなーんちゅ大会の影響か、外国の方々の観客が多かったです。
団体で来て、琉舞に魅入っている姿に、すごくうれしい気持ちでした。(人を魅了する文化があるのは誇らしいことだなと
思います)
最終日の11月4日。
この日は那覇の国際通りでお祭り最大のイベント、「琉球王朝絵巻行列」がありました。
世界のうちなーんちゅ大会の会場である宜野湾コンベンションセンターから、母に車をぶっ飛ばしてもらいまして、
どうにか時間前に国際通りに着くことができ、ほっと胸を撫で下ろし、ベストポジションを確保。準備万端で行列が見えるのを
待ちます。
しばらくして、行列の先触れをする人々が現れました。ここからが行列のスタートです。が、すみません……またしてもやって
しまいました。(汗) 登場する人々をきちんとデジカメに収めたんですが、行列の半ばくらいでデジカメがいうことをきかなくなりまして、
なぜかものの見事に肝心の国王王妃行列の部分がすっかり消えてなくなっていました。
(エラーが出た時にメカオンチのくせにカードひっぱったりあっちこっちいじったりしたのがまずかったみたいです。気づいたら
行列のほとんどが消えていました。一応最後まで頑張って行列追っかけて必死で再チャレンジ試みたんですが、その画像も消えていました)
ので、今回もすみません、説明文のみとなります。
首里城祭最大のイベントたる「琉球王朝絵巻」はもらったパンフレットによりますと、大まかに3つのグループに分けることができます。
最初に登場する琉球王朝国王王妃行列。真ん中に位置する中国皇帝使節団冊封使行列(さっぽうし・さっぷうし)。行列の最後を
飾るのは伝統芸能行列。
まず、王朝絵巻行列のトップを飾る国王王妃行列の先頭は先導と呼ばれる先触れの人たち。
水色や黒の衣装を着けた男たちが厳かに行列を知らせます。
この先導は、後に続く火矢、鞭(べん)、旗。路次楽の責任者で構成されています。江戸上りの時にはこれに当たる人を「儀衛正」といったようです。
(2)親雲上(ぺえちん)クラスの人がその役目を受け持っていたようです。
次に鞭(べん)──ワイブチ(割鞭)とも──という竹を4つ割にして漆を塗ったものを持った人々が続きます。行列を眺めている時にはそれが
竹で作ったものなのだということは分かりませんでした。ただ棒(武器)を持っていたように見えました。
次は火矢(ひや・方言では「ひやー」ともいいます)と呼ばれる棒の先につけた鉄の筒に爆竹を仕込んで打ち鳴らす道具を持った人たちがやってきました。
爆竹がうるさいので、彼らが通り過ぎるまで、私はずっと手で耳をかばっていました。
火矢持ちの爆竹が遠ざかると、今度は旗をもった人たちがやってきます。それがこの画像。
このような感じの旗を持っています。火矢の次にやってきた旗には「令」の字が記されていたようです。(パンフ参考・「令」の字旗は中国皇帝の命令で
来ていることを告げるもの)
旗の次に現れたのはにぎやかな一団でした。路次楽です。ソーナや馬ブラ、銅角(牛ブラ)、鼓、銅鑼などの楽器を打ち鳴らし、通りを練り歩きます。
続いて現れたのはまたしても数本の旗の列。今度の旗は行列に彩りを飾るための旗とパンフにはあるので、たぶんそれが右の旗なのだと思います。
旗の次には大きな傘をもった人が現れました。赤涼傘(せきりゃんさん)と呼ばれるものだそうで、これは説明を読むと差しかけるためのものではなく、
国王が行列をするときに揺らしながら行進し、目的地に着いたら立てて飾るもののようです。左下の画像の色違い(赤色が)となります。
その持つのも重そうな傘が通り過ぎた後には儀仗(ぎじょう)と
呼ばれる貴人の行列に付き添う武器を持った一団がやってきます。まだまだ国王、王妃はでてきません。
