「結城主任、いる?」
3階外科病棟のナースステーションを覗き込んで、ひとりの少女が仕事中のナースに声をかける。
第2ボタンまで胸を開け、そこにサングラスを挟んだ黒服姿で、その少女はナースステーションの正面に姿を現した。
「結城主任、いる?」
もしもしーっとハスキーヴォイスが遠慮がちにかけられるが、相手のナースは気づかない。
仕事に没頭している若いナースをしばらく見つめたあと、頬を掻いて朱蘭はナースステーション内に足を踏み入れる。
長い髪をテレビコマーシャルのようにさらりと流し、少女はカルテに被りつきだった女性の目線に合わせた。
「なぁ、結城主任は?」
きりりっとつりあがった迫力のある瞳に至近距離から見つめられて、ナースは声にならない叫びをあげて飛びすさった。
思わず「ごめんなさい」を連発しそうな怖さがある。 そんな人物から間近に見上げられたら心臓が縮むどころではない。 口から心臓が飛び出てしまいそうである。
したがって、まだ年若いナースが驚きのあまり、デスクの上の器具を落としたとしても、仕方がないのである。
しかし、不意打ちでナースを襲撃した形となった少女は、彼女の過剰な反応に眉を顰めた。
「何びびってんだよ。何もしねぇよ。失礼なやつだなぁ」
ぶすっと膨れながらも、まだ呆然と突っ立っている(少女に対し怯えているともいう)ナースの足元にかがみこんだ。
別に妙なことをするつもりはない。ただ単に彼女が落とした器具を拾おうとしただけである。
が、ナースはそうは思ってはいないらしい。少女の動作にますます彼女は萎縮し、カルテを胸に抱えるように抱きしめ、 固まってしまっていた。
コチコチである。
「何もしないって言うのに……」
はぁーと溜息をひとつ吐き出して、少女は見事な黒髪をがしがしっと思い切りよくかきむしる。
安心させようと声をかけるも逆効果。金縛りはますます強まり、今や眉さえも動かない。
おれがなにしたんだよ。
仕方なく動きそうもない彼女の、足元に転がるピンセットやらなにやらを丁寧に拾い集め、元の場所に戻してやった。
「何してる? 不良娘」
少女が片付け終わるのを待っていたような、どんぴしゃのタイミングのよさで背後から声が降ってきた。
男性のものにしては高い、女性のものにしては低い厚みのある声が、少女に向けて放たれる。
「うちの可愛いナースに何をする気かしら?」
かけられた内容に、少女の肩ががっくりと落ちる。
「おれは変態か。ったく。いるんならさっさと姿みせろよ」
床に零れる髪を右手ですくって、少女はゆっくりと立ち上がると、声の主を顧みた。
「まるっきり男の格好して、何を言っているんだか」
十分変態さんじゃないか。
振り向いた先には、端に一本線の入ったナースキャップを被った細身の中年女性が立っていた。
しげしげと着崩した娘の服装を見ている。上から下までたっぷり時間をかけて眺めた後、盛大な溜息を吐き出す。
「こっちの方が動きやすいんだからいいだろ」
似合ってるし。
唇を尖らせて反論すると、女性は嫌そうに顔を顰めた。
「娘がホストまがいの格好をしていて喜ぶ親がどこにいる」
あっ田所さん、これ、306号室の加藤さんのご家族の方に返してあげて。
後半部分の台詞と同時に両腕に零れんばかりに抱えていた食糧を若いナースに預け、 女性は少女に向き直った。
「それより、何か用? 忙しいから手短にしてくれるとありがたいわね」
言うなり、いきなり娘をナースステーション奥の小さな休憩室へと強引に引きずる。
時間が時間なので、表では立ち話もできないと踏んだのだろう。 が、思った以上に母親の力は強かった。
ナースステーションとの仕切りとなっているベージュのカーテンを手早く引き、娘から手を離す。
前置きがない予測不能な行動に、思わず少女の口から小さな悲鳴が洩れた。
「いたた。母さん痛いっ!」
「静かにおし」
消灯時間はとっくにすぎてんだ。
小さいながらも鋭く尖った声がしかりつける。
が、痛いものは痛い。
「なら、ちょっとは手加減ってもの、しろよ」
むすくれて反抗しようとした娘の先で、声と同様刃のような瞳が振り返る。
