疎開船─主に対馬丸について
沖縄では6月23日の慰霊の日が近くなると、戦争を題材にした映画の上映会が行なわれます。
その主たるものが「対馬丸─さようなら沖縄」
60年前の戦争で沈んでしまった疎開船を題材にしたアニメです。
私がこの作品を初めてみたのは幼稚園児の時。何がなにやらわからないままに兄弟とともに
親に手を引かれ、見せられました。観ながら恐怖で泣き続けていたのを覚えています。
この物語のあらすじは以下の通り。
「緊迫感を増してきた那覇の町。学童疎開に関する議論が学校で行なわれます。
喧喧諤諤の討論の結果、県外への学童疎開の児童集めがすすめられ、
教師は親を説得する為に走りまわります。
子どもを手放すことに不安を覚え、反対する親もいました。
そんな親に隠れ疎開手続きをする子どももいるなか、
主人公清も反対する親に疎開をしたいと訴えます。
8月21日、約5000人もの疎開者と見送りの人々が港に現れ、子どもたちは親が見守る中、対馬丸に乗り込みます。
午後6時30分、予定よりも遅れた時間に対馬丸は出港します。こどもたちの不安と期待を乗せて。
ホームシックにかかる子、はしゃぐ子ども、それぞれの思いを乗せた翌22日夜。
船はもっとも危険な海域に入ります。教師たちは万一を考え、子どもたちをなるべく甲板で寝かせるようにします。
同日22時12分。悪石島近海。
合計3発の魚雷を受け、火災を伴い、対馬丸は約12分で海の藻屑と消えました。
混乱する船内。船上へ向かう縄梯子に我先にと殺到する子どもたち。飛び込めない子どもを海へと放り込む大人。
手に手をとって海へとおちていく子どもたち。
すでに息なく海面に浮かんでいる子ども。
ほとんどの子どもたちは船とともに海中へと沈んでいきます。
助かった子どもや大人たちはそれぞれ浮遊物、いかだに捕まり、海上を漂います。眠ったためにいかだから落ち、
サメの餌食になる者。高波に攫われる者。通りかかった漁船に救助された者。近くに島にたどり着いた者。
清も島に辿りつき、助かります。
約一ヵ月後、助かった彼らは沈没の秘密を守るように言われ、ひっそりと沖縄に戻ってきます。
友達が死んだ事実を言えない清。その彼を那覇の町を焦土と化した10・10空襲の炎が襲います」
壮絶な体験をした上に、また彼は再び地獄をみることになる。
そんな絶望が待っていることがわかる、ラストはそんな悲しい終わり方です。
まだ幼い子どもが見るにはショックの強いものかもしれません。
本当に怖かった。今でもこのアニメや絵本は見ることができません。
ですが、私は知りたいと思いました。アニメではわからないこと。絵本では知りえなかったことを。
対馬丸には1661名もの人が乗っていました。一般の人が835名。学童が826名。学童の年齢は6歳から14、15歳でした。
死者1484名。(氏名判明者)生存者177名。生存者のうち、児童の数は59名でした。犠牲者のうち半数以上がこどもたちで、
10名中9名が命を落とすという大惨事でした。
生き残り、郷里に戻ってきた子どもたちを待っていたのは緘口令でした。出迎えたのは私服の警官。
子どもたちは警察官に絶対に他言はしないように、と約束させられました。
死んだ友達の親に「あなたは戻ってきたね。私のあの子はどうして戻ってこないの?」そう聞かれても
打ち明けることも泣くこともできず、ずっと胸のうちに秘めなければならなかったのです。
どうして彼らは死ななければならなかったのでしょうか。
1944年7月、当時の内閣は南西諸島の非戦闘要員であるところの老人や婦女子を南九州、
台湾に疎開させるよう県知事に指令を出します。沖縄県もこれに応え、疎開者を募りますが、疎開先の生活や、
家族が離れることへの不安、海上の危険などで応募者は少なかったといいます。
その中で集団疎開計画は強行されます。
7月に第1陣。
翌8月14日、約200人の児童が潜水母艦で出発。これが第2陣となりました。
第3陣は同月21日、学童1517名を乗せた和浦丸、一般疎開者約1400名を乗せた暁空丸の僚船2隻、
護衛艦艇として駆逐艦蓮、砲艦宇治、
そして1661名の疎開希望者を乗せた対馬丸。計5隻の船団(ナモ103船団)は午後18時過ぎ、予定の時刻より
遅れ、那覇港を出港しました。行き先は長崎港の予定だったようです。
しかし当時、米軍は日本に対しての戦略として「海上封鎖」を行なっており、大陸などへの補給路を
絶つため、沖縄近海を監視していました。米軍の魚雷による船舶への攻撃により遭難する船舶が相次いでいました。
そんな背景があり、疎開の為のこの船団も、無線の傍受により那覇港出港時刻、長崎港への到着時刻、など
米軍側に知られていました。
船団の主導船であった和浦丸には敵レーダー電波の受信装置と、電波かくらん用の発信機が装備されていました。
そのため、彼らをみつけた米軍の潜水艦は、この5隻の船団を重要な船団と判断してしまいました。
2列縦陣で航行していた船団は潜水艦に自分たちを発見されたことを知り、潜水艦から逃れる為、本来の針路から東よりに進んでいきます。
魚雷攻撃から身を守る為、蛇行を繰り返しながら。
攻撃する機会を何度も逸した潜水艦は悪石島近海で、船団を捉え、魚雷を発射します。
魚雷は潜水艦に一番近い位置に居た対馬丸にまっすぐに向かいました。
魚雷の進行方向と直角になっていた対馬丸は、魚雷を視認しつつもかわすことができず、魚雷をその身に
受けてしまいます。
書物によって表現はさまざまですが、船首をかすめたこと。船倉に命中してしまったことは確かなようです。
魚雷数発のうち2発は学童のいる真下の船倉、船尾の一般疎開者の下の船倉に命中したようです。
魚雷を受けた対馬丸は白い蒸気を吹き出し、煙突から黒煙をあげ、速度がとまり、運転が停止し、
右舷に10度傾きます。停電した船内では視界が悪く船上へ出ることも困難でした。また船上へ出る為の
はしご、縄ばしごの類も数が足りていなかったらしく、船倉はパニックに陥りました。
新たな魚雷の命中で、船底に穴があき、多くの人々が落ちていったそうです。
最初の魚雷命中から11分後。
対馬丸は船尾を傾け、北緯29度33分、東経29度30分の奄美大島悪石島沖合いで、
船首が大きく上がった状態で海の底へ沈んでいきました。
対馬丸が攻撃を受け、沈没していく時、僚船2隻は救助か遁走か躊躇したようですが、
絶滅より生き残りを選んだ彼らは、遁走の道を選びます。
魚雷の再装填のためその場を離れた潜水艦の船員たちは、沈み行く対馬丸と、海上に漂う人々と
幼い子どもたちの姿を目撃し、その惨事に、その後の輸送船に関しては攻撃を控えたそうです。
対馬丸は今でも悪石島付近に沈んでいます。引き上げは事実上不可能ということです。
今年8月22日。対馬丸沈没の日、若狭に対馬丸記念館がオープンしました。
親と離れ、海底深く沈んでしまった我が子に、親の傍へ、地上の対馬丸を、という思いで作られたのだといいます。
悲しい事実に、みなさんもどうか触れてみてください。こんな悲しい事件は二度と繰り返さないために。
参考文献 写真集 沖縄戦/続・対馬丸遭難の軌跡の真相究明
対馬丸記念館
対馬丸─さようなら沖縄
うちなー紀聞/RBC2004年9月5日放送分
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