その1

北風が灰色の空に覆われた町並みを駆け抜けていく。
足早に通りを行き交う人々の中で、仏頂面で歩く少女がひとり。
吹き抜ける風にコートの襟をかきあわせて、大股で通りを横切る。 目的の路地にたどり着くと、少女は足を止め、突き当たりに建つ建物に目を向けた。
緑の葉がすべて枯れ、茶色の蔦がむきだしの状態で絡みついている2階建ての建物。
頬にかかる髪を鬱陶しそうに振り払って、少女は路地に足を踏み入れた。
築20年は経つであろうアパートの2階、右端の一室を睨むように見上げる。
鋭い眼差しの下にあるへの字に曲げられた唇が、彼女の機嫌の悪さを示していた。
抱えるように持っている箱から立ち昇る甘い香りが、時折鼻をかすめ、風にさらわれていく。
一瞬、風の行方を追った瞳が、近づく建物へと戻った。
地面を擦るリーボックのスニーカーが、ところどころ錆びついて変色している階段を上って行った。
硬い音を響かせ、ゆっくりとした足取りで、2階右端の部屋に辿り着く。
赤茶けたドアの横に、油性インクで殴り書きのように記された「神崎」の文字。
表札の横に小さな窓が付いていて、申し訳程度に開いていた。
確かめるようにちらりとインクで書かれた表札をみやってから、少女は乱暴にグーで扉を叩いた。
ゴンゴンゴンっと激しい音が辺りに響く。
数度殴り、様子をみる。耳を澄ますが、ドアの向こう側で人が動くような気配はしなかった。
ちらりっと小さな窓から室内を覗き見る。
隙間からは部屋の一部が見えた。
独身の男性にしては片付いた室内のフローリングの床に積み上げられた本の山。 その向こうの窓は開いているのか、緑色のカーテンが風に揺れていた。
いないわけではないらしいが、求める人影はない。
眉間にしわを寄せ、しばらく考える。
すると今度は真新しいスニーカーが力いっぱいドアの下部分をけりつけた。
がんっ!
壊れるのではないかと思うほどの音に、慌てたように玄関へと人の気配が近づいてきた。
一言も声を発することなく、少女は部屋の主が現れるのを待つ。
「はい。今行きます」
焦ったような大声の後、何かに派手に躓くような音が響き、間をおいて玄関のドアが開かれた。
「誰?」
不機嫌で低くなった声が、少女の頭上から降ってくる。
顔を上げると、顔を顰め、額を擦る青年の視線とぶつかった。
「あれ? 結城? どうした?」
擦る手の間から赤くなったおでこが見え隠れする。
意外な人物の姿を認め、青年が素っ頓狂な声をあげた。慌てすぎて転んだようだが、その痛みさえも吹っ飛んでしまったようだった。
「居るんなら、早く出ろよ」
常よりも低い声と座りきった目に、神崎まさみは怯み、反射的に「すまん」と頭を下げた。
「すまん。ちょっと洗濯していたもんだから、気づかなかった」
それにしても女の子だろ? そんな乱暴な真似はしない方がいいんじゃないか?
ドアを開け、室内へと促す青年に、少女が剣のある眼差しを向ける。
いや、別にいいんだけどね……君がそれでいいならさ。ただ……近所迷惑だから……。
小さく言い募る青年を相手にせず、少女はさっさと靴を脱いで室内へとあがり込むと、 入ってすぐのところにあるテーブルに持ってきた箱を置いた。
「これ。まりあから。クリスマスケーキ」
言葉少なにそう言うと、2脚ある椅子の一方をひき、腰をおろした。
どうやら使い走りをさせられて、機嫌が悪いらしかった。
着替える暇もなかったのか、コートの下からは制服が見え隠れしている。
嫌なら断ればいいのに、と思うのだが、彼女は親友の頼みを断れない。 文句を言いながらも結局は頷いてしまう少女に、 まさみは「優しい子だよなぁ」とけして本人の前では言えない感想を胸の内に洩らす。
不機嫌な表情のまま、ぎろりっと八つ当たり気味にまさみを見る朱蘭に、青年は笑顔で答える。
「え? あ? ありがとう。手作り? うれしいなぁ」
ぱっと砂糖菓子のような甘い笑みを顔いっぱいに広げて、ドアを閉め、 彼は少女の傍へと歩み寄った。
さっそく箱へと手を伸ばし、開ける。
そっと取り出した中味は、今がはしりのイチゴを乗せた可愛らしいショートケーキだった。
「うまいなぁ。さすが富樫くんだ」
まさみの弾むような声とは対照的に、目の前の少女は不機嫌に拍車がかかっていた。が、青年は気づかない。
「おれは迷惑なんじゃないかって言ったんだけど、あいつ、きかないから」
「え? 迷惑? 全然迷惑じゃないよ。なんでそう言うの?」
少女の言葉に青年は怪訝そうに首を傾げる。
「……今日は何の日だよ? あんただって彼女のひとりやふたりはいるんだろ?  彼女にこんな手作りケーキみられてみろよ。どうなるんだよ」
言われてはたっと気づいたらしい。浮かれていたまさみの顔から笑顔が一瞬消えた。
「そうだった。どうしよう」
どうすればいいかな?
