静寂

静寂を破る電話の音が、家中に鳴り響く。
突然の音に、私は目を覚ました。目を覚まして初めて、私は自分が寝ていたことを知った。
何時の間に寝てしまったのだろう。
隣で、姉が起きる気配がした。
電話に一番近いのは、寝る前の位置からいって、たぶん私だろう。
ぼんやりとまだ覚醒していない頭で考えて、私は子機へと手を伸ばした。
けれど、寝ぼけているので、空を掴むばかりの手は、目的のものを探し出せなかった。
急くように、鳴り続ける電話のベル。
「とも、電話」
姉の声に、「わかっている」と返事を返し、私はようやく子機を掴んだ。
「もしもし」
寝ぼけたままの声で電話に出ると、受話器の向こうから、落ち着き払った母の声が届いた。
「寝てたの?」
「うん」
妙に落ち着いた声に、心臓がドクンっと激しく脈打つ。
「慌てないで、こっちにおいで」
静かな、静か過ぎる声に、鼓動が激しくなる。
知らず背筋が伸びた。眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「わかった」
私はそれだけを答えるのが精一杯だった。
こみ上げてくる吐き気。
きっと認めたくないのだ。祖母が死ぬということを……。
とうとう、来てしまった。
表に出そうになる吐き気を、懸命に飲み込んで、 握った受話器を元の位置に戻し、私は傍らの時計に目を走らせる。
3時30分を過ぎていた。
母との短い会話を終えた私を、起きてきた兄と姉が見下ろしてくる。
「来いって」
真っ直ぐにふたりを見上げて、私は告げた。
「わかった」
とても泣きそうな顔をしていたのだろう。兄の手が励ますように私の頭を軽く2、3度たたいた。
「高速使って行くよ。準備できたか?」
私は小さく頷いた。
電話があれば、すぐにでも出かけられるように、服を着替えずに布団に潜ったのだから、 準備することはなにもない。
それは姉も兄も同じで……。
私たちは電話があってから5分と経たずに、8時間前の帰宅時と同じ格好で外へ出た。
見上げる空には青白い雲の姿。雲が空を覆い始めていた。隙間から見える新月前の月は細長く、光は頼りない。
虫の声と風の音以外、聞こえる音のない空間に、遠慮がちにエンジン音が響き渡る。
寝静まった闇の中を、私たちを乗せた車は走り出した。
運転席には兄。助手席に私。後部座席に姉。
私たち3人は、しばらくの間、口も聞かず、ただ、カーラジオから流れる音楽を聴いていた。
真夜中の道は思っていたより交通量は多かった。
すれ違うライトが、私と、兄と姉を照らし、去って行く。
窓の向こうに映る景色を眺める私の頭の中は、真っ白だった。
何も考えることができなかった。
自分自身の鼓動がやけに大きいような気がした。
震える指先を握り締め、ただ、車の走る先をにらみつけるしかなかった。
「とももお兄ちゃんも落ち着いているね。私は怖いよ」
ふと、姉が言った。
「そんなことはないよ」
目線を進行方向に向けたまま、兄が静かに言った。
「怖いよ。認めたくなくてさっきから吐き気ばっかりだよ」
私も姉を振り返らずに言葉を押し出す。
「それでも、落ち着いているよ」
姉は泣きそうな声で言うと、黙った。
落ち着いてなんかいなかった。ただ、覚悟を決めようと思っているだけ。
私から見れば、姉の方が落ち着いている。
認めたくないのは、みんな同じだった。
元気すぎるほどに元気だった祖母が、末期のすい臓ガンだと知ったのは、1ヶ月ほど前のことだった。
その時に聞かさせた祖母の命の期限は2、3ヶ月。しかしここ最近は食欲もあり、 医者が目を見張るほどの元気ぶりで、その期限は半年ほどに延びたところだったのに。
10日前に、脳血栓を起こしてしまってから、事態は悪化した。
すい臓ガンの症状として現れた腹水のためにぱんぱんに張ったお腹を気にしながらも、自分の足で歩き、 見舞い客と笑顔で会話していた祖母が、その日から左半身不随となり、言語障害を起こし、歩けなくなった。
ガンとは知らされないままに、きっと良くなると頑張っていた祖母が、その日から急速に弱っていった。
満足に歩けず、しかたなくオムツを着けるようになり、寝返りさえもままならなくなった時から、 祖母の目には涙が光るようになった。
食事を受け付けなくなり、しゃべれなくなり、意識がはっきりしなくなった。
わずか10日。10日で、祖母は変わってしまった。
「間に合うかな」
祖母からもらった腕時計をみやって私は呟く。
4時前。満潮までまだ時間があった。
「間に合うよ」
姉が呟く。
飛んでいく景色を眺めながら、早く早くと心で思う。
もうすぐ出口だ。
そう思った時、カーラジオから、「大きな古時計」が流れた。
静かに、静かに流れる曲に、ハッとする。
絶対に泣かないと決めていた目から、涙が溢れた。
歪んだ視界の向こうに、高速の出口が見えた。
零すまい、ときつく唇をかみ締め、目を大きく見開いたけれど、流してしまった。
間に合わないかもしれない。
沈黙が横たわる車内で、私はそう、思った。

