──都市全体ヲ覆ウ壁ヲ作ルノダ。
ソウスレバ空気ガ『えでん』ヘ漏レル事ハ無イ。
そのメビウスの輪の様にねじくれた風が、融け瀾れ、醜い表情を浮かべる鉄骨の上に腰掛けた少年の良く言えば鮮やかな、悪く言えば毒々しい緑の髪を煽る。
少年はその髪を無造作に掻き集めて、革紐で束ねる。そして、纒め損ねた幾筋かの髪の毛を鬱陶しげに掻き上げながら、悲しげな表情で空を見上げた。
少年の目に映るのは、コンクリートが剥がれ落ち、さびた鉄筋だけがかろうじて建造物の趣きを残す旧時代の建設物と、都市の中央部にコセコセと群れ建つビルディングの林、そしてその上に広がる灰色の天井だった。
少年は、何故か哀しみの混じる憎悪の表情を浮かべてその天井を睨みつけながら、膝の上に置かれた小型コンピューターに向かって語り始めた。
「今日、ドームが完成する。」
音声入力式にセットされていたコンピューターが耳障りな音を立てながら、その言葉を忠実に書き取っていく。
少年は語るときの癖なのか、もう一度髪を掻き上げ、言葉を続けた。
「ドームは都市の中のホウシャノウが。都市の外に広がる荒野、俗に『エデン』と呼ばれる地域に漏れない様にする目的で作られ、都市全体を覆う形をしている」
少年はふと口を噤み、側に落ちていたガラス片をドームの天井へと投げつけた。
しかし、その歪な形のガラス片は途中で失速し、少年が腰掛ける鉄骨の傍らに有った瓦礫の山へと落ちていった。硬いコンクリートに当たったガラス片が砕け散る音がいつまでも耳に残る。
自分の上にのしかかる、決して崩れることの無い現実にため息をつきながら、少年は再びコンピューターに向かう。
「午後行われる完成式典の後、ドームは封鎖される。」
「つまり、僕達は永遠にドームに閉じ込められるのだ。」
少年は両手の指を擦りあわせ始めた。まるでチアノーゼを起こした指に生気を取り戻そうとしているかの様に。
そして、実際には、健康そうな肌色をした指をジッと見つめながら、苦々しげに呟く。
「今、僕の上には無機質な灰色の天井が有る。」
膝の上の機械は、聞き取りにくい、微かな呟きも忠実に書き取っていく。
「ドーム封鎖後は、あの天井に、映写技師がプログラミングした空の映像を写し出すのだそうだ。でも……」
少年は何時の間にか目を閉じていた。自分の周囲を取り囲んだドームの壁と、それに象徴される醜い現実から目を逸らそうとするかの様に。
そしてそんな弱気な姿勢とは裏腹に、強い口調で言い切る。
「そんなのは、偽物の『空』だ。」
「サウラってば、何でそんなにドームの事、悪く言うの?」
不意に話し掛けられ、サウラと呼ばれた少年は驚きの表情を浮かべ、目を開く。彼の目の前に立っていたのは、彼の幼なじみのラクリという少女だった。
ラクリは、まだ眩しそうに目を瞬かせているサウラの鼻先に指を突きつけて、一気に巻くしたてる。
「偽物の空だなんて、ジャスに言ったら怒られるわよ。映写技師に選ばれた、って大喜びしてるんだから。」
サウラは、烈火の様な──それこそ『空』の事を悪く言われたジャスの様に怒っている──剣幕のラクリに、呆気に取られた様な表情を浮かべていたが、やがてクスクスと笑い出した。
ラクリは、人懐っこい笑いを浮かべてラクリの顔を見やるサウラに構わず、怒りと心配の表情を浮かべ話し続ける。
「それに、そんな後ろ向きな感想を後世に残しちゃイケナイと思うよ……指導者サザは、私達がビッグバンの後どうやって生きて、どんな風に進歩し続けたかを後世の人に伝える為に、あんたを『歴史伝承者』にしたんでしょ?」