でも富樫くんの気持ちを無視するわけにもいかないしなぁっと真剣に悩むまさみの横で、朱蘭が盛大に息を吐き出した。
「なんだ。やっぱりいるんじゃん」
吐き出された言葉に、一瞬何を言われたのか理解できず、まさみはぱちぱちと目を瞬かせた。
「え? な……何を」
数秒遅れて顔を真っ赤にさせた青年を、表情を180度変えにやにやとした笑みを浮かべながら、朱蘭が見上げる。
「安心した。その年でいないとある意味やばいしな。ってことで、これはおれがもらってくな」
取り出したケーキをもう一度丁寧に箱の中に戻すと、朱蘭はすくっと立ち上がった。
「え? ちょっと。結城ー」
焦って少女の腕を取ったまさみに、朱蘭はにやりっと笑みを返す。
「まさみちゃんは彼女に作って貰えば? 居るんだろ? 彼女。せっかくだからこれはおれがもらってく」
だってせっかくまりあが作ったんだから、食べなきゃもったいないだろ?
「それ、僕になんだろ? 食べるよ。食べなくちゃ富樫くんに悪いだろ」
「おれが適当に言っておいてやるって」
必死に食い下がる青年に、朱蘭は耳を貸そうとはせず、しっかりと胸の前に抱えるように、ケーキを確保する。
「それは困るよ。嘘つくの苦手なんだよ。味を訊かれたらどうすればいいんだ?」
奪い返すように手を伸ばすまさみに、朱蘭は顔を顰めた。
「まさみちゃんさぁ。情けないよ」
「情けなくていい。くれ。一口だけでもいいから」
必死に言い募るまさみに、結局朱蘭が折れた。
「あー、もう、わかったよ!」
いやいやながら、もう一度テーブルの上に箱を置くと、ケーキを取り出す。 流し台から包丁を持ち出し、手早くひとり分切り分け、食器棚代わりのスチールシェルフの上から 平たいお皿を取り出し、慎重な手つきで乗せる。
「しっかり味わって、まりあにちゃんと感想言えよ」
じゃ、おれはこれで帰るから。
包丁を洗い、手早くケーキを元の箱の中に戻すと、用が済んだとばかりに朱蘭は箱を抱えて玄関へと足を 向ける。
「え? もう帰るのか?」
「おれもこれからデートなんだよ。まさみちゃんもデートだろ? 邪魔しちゃ悪いから帰るわ」
もらうもんもらったしな。
これ以上にないほどの極上の笑みをまさみに返して、朱蘭は扉を開けた。
「突然ごめんな。今度は上品にノックするからよ」
メリークリスマス。そんじゃな。
言うだけ言って少女はドアの向こうに姿を消した。
廊下を歩き、階段を下りる足音は、来た時よりも軽やかなものだった。
「まったく」
いつも突然目の前に現れる少女を思い苦笑する。まさみは彼女が残していったケーキに視線を落とした。
少女がいつも自慢をする親友手作りのお菓子。
前々から気になっていたそれを食す機会が思いがけず巡ってきた。
まさみはやりかけの家事を放り出すと、じっくりと味わう為、インスタントコーヒーの容器へと手を伸ばした。
メリークリスマス。
カップにお湯を注ぎながら、まさみはこの部屋にいない少女へ囁いた。
メリークリスマス。
心優しき天使たちに幸せを。

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えーと……季節ネタを、と思い、書きました短編の第2弾。
えーと……別にクリスマスじゃなくても良さそうな内容ですね……。ははは(汗)
まさみちゃん好きな鴉嬢に捧げさせていただきます。