交響詩「螺旋の追憶」


序曲「寧日の日の記憶」

 優しい旋律が聞こえてくる
 風に吹かれた木の葉がざわめくような
 春の雨が静かに窓ガラスをたたくような
 ゆうるりと寄せてかえす波のような
 三律の満たされたハーモニーが
 踊っている
 暖かい時間の中で

 水面の心地よい反射
 鮮やかな水しぶき
 名を呼ぶ声が遠くから
 笑い声が耳のすぐそばにあふれて
 「幸せ」の毛布にくるまれていた
 存在の充実感

 どこまでも
 柔らかい陽光のようなぬくもりのある
 夢路にたどる
 あどけない祈りのあるところ




第1楽章「過ち」

 とだえた雨音を求めて
 駆け出した時
 風は確かに吹いていた
 海の香りを含んで
 二つの音律が和音となって
 常に響き続けていた
 流れゆく砂の影のこだま

 張りつめた弦が
 物言わぬ緊迫感の中で
 風をとらえていた
 安らぎ

 ほんの一瞬の存在の忘却
 報復は永遠の後悔
 弦を離れた矢は
 空気を切り裂いて
 最後の風を生んだ

 二面律のひび割れた鏡
 瞳の中の絶望
 冷たい通り雨に打たれて
 泣くことも許されない
 空虚な心の中に響く
 風の名残のささやき
 すべてが凪いだ遥かな地平の彼方まで
 干からびた自らの亡骸を引きずって
 たどりつかねばならない
 二度と吹かぬ風のためにも

 とぎれそうな主旋律が
 ただ 物悲しそうに
 響き続ける
 求めていたのは何だったのか
 薄闇の中の答えは
 誰よりも知っていたはずなのに

 指の間から
 とりこぼした潤いは
 砂にしみ込んで
 乾いた風が
 いずこかより 訪れる




第2楽章「二律背反アンビバレンツ

 タロットのカードをめくれ
 右手に「魔術師マジシャン」左手に「戦車チェリオット
 新しい始まりだ でも矛盾を秘めてる
 白い戦車だ─それは真実
 黒い戦車だ─これまた真実
  ─おかしいなこんなはずじゃなかったんだけど

 カードをめくれ
 胸元に「愚者フール
 踏み出す先は谷底
 納得できぬ結果でも
 始めの一歩に変わりはない
 前面に「女教皇ハイプリースティス
 白い柱だ─これも真実
 黒い柱だ─またもや真実
 幕の向こうは無意識の海
  ─そいつは楽でいいだろうね

 そしてカードをまためくれ
 隣に「正義ジャスティス
 世の中は公平でもない 理性的でもない
 二本の柱の影には
 二つの反する真実の存在
 いいかげんうんざり
 内ポケットの「力ストレンス
 自己防衛の忍耐力が隠し札
  ─原因は案外それかもね

 一枚一枚カードをめくれ
 常に背後に「審判ジャジメント
 ラッパの音はけたたましく
 決断ばかりをせかしてる
 過去の清算はまだ先のこと
 高い頭上に「節制テンバランス
 矛盾の調和は届かぬところ
 ほらもうひとつ背後に「恋人たちラバース
 重要な選択 いつだってそう
  ─やれやれ、そいつは一大事

 カードをめくれカードをめくれ
 足下には「運命の輪フィールオブフォーチュン
 描く軌跡は奇跡と呼ばれる
 不平をいっても自業自得
 回してきたのは自分自身
 風の旋律との軌跡の交差
 一度きりの出会いは
 運命の輪を回していく
 新たなる交差点を目指して




第3楽章「訪問者」

 誰かいます
 紅霧の向こうに
 立っています
 何度も会ったことがあるのに
 一度も会ったことのなかった人が
 不条理だと言われても
 仕方がありませんけど

 話します
 対流する空気は
 ほのかに風の香りがします
 扉は静かに開きます
 すべてが偽善の上に成り立つ
 自己満足であるにしても
 互いにそれを知っています

 途切れます
 突然前触れもなく
 何の権利もなく人の命を奪うことを
 とても嫌っていた人が
 何の権利もない人に
 時を止められ
 胸のポケットの懐中時計は
 沈黙します

 広がります
 その存在が
 時の止まったときから
 より広く
 より深く
 後戻りしない時のなか
 喪失感はただただ重くのしかかり
 それでも
 まだ
 光は見えるのです

 風がつかみきれなかった
 まだ小さな手が
 扉を静かにたたきます
 再びたどりつくことのなかった
 あの人の代弁者として

 風が吹きはじめます
 ここで終わりではないのだから
 どうか
 この戸を開けてください




第4楽章「黄昏」

 紅い風
 紅い夕暮
 手は紅  血の涙
 慟哭は脈動とともに
 網膜の裏の残像は
 胸のきしむような紅

 緋色の空気
 溶けいる太陽
 落日の雄々しさ
 静かなる夜の到来

 つかみきれなかった
 幾多の手
 なぜ?
 滑り落ちた手の間の虚空
 罪を自らに
 その手のなんと赤いこと!

 やがて空は
 紫紺へと変わり
 深い静寂の中
 雨音が近付いてくる

 漆黒の闇
 それでも
 灯は静かにともり
 世界が暗黒の中に
 沈むわけではない

 今 たしかに日は没す
 この世のすべてを
 緋色に染めて
 叶ったこと
 叶わなかったこと
 望んだこと
 望まなかったこと
 その一切の清算として

 日は没し
 星は輝く
 淡く輝く影は伸び
 苛烈な伝説は
 静かな歴史に変わる




終章「終日 風強し」

 麦の穂が揺れ
 洗濯物がはためき
 ビルの間を
 呼び笛のように
 吹き抜ける

 見上げた先
 視認できるのではないかと
 一瞬 夢幻の淵に立つ
 名を呼ばれて振り返る
 総てが夢なら
 傷つかずに
 済んだろうか?

 笑いさざめき
 泣き 怒り 嘆き
 雑多な日常を
 生きることが
 なにより
 難しいのかもしれない

 立ち返り 回り道
 やっと会えた
 ただ それだけのことなのに

 雨が降ってきた
 洗濯物を取り込もう
 ビルの谷間には
 満開の傘の花
 こんな日は久しぶりに
 お茶でも飲みながら
 あの人の話を
 しましょうか



Fin

戻る