宮古島にドイツ文化村がある理由(わけ)


宮古島の上野という場所にドイツ村というものがあります。なぜ、宮古島にドイツ村があるのか、 といいますと……。
話は130年ほど前にさかのぼります。
1873年7月17日。ドイツ商船ロベルトソン号は中国の福州からオーストラリアに向かう航路の途中、 台風に遭遇し、宮古島宮国村(上野村)沖合いで座礁しました。遭難したその商船の乗組員8名を、 地元の人々が荒れ狂う海の中、救助しました。 そして34日間の看護の後、8月17日、役人は官船を仕立てこの8名の乗組員を帰国させたのです。
この事実を知った当時のドイツ皇帝ウィルヘルム1世は、自分たちの命も危うい状況で乗組員を 救助してくれた宮古島の人々の勇気ある行動に感動し、1876年3月、軍艦チクローグ号を派遣し、 上野村に記念碑を建てさせたといいます。記念碑のサイズは碑面約170×60cm。碑文の表はドイツ語と 漢文が。裏には漢文が記されていたといいます。が。その記念碑のオリジナルは残念なことに長い年月、 風雨にさらされたために文章等が読めなくなり、撤去したらしいです。(と大学の講義の時聴いた気が……)
皇帝はまた、記念碑だけではなく、地元の人々に時計等の贈り物をしたといいます。
その出来事をきっかけに宮古島とドイツの交流は始まり、第2次世界大戦を挟み、現在も続いています。 そして上野ドイツ文化村はドイツとの交流の拠点として建てられました。

ということでここまでが表の話。
実は、ドイツ皇帝を感動させたこの出来事には裏話があるのです。

地元の人たちの決死のこの行動。実は王府が作成したマニュアルに基づいて行ったものだったりしたのです。
あ、夢をぶち壊すようなことを書いてすみません……。ですが、そうらしいのです。
沖縄は昔から台風の通り道でした。そのため、沖縄沖で座礁、遭難する船があとを絶ちませんでした。 時には欧米の船が、時にはアジアの船が、難波しました。そのため、王府はマニュアルを作成し、その体制を整えたのです。
マニュアルには乗組員だけではなく、荷物も可能な限り拾い上げるように決められていたようです。
またマニュアルは救助だけでなく、そのあとに関しても記されたものがあるのです。
滞在中は隔離するだとか、同時期に救助された他国の者と鉢合わせにならないように、移動する際も 十分に注意するように……etc。季節風が吹き、船が出港できるまで島役人たちは細心の注意を払い、 彼ら漂着民に接したといいます。
また余談となりますが、異国人より質問があった場合のマニュアルなんかも存在していました。
「異国人江返答之心得」(「沖縄県史料」前近代3 ペリー来航関係記録2より)といいます。ようするに「こう聞かれたらこう答えてね」というようなマニュアル なんですが、琉球の産物やら、国土面積やらけっこう事細かに記されています。けっこういろいろとマニュアルはあったようです。
しかし……。
いくらマニュアルがあって救助をすることが決まっていたとしても、 やっぱり荒れ狂う海に命の危険も顧みず、 異国船の乗組員を救助した島の人々の勇気ある行動は、十分賞賛に値すると思います。立派です。
ですからこの裏話は、こんな風に行政側でも配慮はあったんだよ、とちょっとした雑学ていどに 思っていただけると嬉しいです。
以上が、宮古島上野ドイツ文化村について、と、その裏事情でした。


参考文献
沖縄大百科事典・「異国人江返答之心得」



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