「!」
部屋に足を踏み入れた瞬間、人の気配を感じ、由暁は気配を殺した。
マンションの最上階の4LDKの部屋。
全室フローリング、南向きの部屋は、由暁のプライベート空間である。
同居人などいない。彼以外に室内に人の気配はないはずである。
招かれざる客。侵入者か。
緊張に身体を強張らせ、息を潜めて廊下を進む。
ふと違和感を感じ、由暁は廊下とリビングを隔てるドアの向こうをじっと見つめた。
照明が点いている。侵入者なら灯りなどつけないはず。
首をひねり、由暁はそっとすりガラスがはめ込まれたドアを開けた。
16畳ほどのリビングの中央、照明に照らされたソファーの中で、子猫のように
丸まっているひとつの影があった。
長い髪が無防備な寝顔にかかっていた。
足元の床に無造作に投げ出されているのは、ピンクのランドセル。
「……ふ……」
少女の姿を認め、由暁は張り詰めていた糸を緩めた。
氷のようだと例えられる瞳が、春の日差しのような温かさを帯びる。
気配と一緒に眼差しまで緩め、由暁は眠る人影に微笑んだ。
次いで壁に嵌め込まれている液晶時計をみやる。
20時を少し回っていた。
気持ちよく寝ている少女を起こすべきかどうか一瞬悩む。
が、時計が示す時間に、結局起こすことに決め、由暁はソファーに近づいた。
影が少女の顔に落ちる。彼女のまぶたがかすかに震えた。
「百合華、百合華、起きるんだ」
軽く肩を揺さぶる。
規則正しい寝息をたてていた少女の腕が、かすかに動く。
いやいやと言いたげに肩を掴む由暁の手を払おうとしてか、緩慢な動作で細い腕が宙をかいた。
「百合華、ほら、起きるんだ」
無邪気な寝顔に罪悪感を覚えるが、このままここで寝かせているわけにもいかない。
「……ん……?」
「起きなさい」
前に回りこんで少女を支えながら、由暁は少しきつい口調で彼女に語りかける。
「……あれ?……お兄ちゃん、お帰りぃ……」
何度も揺さぶられ観念したのか、少女は重い瞼を上げると、
眩しげに瞬きを繰り返す。視界に飛び込んできた由暁の顔に、寝ぼけたままの笑顔を向けた。
無邪気な笑顔に、自然、由暁の頬も緩む。
誰にも見せたことのないとろけるような彼の珍しい笑顔は、少女にだけ向けられるものだった。
「何時から居たんだ?」
まったく。あの人には言ってきたのか?
きつく眼差しを変えても、瞳の奥は笑っている。
日頃、感情表現に乏しい兄の、柔らかな表情を見返し、少女は首を左右に振った。
まだ眠気を訴える瞼をこすりつつ、くぐもった答えを返す。
「……学校からまっすぐこっちに来たの」
由暁を見上げる目は、少し拗ねていた。
「大丈夫。あの人たち、心配なんてしないもん」
私がいなくても平気なんだから。
薔薇色の頬を膨らませ、笑顔を引っ込める。
革張りのソファーにちょこんと居住まいを正して座る。少女の愛らしい姿に
由暁は怒ることも出来ず、軽くため息をついて、彼女の頭をなでた。
自分を産んだ母親と、めったに姿を見せない父親を「あの人たち」と呼ぶ少女が気の毒だった。
彼女は両親になついてはいない。絶対に甘えない。
愛らしい顔を笑顔に変えるのは、由暁と一緒に居る時だけである。
家の中では始終能面のような無表情でいるのだという。
幼い頃から、家族の中で由暁だけになつき、甘えていた。
由暁が家を出た今は、時々、こうして彼の部屋にやってくる。
目に入れても痛くないほどに可愛がっている彼にとって、彼女の訪問は正直嬉しいものだった。
が、妹は兄の職業を知らない。同様に親の職業も。
ひとりで出歩くことがどれほど危険なことなのか、彼女はまだ知らない。
渋い顔で少女を見下ろす由暁の前で、百合華は気まずそうに身を縮ませる。
「お兄ちゃんがいけないのよ。最近会ってくれないから」
居場所も告げずに出かけることがいけないことだと分かっているらしい。
それでも百合華は反論するように唇を尖らせ、ますます頬を膨らませた。
先週の約束を反故にしたことを思い出し、由暁は眉尻を下げる。
機嫌を損ねている理由はどうやらそれらしい。
由暁は小言を喉の奥にしまうと、頭を巡らせた。
お姫様が機嫌を直してくれる案を探す。
学校から直接来たなら、何も食べていないだろう。
ガラスのテーブルの上には何かを飲んだ後のコップがひとつ置かれているだけ。
「そうか……じゃあ、お腹空いているだろう?」
ぷいっと横を向いた妹に、由暁は目線をあわせ、語りかける。
とたんに少女の顔に、もとの笑顔が広がった。
「作ってやるから、食べていけ」
食べたら家まで送る。
何か、リクエストはあるか? と覗き込む切れ長の瞳に、少女はキラキラと輝く目で応えた。
「オムライス! お兄ちゃんの作るオムライス、ゆりか、いっちばん好き!」