ここ2ヶ月で通い慣れた道を車が走る。
対向車がまったくいない道。深夜を過ぎ、あと数時間で夜明けを迎える時刻。 対向車だけじゃなく、通る車はまったくない。もちろん人影もまったくなかった。
いつもの道を通り、病院の看板が見えた。不吉なほどに淡く光る看板。
昼間と違い、がらがらに空いた駐車場の一角に車は止まる。
車から降りた私は、祖母が入院している病室を見上げた。
ひとつだけ、煌々と照らされた光。
明るく、安心感を覚える光が、今の私には不安と恐怖しか誘わない。
「待って」
最後に降りた兄が、先に並んで歩いていた姉と私を呼び止める。
振り返った私たちの肩に兄の手が伸びた。
「一緒に行こう」
不安なのは、怖いのは3人とも同じだった。
3人、肩を組んで、冷たく静まり返った病院の、正面玄関をくぐった。
誰もいない、と思っていた外来の一角に、3人の男性が、話し込んでいた。
眠れずに起きてきた入院患者なのだろう。
私たちは肩を組んだそのままの格好で、3人並んでその脇をすり抜ける。
兄も、姉も、私も、無言のまま、ただ、足を運んでいた。
エレベーターホールの前で止まり、兄がプレートを押した。
いつもは遅いエレベーターが、深夜で、誰も利用する者がいないためか、押したと同時に開いた。
足早に乗り込んで、4階を押した。
ゆっくりとした上昇感のあと、音もなく、エレベーターは開いた。
深夜の病棟。他の患者のことも考え、極力足音を立てず、私たちは病棟一番端の祖母の部屋へと急ぐ。
もしかしたら、もう、すでに息を引き取っているかもしれない。
ドクンドクン。
激しくなる鼓動を止められない。
本心を言えば、このまま、背を向けて引き返したいくらいだった。
しかし、足は病室へと近づく。
立ち止まり、向こうとこちらを隔てるドアを引く。

