石川ジェット機事件


または宮森小学校ジェット機墜落事件といいます。
私が知っている名称は後者の方です。
現在、この事件のことについて知っている人は多くはありません。実際、私の周囲でも知っている人は あまりいませんでした。
今回宜野湾市の沖縄国際大学構内への米軍ヘリ墜落事故に関連して、過去に存在した米軍に絡んだ 事件のひとつとしてわずかな時間、全国版のニュースで取り上げられました。
今回このような形で取り上げられなかったとしたら、ずっと忘れ去られたままだったのではないでしょうか。
私はこの事件について大学時代に姉から聞かされました。その前にももしかしたら母から聞かされていたかもしれません。
事故があったその日、腹痛を訴え学校を休むと駄々をこねて泣いていたわが子をむりやり学校に送り出し、 子どもを失ったという母親の話を姉から教えてもらい、そのとき過去にこのような痛ましい事件が存在したことを知りました。
その母親はあの時むりやり送り出したりしなければ、と、今でも悔やみ続けているそうです。

事故の概要は以下の通りです。

1959年(当時はまだアメリカ世の時代です)6月30日。 嘉手納基地第313空軍師団所属のF100Dジェット戦闘機が訓練飛行中、時速463km、高度約300mに達した地点で エンジン火災を起こす。急きょ嘉手納基地や石川市内を避け、機首を人家のない丘陵地に 向けるが制御不能に陥る。パイロットは脱出を図るも、機体は午前10時30分頃(または10時40分頃) 、授業中の石川市立宮森小学校に墜落、炎上した。
死者17名(うち児童11名)負傷者210名(うち児童156名)、住家17棟と公民館1棟、小学校の3教室が全焼し、 住家8棟、小学校2教室を半焼するなどの大惨事を引き起こした。
事故当時、石川市上空を黒煙が覆い、市全体への火災の広がりを心配した住民の避難騒ぎも起こったといわれている。

事故後の米軍、沖縄側、両方の対応を大まかに以下に記述。
同年7月2日。米軍は「不可抗力の事故である」と正式発表を行う。また必要な応急処置を講じ、前日の 7月1日には立川基地から現場視察にやってきた第5空軍司令官バーンズ中将が「十分な補償」を確約した。
7月27日。石川市主催の合同慰霊祭に出席したブース高等弁務官が「アメリカを代表して最高の償いをする」 といった内容の弔辞を述べた。それ以前にも「すみやかな補償」と何回となく繰り返し発言されていたにもかかわらず、 補償問題は進展しなかった。ようやく解決した補償問題は死亡者ひとりあたり4500万ドル、重傷者については 2300〜5900ドル、3年がかりで総額119066ドルが支払われた。
一方、沖縄側もその間、立法院が異例の本会議を召集し、米軍に対する厳重な抗議を全会一致で可決。 対軍賠償問題特別委員会を設置。
7月6日にPTAや沖社協、遺族連合会、婦人連盟、沖青協などの団体が「石川市ジェット機事件対策協議会」 を結成し、米軍へ救援・事故防止対策の要求や救援運動を展開。
教職員会では20万の児童・生徒にひとり3セント、教職員にひとり20セントずつ見舞金を集め、 本土の関係団体の協力を得て負傷した児童の治療費にあてる活動を行っている。
また本土でも義捐金活動が起こり、8月13日には日教組などの14団体が全国的な運動として取り組むことを決め、 多くの見舞金を寄せた。

この事件はその後の反基地運動、沖縄の日本復帰運動に繋がっていきました。
当時は沖縄内外を巻き込んで大きな事件として取り上げられたようですが、現在では忘れ去られています。
基地のすぐ近くに住宅街が広がり、いつ同じような事件が起こらないとも限らないのに……。
轟音を響かせ、我が物顔で通過する戦闘機の姿は、当たり前のように現在でもみかけられます。
今回起こってしまった沖国大米軍ヘリ墜落事故も住宅街の近くでした。

基地とは何ですか? なぜなければいけないのでしょうか?
武力でなく、平和的な解決は望めませんか?

この事件は現在にも続く沖縄の悲しい歴史の一部分です。



参考文献 沖縄大百科事典
         宮森小学校事件


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