はいはいはい!!と大きく手を上げて、主張する妹の頭をぽんぽんと叩き、
由暁はキッチンへ足を向けた。
キッチンへ入る前に足をとめる。
料理を作る前に連絡から先だと、子機へと手を伸ばした。
テレビを点け、画面に釘付けになっている年の離れた妹をみやり、
次いで記憶しているがあまりかけることのない電話番号をプッシュする。
「……由暁です。……はい、百合華はこちらに。……はい。食事の後、送り届けます。……
いえ、あまり遅くなることはないと……では」
電話の向こうの気だるげな女の声が、やけに耳に絡みつく。
眉間によせたしわが深くなり、由暁の瞳に白い炎がちらつく。
長く話せるほど我慢強い方ではない。嫌悪を抱く相手との話は短く終わらせるに限る。言葉少なに説明を終え、由暁はすぐに電話を切った。
そのままキッチンに入っていこうとした由暁の腕を、テレビにかじりついていたはずの百合華が止める。
「あの人、心配していなかったでしょ?」
由暁と同様の冷たい眼差し。何も期待していない表情。
頷くことも出来ず、見上げる頭をなでると、百合華は硬い表情を和らげた。
それより、はい、これ。
ずるずると床を引きずるように持ってきたものを、妹は兄に差し出した。
今度は全開の笑顔で。
「お料理するならエプロン必要だよ。お洋服汚しちゃうでしょ」
どこから持ってきたのか、純白のフリルつきのエプロンを握り、百合華は得意げに胸をそらせた。気が利くでしょ?っと言いたげに。
差し出されたものに凍りついた由暁だったが、妹の心遣いを無にするわけにもいかず、引きつった顔でソレを受け取った。
ねぎらいの言葉も忘れない。
「ありがとう。百合華、気が利くな」
えへへへ、と頬を染め、百合華はパタパタと元の位置に戻っていく。
しばらく手にしたエプロンを見下ろし、立ち尽くす。
結局、彼は観念してエプロンを身に着けた。
家には百合華と自分以外にいないのだから、他人に見られる心配はない。
あまり使いこまれていないピカピカのキッチンに立ち、由暁は夕ご飯の支度に取りかかった。
冷蔵庫からにんじん、ピーマン、パセリ、たまねぎ、卵、バターを取り出し、
おもむろに胸にしまってあったサングラスを取り出す。たまねぎを切る際の予防策である。
準備完了、と食材に向かおうとした瞬間。
ピンポーン。
間延びしたチャイムが鳴った。
「百合華、手が離せない。出てくれ」
すっかりシェフの顔つきで、声を飛ばすと、明るい少女の返事が聞こえた。
二言、三言、言葉を交わしている声が届く。
声を流し、由暁は中断していた料理を再開した。次々と手際よく材料を刻んでいく。
まな板にたまねぎを寝かせ、みじん切りに入った。
一定のリズムを刻む包丁の音が辺りに響き渡り……。
「いい匂いって思ったら、ぷっ……」
由暁! すっげーカッコ。
容赦ないハスキーヴォイスが響き渡った。
嫌な予感に身体が強張る。
反射的に振り返った先に認めた姿に、由暁は表情を凍らせた。
見られたくない人物に見られてしまった。
相手は遠慮もなく、食器棚を背に苦しそうに身をよじっていた。
笑い死にするのでは、と思えるほどに爆笑している。
目じりに溜めた涙が拭うより先に頬を伝い、床へと落ちる。
見事な黒髪が照明の光を受け、女性の身体の震えにあわせ揺れる。
「……」
羞恥に顔を染めつつ、由暁は突然現れた女性を氷の眼差しでにらみつけた。
「何しに来た?」
バターが焦げる匂いが鼻をかすめる。
不安げな眼差しで顔を出す百合華をリビングに戻るよう目で合図を送り、
由暁は火にかけていたフライパンを握った。
「いや……おまえがこれ、忘れてったから……」
ひい、ひい、と笑いの間に言葉を挟み込み、用件を告げた彼女の手には分厚い封筒が握られていた。
グレイのスーツは彼女の不自然な姿勢で、しわが寄っている。
笑って悪い、といいつつ、そうは思えない態度である。いちいち気に障る。
一向に笑いを収めようとしない主人であるところの結城朱蘭に、由暁は剣呑な目を向けた。
包む雰囲気が殺気立っている。
「本当に……わるい……でも、とま、とまらないんだって……くぅく……」
もうだめ、と視線を逸らしつつ、またもう一度視線をこちらに固定する。
せっかくだから撮っちゃおう。
と大爆笑のまま、手探りでポケットの携帯を取り出した瞬間、由暁の中のストッパーがはずれた。
「貴様!!!!」
怒気を含んだ声と同時に、フライパンが朱蘭に向けて放たれる。
「!!!!」
盛大な怒りの爆発が、マンションの最上階の一室から巻き起こった。
親友からす嬢のとあるイラストをみて、唐突に浮かんだSS。
冷たい印象を周囲に与える彼ですが、こんな人間的な一面もあるのです。
百合華ちゃんは由暁の年の離れた妹です。小学校6年生。