祖母の部屋は個室だった。
最期を静かに迎えさせてあげたい、という母と叔父の思いから、入院したときから、祖母は個室で 過ごしてきた。
病室の中には、父と、母と、叔父と、弟がいた。
父と叔父が、ベッドの両サイドで、8時間前よりも呼吸の弱くなった祖母を黙って見つめている。
祖母の枕元には弟が、静かな顔で、私たちを迎えた。
母はひとり、パタパタと忙しなく小さな部屋の中を動き回っていた。
落ち着きなさい、とは母に言えなかった。
母も現実を受け止めたくないだろうことを判っていたから。
だから、誰も止めない。
周りに聞こえないように、極力音を殺しながら、それでも母は片付けをやめることをしなかった。
すっかり片付いた病室のいすの上に、ひとつ、大きな紙袋が置かれていた。
「こんばんは」
私たちは部屋に入ると、後ろ手にドアを閉め、叔父に小さく挨拶をする。
間に合った。
最後の瞬間はまだだった。
父と弟に近寄りながら、私は祖母の足元近くに置いてある心電図を振り返った。
ピッピと小さな音を立てる機械は、40をすでに下回っていた。
「50を切ったら呼んでください」と昼間、看護婦に言われていたことを思い出す。
もう、すぐそこまで最期の時は近づいてきていた。
「手の動きが止まっているね」
姉が囁くように呟いた。
8時間前までは祖母の右手は胸元、頭、腹、と一時も落ち着くことなく、さ迷っていた。
苦しかったのだろう。ずっと我慢していて、結局がまんできなくて、救いを求めるように、動かせる 右手を何度も大きく上下に動かして。
その手が今はぴくりとも動かない。昼間、つけるのを嫌がり、何度も外そうとしていた酸素マスクを 外す力さえ、もう、ない。
布団に隠れた右足の点滴は外されたのか、長いチューブも、容器もすでになかった。
近づいたベッドの中の祖母の胸はかすかに、よく見ないと判らないほど、かすかに上下していた。
胃の中のガスを抜く為に、鼻から入れられたチューブ。 8時間前にはそこから血が混じった赤い液体が少しずつ流れていた。それが今は止まっていた。
もう、流れなくなっていた。
その上から酸素マスクをつけた祖母の顔は驚くほど穏やかだった。
安らかに眠っている。そんな印象だった。つい数時間前に見た苦しそうな顔からは想像できないほどに 安らかな顔。
おばあちゃん。
呟きは声にならなかった。
叔父の隣で、私は祖母の手に触れようとした、その時。
唐突にその瞬間は訪れた。
「あっ」
短い声に、黄疸の激しい祖母の顔を見ていた私は、顔をあげた。
心電図が0を示している。
ドクン。
心臓が大きく脈打った。
兄が動く気配がする。叔父が腕時計を見やった。
「押して」
父と叔父が同時に弟を見た。
「お母さん」
姉がトイレに居た母を呼ぶ。
弟がナースコールを押す。
「はい」
落ち着き払ったナースの声に、叔父が一言、「止まりました」と告げた。
「判りました」
静かな声が返り、会話が途切れた。廊下の向こうから足音が聞こえ始めた。
「4時13分」
「動いたよ」
時間を確認していた叔父の傍で、私は声をあげる。
叔父の声に反応したのか、生きたいという強い思いか、次の瞬間、祖母は蘇生していた。
再び、ピッピと機械的な音が室内に響き渡った。
0から15……23……31……13……。
不安定ながらも時を刻む心臓に、私たちは誰も声を発することなく、ただ、見守る。
最後の力を振り絞る祖母が、生きたいっという思いが、とても辛かった。
近づいた足音が、ドアの前で止まり、数度のノック後、引かれた。
ナースが姿を現す。
「また動き始めました」
誰かが、告げた内容に、軽く頷きながら、彼女は祖母に近づいた。
心電図の数字は30台を前後していた。
「とも、これ、車に積み込んどいて」
再び呼吸を始めた祖母を確認して、母が私に言った。
「お母さん、そんなの後でいい」
「何言ってるか。そんなの後にしなさい」
「今、持っていかないとあとからパタパタしたら、周りに迷惑だから。ほら、持ってって」
姉と兄、父が同時に反論した。けれど、母はそれが聞こえていないのか、 いすの上にあった大きな袋を私の前に差し出した。
そんなことしたら、私は最期に立ち会えない……。
ぐいぐいと紙袋を押し付ける母を見ながら、私は迷っていた。
しばらく目を心電図と祖母と母と紙袋に移動させる。
近づいてくる死を間近で、日々見せ付けられていた母。 ここ数日、濃くなる死の気配に、ヒステリック気味になり、情緒不安定になりながら、 それでも祖母の傍を離れることが出来なかった母。
今も何かをやっていないと崩れてしまいそうなのだろう、と判った。
母のやりたいようにさせよう。
そう決めて、母から荷物と車のかぎを受け取り、「行かなくていいから」と目で訴えてくる姉の脇を 抜け、病室を出た。
青白い照明に照らされた冷たい廊下を歩き、エレベーターに乗り、階下に下りる。
腕の時計に目を落とすと、4時20分前だった。
まだ、大丈夫。
まだ、満潮まで時間はある。車に荷物を置いて、病室に戻るまでに、迷わなければ、5分もあれば十分だった。
人は引き潮の時に息を引き取る。
昔から言われていること。
だから大丈夫だと思った。
エレベーターを降り、正面玄関に向かう途中で、入ってくる時に見た、若者たちがいた。
人の気配を感じてか、おしゃべりを止めた彼らの傍を通り抜け、私は表にでた。
頼りなげな月の光が、私を照らした。
怖いくらいの静寂。
見上げると、ちょうど祖母の病室が目に映った。
カーテンから透けて見える部屋の明かり。
ほんの少し、立ち止まり、私は再び足を動かした。
足早に車に近寄り、トランクを開け、荷物を放り込む。
トランクをしっかりと閉め、一呼吸置くと、私は病室への道を戻り始めた。
玄関をくぐり、男の人たちの横をすり抜け、エレベーターに乗り、病室に続く廊下を歩く。
病室まであと4,5メートルというところで、病室から誰かが出てくるのが見えた。
近づく私にゆっくりと首を左右に振る。
間に合わなかった。
「ゴメンね」っと小さく謝った人影は、姉だった。
姉に導かれるように中に入ると、母が悲痛な顔で待っていた。
「ごめんね。とも、ごめんね」
小さな声で何度も謝る母に、私はかぶりを振った。
そうすることしかできなかった。
間に合わなかった。
「いつ?」
「姉ちゃんが出て行ってすぐ。たえ姉ちゃんが追いかけようとしたけど遅かった」
訪ねる私に、弟が答えた。
母に導かれるままに、私は祖母の傍へと歩み寄る。
「お疲れさま」
ありがとう。
いままで、ありがとう。
安らかな顔で眠っている祖母に声をかけた。
苦しかったはずなのに、何にも言わず、耐えて。
ただただ「わがまま言ってごめんね」と周囲に謝っていた祖母。
見返りを期待しない無償の愛を与えてくれた祖母。
死亡を確認するドクターの声を聞きながら、私はずっと祖母の顔を見ていた。
忘れない為に、祖母の95年間を忘れない為に。
祖母につけられていた酸素マスクやチューブが外され、ナースが病室を出て行くまで、 私はずっと祖母を見ていた。



 


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暗くてすみません。m(_ _)m
記憶と記録に残しておきたくて、8月6日未明の出来事を思い出せるだけ書いてみました。
登場人物の名前は仮名です。(一応)
これで、次の話、書けると思います。