気が立っているらしい。
反抗は命取りだと気づき、少女は口をつぐんだ。
最悪な機嫌になられては困る事情が彼女にはあった。
「で、なんだい? 何の用なんだい?」
単刀直入な切り込みが取り調べの刑事を思わせる。詰問口調である。
肩をちぢこませ、少女は答えた。
「……届け物」
母曰く「ホストのような」格好に不釣合いなオレンジ色の紙バッグが、 母親の目線の先に差し出される。
なにやらいい匂いが漂ってくる。
弁当箱が入る大きさの無地のバッグ。和紙のような素材を用いた純和風のバッグである。
「何?」
折りたたみ椅子を取り出し、腰を落ち着けてから、結城草子は怪訝な顔で娘を見上げた。
突き出されたバッグを受け取るでもない。
いっこうに受け取ってくれない母に、小さく溜息を吐き出し、朱蘭はもう一言付け加えた。
「差し入れ」
お腹空くだろうと思ってさ。
娘の言葉に、母の瞳に疑惑の光が宿る。
うさんくさそうにバッグを見つめ、 恐ろしいものにでも触れるかのように、これみよがしに指先で角をつっつく。
「巨大な下心が見え隠れしている気がするのは気のせいかね」
患者を力づける母の「天使の微笑み」が、思わず背筋を伸ばしたくなるような凄みのある微笑に変化していた。 目は笑ってはいない。朱蘭のちょっとした反応も見逃すことのない眼差しがある。
なかなかに鋭いお言葉に、娘の顔がひきつった。
「いっとくけど、おれの下心じゃないからな」
穏便に済ませようとの配慮は、もうすでになかった。 バレているなら取り繕う意味もない。取り繕うだけ無駄だと早々に悟り、朱蘭はタネを明かした。
「……まったく娘になにをさせるんだか。あんたも、大人しく利用されてんじゃないよ」
本当に。もう。
大げさに溜息を吐き出す。
一拍ほど間を置き、目の前に突きつけられた紙バッグを嫌々ながら受け取った。
「大人しく利用されているわけじゃないけどね」
軽く肩を竦め、朱蘭は母親の正面の床に腰を下ろした。
顔色が伺っていたはずの娘の顔が、なにやら意味ありげな笑みを刻む。
「親父どの、頑張ってたよ」
ふふん。
気持ちが悪いくらいにやにやとさせ、膝を抱えながら朱蘭は母親の顔を見上げる。
「愛されてるねぇ」
にやにやにやり。
「……あんた、面白がってるわね」
見上げてくる娘の視線を睨み返して、草子は憎憎しげな言葉を吐き出した。
「そりゃね。他人事だし。でもさ、あんな真剣な親父殿をみたことがなかったからさ、 びっくりした」
あの人、料理できるんだね。
父親の意外な一面を目撃したらしい少女の目が輝き出す。思い出しているのだろう。
珍獣をみたかのような話し振りに、草子の顔に苦笑が浮かぶ。
「気が向いたときしか作らなかったけれど、器用だったわね」
中華、フランス料理、日本料理……etc。
凝りだすと止まらない性格が母にしては迷惑だったようだ。が、語る表情は穏やかで、口調は優しい。
なんだ……。嫌いってわけではなかったのか。
母親の表情をみ、朱蘭は隠れた部分で胸を撫で下ろす。
表情には一切出さない。
「意外。器用ってことは、美味しいんだ?」
「まずくはなかったわ」
身を乗り出して聞く娘の顔を見ながら、母親は悔しそうに顔を歪めた。
「上手いのがしゃくに障ってね。よく喧嘩したわよ」
穏やかな眼差しを娘に注いで、草子は持っていた紙バッグを1人用のテーブルの上に 布を被せるかのような手つきで置いた。
が、雰囲気ががらりと変化する。
「で、どうして今、こんなものを持ってくるのかしら?」
母親は一瞬で過去から現実に戻り、まだ膝を抱えて見上げてくる娘の頭を叩いた。
「ってーな……。今日、何日だかわかればわかるんじゃないの」
突然の暴力に唇を尖らせ、朱蘭は答えをぼかす。
「もったいぶった言い方しない。言ったはずだよ、私は忙しいって」
「はいはいはい。今日は3月14日。……ホワイトデーだよ」
投げやりな娘の返答に、しかし母はきょとんとした表情を浮かべただけだった。
次いで首をかしげ、眉間にしわを寄せる。
もしかして、ホワイトデーを知らないのか?