この武装集団が通りすぎると、今度は威厳に満ちた男の人が歩いてきます。大親(うふや)といい、国王や王妃の行列の際に、三司官の一人が
この大親になって行列全体の指揮をとるようです。ここまで来ると、国王へはもう少し。
次に続く黄涼傘(りゃんさん)もちの後に、ようやくメインの国王と王妃が
神輿のようなもの(屋根のついた周囲がなんにも覆われていない江戸時代の移動手段のカゴみたいなやつなんですけど)に担がれて登場します。国王はちゅーという乗り物に乗って(何人もの人がこれを担ぎます。担ぐ人のことをうちゅーふというらしい。
この行列の時には、実際は台車のようなものの上にちゅー《敬ってうちゅーともいう》を乗せ、カラカラカラーと引いていました)
国王がまず登場し、その後ろから同じようにちゅーに乗った王妃が現れます。国王、王妃は一般公募で選ばれます。
(沖縄在住であることが前提条件だったような
気がします。9月に首里城で催される「中秋の宴」で選ばれます)王妃の周辺はちゅーを担ぐうちゅーふの他女官が周囲を固めます。
ゆっくりと行進していく国王と王妃の後ろからは(3)摂政(せっせい)が、その後ろから(4)三司官
(さんしかん)が続き、しんがりを王府高官が務めます。
ここまでが琉球王朝 国王王妃行列です。
続いては異国情緒溢れる一団、中国皇帝使節 冊封使行列がこれに続きます。
冊封使の行列の最初は華やかな路次楽から。使われている楽器は国王行列の路次楽と同じです。その後に沿道の人々に対して注意を促す立て札(牌・ぱい)を持った清朝
時代の格好をした人たちが現れます。立て札には「静粛」という文字が確かに見えました。
立て札で注意を促した後は巡視と書かれた旗を持った人物が行進してきます。中国では役人の行列を権威付けるものとして必ず出したようです。
続いては正使を褒め称え、行列を飾り整える虎旗、人物旗、龍旗、雲旗、龍条旗等の旗が登場します。これらの旗は琉球側にはなく、冊封使側のみのようです。
続いて、儀仗が登場します。こちらは琉球側の儀仗とは少々意味合いが異なっているようで、行列を整えるための一団のようです。先が半月形の武器や鉄斧等の武器を
各々持ち、行進していきます。
次にやってきたのは清朝の武官。赤い帽子に清時代のトレードマークの「辮髪」をしています。この辮髪、かつらなんですが、(当たり前ですが)お尻近くまで長さが
ありました。
次に琉球側でもみられた黄涼傘(りゃんさん)を持った人が登場します。琉球側と同じく1人で持っていたのですが、とても重そうでした。(風もあったし)
その後を今度は龍亭(りゅうてい)と呼ばれる神輿のようなものが登場します。これは琉球側の王様が使用しているものよりも小さめで、1台目に皇帝の命を受けて遣いする者
に授けられる「節」が乗せられ、2台目に皇帝から琉球国王への「詔勅」が乗せられるとのこと。
その後ろからまた同じように綵亭(さいてい)と呼ばれる神輿のようなものが登場します。これも同じように2台あり、1台目には皇帝から琉球国王へ、2台目には王妃への
真冬の官服を作るための生地が乗せられているそうです。(実際、生地が乗っているのは見えました)
この後には琉球側にも出てきた赤涼傘(せきりゃんさん)が登場し、続いて(5)冊封正使・副使が登場します。冊封正使。副使も国王王妃同様、神輿
のようなもの(こちらは琉球国王のちゅーとは対照的に黒っぽい色の乗り物となっています)
冊封正使。副使の一団が通り過ぎると、また儀仗の一団が現れます。ここでは槍や矛の類を持って歩いていました。
冊封使行列の最後を飾るのは、文官で、赤い朝冠を被り、武官と同じく辮髪をしていました。
冊封使の衣装は↓の衣装か黒で統一された衣装となります。
最後のとりを飾る行列は伝統芸能行列です。
