祭囃子が聴こえる



 遠く近く。高く低く。
 笛の音に重なり、掛け声がこだまする。
 夏のソレよりやや和らいだ日差しを見上げ、男は近づく神輿を無感動に見つめている。 ハイネックのシャツに薄い黒のカジュアルジャケット、同色のパンツ。 どこにでもいそうな若者であるはずなのに、見えない壁を作り出す冷ややかな瞳が、 彼の存在を祭りの観衆から浮き立たせる。
 人々の生み出す熱気が、冷気を帯び始めた風にさらわれる。 けれど、冷やすまでにはいかず、押し戻され、さらに温められ、男の顔を撫でていく。
「……さん!」
 近づく神輿に合わせ、沿道の見物人の波がゆっくりと移動する。
 屋台の香ばしい匂いが鼻を掠める中、近づく人の多さに、男は眉間のしわを深くした。
 流れてくる人の波。浮かれ、無防備になっている人々。犯罪の……。
「鳴神さん!」
 耳元で、怒りを滲ませた若い女性の声が聴こえる。 彼の名を呼ぶ声は、今にも泣き出しそうな雰囲気でもあった。
 彫りの深い横顔の、鋭すぎる眼差しが、一瞬、現実を掴み損ねた。 焦点の合わない瞳が、柔らかな輪郭に縁取られた、真っ直ぐな眼差しを捉える。
 瞬間、色彩を帯びる視界。気持ちを高揚させる音の洪水が彼の全身を貫いた。
「あ、ああ……」
 駆け抜けていく感覚に、男の瞳が見開かれる。
 めったに見せない彼の、表情らしい表情。 けれど、まだ付き合いの浅い彼女にはわからない。 風に乱れる薄茶の髪を手で押さえながら、女性は長身の男性をぐいっと睨み付けた。
「私と一緒にいて退屈なのはわかりました。迷惑なようなので、私はここで失礼します」
 瑞々しい形の良い赤い唇は、硬い声を絞り出し、いっきに言葉を押し出す。
 必要最低限の言葉だけを吐き出した唇は、台詞の終わりと同時にきつく引き結ばれた。
 ソフトな印象を受ける大きな瞳からは今にも透明な雫が零れ落ちそうである。
 明らかに傷つけたのだとわかるその表情。
 今にも踵を返しそうな彼女の白く細い腕に、鳴神は思わず手を伸ばした。
 肩につくかつかないかの長さに切り揃えられた薄茶色の柔らかそうな彼女の髪が、 彼の乱暴な動きに合わせ、揺れた。


 誘ったのは彼だった。
「ねずみが通る裏の裏まで通じているなら、ここの地理に不案内な俺に是非とも教えてくれないか」
 誘う口実など何でも良かった。ただ彼女と一緒に過ごせれば。
 真っ赤になって慌てた彼女の姿を今でも覚えている。


 研修と称し、所轄に放り込まれたのはもう半年も前になる。
 場所が移ったからといって、これといって大きな変化はなかった。 本庁の人間である自分を、管理職の面々が機嫌をとるようにひっついてくるのがうっとうしい。 ただそれだけの感想しか抱いていなかったそんなある日、彼は彼女と出逢った。
 あれは何の捜査だったのだろう。 合同捜査本部が設置され、本庁主導、所轄は蚊帳の外と方針が決められたそのとき。
「冗談じゃないです! 言わせてもらいますけど、私たち所轄はあなた方が知らない、 ねずみが通るような裏の裏まで知り尽くしているんです。 机に向かって捜査しているような本庁の人間よりよっぽど使えます!」
 所轄を馬鹿にしないでください!
 交通課で、何の権限もないはずの彼女が捜査本部に飛び込んできたのはそんな場面だったはずだ。
 ピンっとのびた背筋。毛を逆立てた猫のように、華奢な身体全体で怒りを表現していた女性。
 模範的に着こなした制服姿にナチュラルなメイク。 人ごみに紛れたらまず探し出せないだろう、ごく普通の外見。
 そんな彼女の、頬を上気させ啖呵をきる姿に興味を覚えたのはその瞬間。
 榊夏海。
 それが彼女の名前だった。