疑問に思い、口に出そうとした朱蘭の前で、母親の顔がいっきに嫌そうに歪められた。 気持ち悪いものでもみるような表情。
次いで口をついて出た台詞が、朱蘭をこけさせた。
「あげてもいないのに、何考えてるのかしら」
脱力し、床に沈む朱蘭を見えているのか、またはみないフリをしているのか、 母親は腕組みをし、尚も言葉を続ける。
「若者の行事に無理やり首を突っ込んで、自分のことが若いとでも思っているのかもしれないけど、 笑っちゃうわね。そういうのを年寄りの冷や水っていうのよ」
朱蘭、あんた、ちゃんと伝えなさいよ。まったく。
どうやら突っ伏している娘の姿をみていないわけではなかったらしい。
可哀相……。
額に汗しながら一生懸命料理を仕上げていた父親の姿が思い浮かぶ。
珍しくひとつのことに集中した真剣な表情の父を見たのは、あれが初めてといってもいい。
思わず彼を哀れんだ朱蘭の心中を読み取ったのか、母の鋭い声が飛んでくる。
「同情も哀れみも必要はないのよ。まったくあの男は」
言うなり、いったんテーブルに置いていた紙バッグを掴み、座る娘の目線の先に乱暴に突き出した。
ハンバーグの匂いが鼻を掠める。
視界いっぱいに占められた紙バッグの意味を測りかね、朱蘭は首をひねる。
ぐいぐい押し付けられるソレを仕方なしに受け取りはしたものの、どうすればいいのかわからない。
対処に困り見上げた娘に、母親はひとこと。
「持って帰りなさい」
無情な言葉を告げた。
「え? なんで? なんで?」
親父どの、すごく一生懸命だったんだよ。
慌てて立ち上がり、成り行き上父の弁護をする破目になった娘に、 母は夜叉のような険しい表情で首を横に振った。
「こんな食べ物で釣られるわけないでしょ。まったく。私はまだ怒ってるのよ」
詰め寄る娘の言葉に返って来たのはそんな台詞だった。
「は?」
「あんたを工藤の総長に無断で担ぎ上げて。 私は許した覚えはないのに。こんなもので懐柔しようったってそうはいかないわよ」
舐めてもらっては困るわね。
いや、そんなつもりはないと思うけど。
弁護を続けようと口を開きかけるが、母親の震え上がるほどの眼差しに阻まれ、喉を凍らせる。
叩きつけるような一種八つ当たりともとれる言葉が頭上を通りすぎる。こうなるともう黙るしかない。
うへっと首をちぢ込ませ、怒りが通り過ぎるのを無言で待つ娘に、鋭い声がかけられる。
ちゃんと一字一句間違わずに伝えるのよ!
そうだった。母はまだ父に対し怒りを解いてはいなかった。
朱蘭にとっては半年ほど前の昔の出来事なのだが、彼女にとっては違う。 過ぎたことではなく、現在進行形で続いている事実が許せないのだ。 是が非でも引き戻したいと思っていることが判る。
無断で娘を光の当たらない道に引きずり込んだ元夫のことを本気で怒っていた。
楽しいんだからいいじゃないか、という娘の言葉は、背筋が凍りつく静かで激しい眼差しの前で 声に出ることなく消える。
反論する余地もなく、朱蘭は母の言葉を脳に記憶させることに専念する。
静かになった娘をみやり、母親はくどくどと続いた呪詛のような台詞を一つの言葉で締めくくった。
「ヨリを戻す気は、これっぽっちもないと伝えなさい」
まぁ、あの人が本当のホワイトデーの意味を知っていたらだけどね。
謎の言葉を残し母親はさっさと休憩用の一角から離れる。
カーテンの向こうで、遠慮がちに「結城主任」と呼ぶ若いナースの声とナースコールが重なった。
呼ばれ、こちらとあちらを区切る仕切り代わりのカーテンを引き開けると、母は飛び出していく。
「ちゃんと持って帰って伝えなさいよ」
いいわね?
逆らえない眼差しと念押しを忘れずに。

去って行く後姿を呆然と見送りながら、朱蘭は解けない謎に首をひねる。

ホワイトデーの本当の意味?
それ以上に、なぜ、母がそんなことを知っているのだろうか?

頭上を飛び交う疑問符を納めることなく、朱蘭は父手製の弁当を抱えながら、 しばらく冷えた床に座り込んでいた。


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七瀬 未来さんの草子さんの出番を期待していたのに。。という言葉を受け、 書きました。ホワイトデー用だったんですが……別にホワイトデーじゃなくても良かったかも(汗)
ホワイトデーはバレンタインデーで恋人同士になったふたりが改めて「永遠の愛」を誓った日なんだそうです。 父ちゃんがそれを知っていたかは判りません。たぶん彼は「今でも貴女を愛していますよー」の熱烈ラヴコールを したかったのだと思われます。(行事に便乗して)