行列の一番初めは若衆(十代の士族の少年たちを指す)もよる若衆踊。琉球王朝芸能の華であり。御冠船踊の中心をなした、とパンフの説明にはありました。
赤を基調とした衣装を着けて踊ります。続いてドゥジンカカン(首里文化祭の女官の写真のような衣装。こちらは深紅の上着に純白のひだスカートのような衣装)を着けて女性たちが踊ります。
3番目は貫花(ぬちばな・紅と白を交互にした花輪)を使った踊り(庶民向けの雑踊り)を踊る一団が現れます。彼女たちは着物の片方の袖だけをちょうど遠山の金さんみたいに脱いだ状態
(でも中は赤い着物をちゃんと着けているので、素肌をさらすわけではないです)の格好で踊ります。4番目の団体は四つ竹になります。ちょうど上の方で画像つきで紹介している踊りです。
この四つ竹は衣装も鮮やかなので、見た目もとても派手です。竹の重なる乾いた音も独特で、面白いです。その次に現れるのは最近年中踊られるようになってしまったエイサーです。
大太鼓や片手で持てる小さな太鼓(ぱーらんくー)の力強い音とサンシンの音色が重なるダイナミックな踊りです。本当は念仏踊なんですけど、最近はなぜかいろいろなイベントで
踊られるようになり、年中見かけるようになりました。確か、この日は琉球国祭り太鼓も参加していたような気がします。
伝統芸能行列の最後、またこの行列自体の最後を飾るのは、那覇祭りや首里文化祭のときに画像つきで紹介しました旗頭、鉦鼓の一団です。綱引き等を盛り上げるために良く用いられる
もので、この行列でもトリを務めました。
かなり長い文章になりましたが、描写していないので、イメージしにくかったのではないかと思います。
文章では長いのですが、実際はそれほど行列の通過は長くないです。(見とれているからあっという間に感じてしまうのかもしれませんが……)
どんな感じだろう? と思われた方はぜひ一度、観に来てください。毎年、ほぼ同じ月日でやっています。
特に10月〜11月は大琉球祭り王国と銘打ってますので、この期間は催し物満載です。ぜひ一度いらしてください。
解説
(1)組踊
冊封使(中国皇帝使節)歓待のため、踊奉行に任じられた玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)が初めて創り、1719年の冊封式典のあとの重陽の宴で初めて
演じられた。彼が書き上げた「二童敵討」「執心鐘入」「銘苅子」(めかるしい)「女物狂」「孝行の巻」は後に5番、5組と称され、高く評価されている。
(2)親雲上
ペークミー。ペーチン。
王府時代の士族の称号。
(3)摂政
「せっせい」と読む。
国相、王相、諸司代ともいう。常置の職。王子か按司(あじ・国王の子孫で王子や按司《王子の子》の長男のこと)に任じる役職。政務は三司官が掌るので、やや形式的職務。
(4)三司官
さんしかん。
三法司、法司官、世あすたべ、阿司多部あさたべ、御さばくり等と呼ばれる。
国政の責任者。重要な政務は協議の上、国王の裁可を受け、軽易のものは協議決定して処理した。
(5)冊封正使・副使
さっぽうせいし・ふくし
中国の皇帝より「貴方を琉球国国王に任命します」という名代を受けて来琉する使者。冊封は琉球国王が代替わりする度に行われた。
冊封を受けてはじめて中国との朝貢貿易が許されるため、琉球側にとって冊封は大切なイベントのひとつだった。
正使は皇帝の名代として来琉していたため、冊封を受けるまでは琉球国王も絶えず排跪して迎接していたらしい。
清代は正使が満人、副使が漢人という組み合わせが多かったようである。
参考文献
首里城祭パンフレット・沖縄大百科事典・琉球歴史便覧
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