一 陽 来 復
──寒 月──

 東の空が白み始める。
 酔いが一気に醒めてしまう冷気に、朱蘭は思わずスーツの衿をかき合わせた。
 北風がアルコールの鼻につく臭いを遠ざける。
 ほのかに漂う梅の香りを胸に吸い込み、少女は大きく伸びをした。月明かりに照らされた横顔が緩む。 張り詰めていた緊張がほどけた瞬間だった。疲労の濃い顔からつかの間の笑みが零れる。 が、それもすぐに何か考え込むような表情へと変わった。
 誰もいない庭の、イス代わりにちょうどよい石に腰かけ、背もたれ代わりの木の幹に寄りかかる。
 先ほどまでのどんちゃん騒ぎが嘘のように、背中越しの屋敷は静まり返っていた。
 少女の見上げる先には、冷たく光る幾つもの輝き。
 風が小さな竜巻を作り、煽られ、少女の髪まで巻き上げる。
 と同時に蘇る煙草の臭いに、朱蘭は顔をしかめた。鼻を何度か動かし、においの元を辿ると、 自分の髪をひと房、摘み上げる。鼻の前に数度近づけ、におっては遠ざかる臭いに、ますます眉間のしわを深くする。
「ッチ」
 こんな時間から髪を洗うと風邪をひく。そう判断し、少女はとりあえずの対処として髪を結い上げることにした。
 とたんに外気にさらされることになった耳が寒さを訴え始める。
「う〜〜さむっ」
 やっぱりコート、着けるべきだったな。
 頭の隅で後悔してみたが、今さら取りに戻る気にはどうしてもなれない。
 戻ったとしても、目当てのものを発掘できるわけがなかった。足の踏み場もないほど、 あちこちに男たちが転がっているのだ。 下手すると誰かの寝返りで、バランスを崩され、倒され、埋もれた末に遭難しかねない。 夜が明けるのを待つまでには窒息してしまうだろう。
 寒さぐらい我慢できなくてどうする。ファイト! と自分を励ます少女の手は、しかし無意識に耳や、腕をさすっている。
「そんな格好をしていたら風邪をひきますよ」
 闇に溶けるしっとりした声が笑いを含む。面白がっている響きのある声と同時に降ってきたのは、 厚みのある布だった。
 振り返る前に降って来た布に視界を覆われ、朱蘭は慌てて布を剥ぎ取ろうともがく。
 控えめに砂利を踏む音は少女の前に回る。 ロングコートの裾と星明りに照らされた革靴が朱蘭の視界の隅に入った。 綺麗に磨かれた靴が青い光を跳ね返している。
「ちょっ、鳴神。コレ、どけろよ」
 寒さは防げるがやたらに重い。石鹸の匂いと太陽の匂いがかすかに残る布は、リンスが効いていて柔らかい。 触った感触からいって毛布なのだろうが……。
 もがけばもがくほど深みに嵌っている少女に、見守っていた男が動いた。
 押し殺した笑みを漏らす鳴神は、少女を布の重さから救出する。 次に彼女の身体全体を外気から遮断するように 少女の身体を持って来た毛布で包み込んだ。
 細く頼りない月明かりが、彫りの深い顔立ちを浮かび上がらせる。唇の両端をくいっと引き上げたいつものポーカーフェイス。
 けれど、どこか疲れを覗かせる表情と、自分に巻かれた毛布を確認し、朱蘭はなんとも言い難い顔つきになる。
「お疲れの代行を働かせて悪かったとは思うけど……」
 でも、これはちょっとやりすぎなんじゃない?
 自分の目に間違いがなければ、毛布は3枚……。どうりで重いわけだ。
「適当なものがこれしかなかったもので」
 本当か嘘か判断しかねる答えを返し、鳴神は薄い唇の両端をさらに吊り上げる。
「それより……こんな時間に、たとえ敷地内と言えど、表に出るのはどうかと思いますが」
 軽く首を傾げ物問いたげな若頭代行に、朱蘭は唇を尖らせた。
「分かってるよ。沈静化したとはいっても油断出来ないってことはさ」
 でも、一人になりたかったんだよ。
 言葉を返す少女の口調は、しかし弱い。
 巻かれた毛布をより身体に引き寄せる。少女の瞳に浮かぶはずのいつもの勝気さと絶対的な自信の光が影を潜めていた。 自身の後見人を見る眼差しはやや暗いものだった。
 工藤組13代目総長を襲名してからもうすぐ5ヶ月になろうとしている。
 退屈しのぎにちょうどいいと気軽に考えていた朱蘭にとって、この5ヶ月は現実を痛感する日々だった。
 生きた心地など2ヶ月ほどは確実に味わっていない。
 下克上を夢見る輩が次から次へと現れては内乱を起こし、彼女の命を狙い、どこまでも追いかけてきていた。
 ここ数ヶ月の内乱で、何人が病院送りになり、何人がムショに放り込まれ、死人が何人出たかわからない。
 ようやく沈静化してきてはいるが、現在ものほほんと構えている状況ではないのだ。本当は。今もどこからか自分に銃を構え、誰かが潜んでいるかもしれない。 新年会だかなんだかで浮かれ騒いでいる状況ではないはずなのだが。
 新年会の3次会と称し、邸内で宴を催した父親のいる母屋を振り返り、少女はため息をつく。
「継げ」と言われ、継いだものの、右も左も分からない自分に出来ることはない。
 朱蘭が組を継いだことによるメリットは今のところなく、デメリットだけが日々増殖している状態なのだが。
「なぁ。鳴神ってなんでおれを推したんだ?」
 なんでおれを斬らないんだ?
 この5ヶ月、少女が総長として出来たことは何もないはずだった。それなのに未だ自分が放り出されない現実が理解できない。
 16年間感じたことのなかった重圧を感じ、朱蘭は重い息をついた。
「面白いから以外に理由はありますか?」
 簡単でしょ。
 冗談なのか本気なのか、笑みを深くして即答する男の本心は16年間生きただけでは図れない。
 はぁ。
 またひとつため息を吐き出し、朱蘭はだいぶ明るくなった空を見上げた。
 星がひとつ、夜明けの空に溶けていく。
「ようは殿が退屈しなければいいんですよ」
 まぁ精々、飽きられないように頑張ってください。
 同じく空を見上げ、男はあっさりととんでもない暴言を口にする。
 そのためには、過保護にもなりますよ。
 すべては久遠義仲のためだと堂々と言ってのける。
 あの親父殿が飽きるまでは朱蘭を総長の座から下ろすつもりはないと言外に告げて、 男は笑みを少女に落とした。腹に一物を抱えている、そんな笑みだった。
「はぁ」
 よけいに心の重みが増した気がして、朱蘭は痛みを訴えそうな胃を毛布の上からさすった。
 男の外見にだまされたかもしれない。
 今さら悔やんでも遅いことは百も承知で、少女は軽軽しく選択してしまった過去の愚かな行為を悔やむ。
 後悔の海に漂う少女は、そのため、男の言葉を聞き逃す。
「貴女は貴女のままでいなさい」
 貴女だからこそ推したのだから。
 真顔で呟く男の言葉は、少女の耳に届くことなく、闇へ溶けた。

 


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あぅあぅあぅ(泣)
暗くなってしまいました。すみません。これは朱蘭が高校1年の冬のお話になります。
本当はお茶らけた感じで朱蘭を推した理由を語るはずだったんですが……むぅーーー(唸)
家業の部分にもっと突っ込むはずだったのに……全然突っ込んでないし……。