 
 すり抜ける風と傾いた陽光を受け、鮮やかに舞うもみじの葉。鮮やかに紅葉したソレはふたりの頭上から降り注ぐ。
 驚いたように目を見開く夏海の、濁りのない瞳から、ひとしずく涙がこぼれ落ちる。
 罪悪感が男の胸の奥を突き刺す。が、鳴神の表立った顔つきは変わらない。 ますます眉間のしわが深く刻まれるだけだった。
 いい大人が、女性の扱いに慣れていない。
 この場合どうすればいいのか、鳴神には検討がつかなかった。
「……痛いです」
 引っ張られた力にバランスを崩し、一瞬男の胸に抱きこまれる形となった身体を、 夏海は慌てて起こす。
 触れていたのはほんの一瞬。温かなぬくもり。
 驚くほど柔らかな、もろく感じられるほどの感触に鳴神の瞳が一瞬、和らぐ。 が、それもほんの一瞬。
 2、3歩後退った彼女が顔を上げたときにはその片鱗さえも残っていなかった。
 小さな、か細い声が赤い唇から漏れる。
「手を、離して下さい」
 鳴神の、硝子のように光を反射させる目を見上げて、夏海は再び口を開く。 さきほどまでの噛み付くような勢いはなく、頬は硬くこわばっていた。
 明らかに、自分を怖がっている眼差しに、気持ちが沈む。
「あぁ……」
 彼女から笑みが消えたことがさらに男を責め立てる。
 けれど、離してしまったら逃げられてしまいそうで、鳴神は彼女の懇願を、力を緩めることで応えた。
「私といてはつまらないのではないですか?」
 なのに、どうして帰してくれないんですか?
 胸にグサリとくる台詞が彼女の唇から飛び出してくる。
 そうではない。
 否定したくても、彼女を納得させられそうな言葉が見当たらない。もどかしさに、苛立ちさえ覚えた。
 けれど浮かぶ表情は相反する。 周囲を威圧する鋭い瞳は、感情の波を映さない。 より深く刻まれた額のしわと、限界まで下がった口角が、表情をより険しいものに見せていた。
 流れを押しとどめるように動かないふたりを、迷惑そうな目で人々が避けていく。
 遠ざかりつつある祭囃子。騒がしい屋台の呼び込み。食欲をそそるたこ焼きの香り。流れ、遠ざかる祭りの賑わい。
 離れないようにしっかりと親の手を繋ぐ子どもの姿。幼子の、親へ向ける無垢な、絶対的な信頼。
 それは、彼が彼女に求めるもの。向けてほしいもの。
 怖がられることを望んではいない。けれど、彼が求めるものは遠ざかりつつあった。
「私では案内役は務まりません」
 投げつけられる言葉は、まるで刃のように鳴神に降り注ぐ。
「だから、今度はほかの、鳴神さんの好みのコを……」
 続けられた台詞に、彼の中の理性がはじけとんだ。
「君だから、誘ったんだ」
 君だから、俺は……。
 君以外では意味がない。
 掴んだ腕を力任せに引き寄せる。
 一瞬だったぬくもりが再び胸によみがえり……。
 引き寄せた細い腰に、男の太い腕が回る。すっぽりと男の腕に収まってしまうほどの華奢な彼女。
 まだ状況を把握していない大きな瞳を、まっすぐに見返し、鳴神は夏海の柔らかな唇を奪った。
 一瞬の出来事。
 絡まる吐息。
 近づく冬を感じさせる冷たい風が、人々の熱気を遠ざける。
 祭囃子が遠ざかる。
 高く低く遠く近く響く音色が、祭りの名残とともに空へ溶けていく。
 首に回された手を感じながら、鳴神は彼女をいっそう強く抱きしめた。
 



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秋祭り???と首をひねりそうですが……季節ネタ絡みです。はい、これでも。
若かりし日々の鳴神源也殿です。
別人、です(笑)多くは語るまい……。