『指導者サザ』という名が彼女の口から漏れた瞬間、サウラは笑いを引っ込め、真剣な顔で彼女を見つめる。何者にも怯まないラクリの目が彼を見つめ返す。
二人の視線が、無数の光を発しながら、交錯する。
緑の瞳 すみれ色の瞳
怒りの赤 哀しみの青
心配の碧 気がかりの灰
希望の金 絶望の黒
すみれ色の瞳 緑の瞳
二人の視線が、目も眩む様な色彩を纒って、交錯した。それは、まるで魂そのものが交錯したかの様な、とても厳粛で真摯な瞬間だった。
しかし次の瞬間、サウラは、魂の奥底まで見透かす様なラクリの瞳から目を逸らす。息が詰まる様な凝視から逃避する。
「大丈夫だよ。これは僕の個人的な日記だから……誰にも見せないから、大丈夫。」
先程までの言葉を記録したフロッピーディスクを玩びながら、根本的な問題を無視した解決策を提示する。
「それに僕は、ジャス兄さんの気持ちも、父さんの……指導者サザの面目も傷つける気はないから。」
そう言って、涙をこらえる子供の様な微笑を浮かべる。
ラクリは、その表情を見て、納得できる真の解決策を引き出した瞬間の切なさよりも、偽の安堵感に満足する方を選ぶ。
彼女は軽く肩をすくめると、サウラの横に、勢い良く腰を下ろす。そして手にしていたバケツを足元に放り投げる様に置く。
「そんなの持って、何処行くつもりだったの?」
サウラは、ひどく古ぼけた──それは、もしかしたらビッグバンの前に製造されたのではないかと思ってしまう程の年代物であった──バケツを足の先で指し示して訊ねた。心の傷に触れられないように、砂糖衣で塗り固めようとする意図が見え見えの態度。
ラクリは、彼の態度が気に食わないのか、同情なんかしている自分が苛立たしいのか、それとも全ての重荷を背負い込もうという気概なのか良く分からないが、ぶっきらぼうな態度で答える。
「ゴルフ場跡地の泉までノウヤク汲みに。ほら、ジャスが仕事始めだって騒いでいたから、差し入れに行こうと思って。」
「あはは、ラクリの所でもはしゃいでたんだ。」
映写技師に選ばれてからというもの、舞い上がったまんまのジャスを思い出して、二人は同時に吹き出した。普段冷静な人間が舞い上がった時程ほほえましく、そしておかしいものは無いのだ。二人は息が苦しくなるまで笑い転げた。
「映像屋(アーティスト)冥利に尽きるとか言ってたからね……。」
笑いの発作をまだ引き摺りながら、しかし妙にしみじみとした表情でサウラが呟く。その呟きの中に、憧れと疎外感の入り交じった感情が混じっているのを耳聡く聞きつけたラクリが不思議そうな面もちで、サウラの顔を覗き込む。
「あんたもそうでしょう? 歴史伝承者なんて、文章書き冥利だと思うよ。」
「……僕のは義務(オモニ)だよ。」
ラクリの問いにそう答えたサウラの緑の瞳には優しい微笑みが浮かんでいる。
笑いながらの言葉だから、本音。
笑いに包まれなければ言えないのだから。
優しい微笑が浮かんでいるから、なおさら悲しい。
その瞳に浮かぶのは本当は涙なのだから。
二人は数分の間、黙りこくっていた。重苦しい沈黙が時の流れをせき止めるのか、その数分間がまるで永遠の様に感じられた。
ラクリは気まずそうに足元の小石を蹴っていた。どうやって彼に語り掛ければいいのか分からなかった。
サウラは、自分の言葉のもたらした重圧を跳ね除けようとするかの様に大きく背伸びをする。そして足元──ラクリのバケツのすぐ側──に置いてあった布製のカバンを拾い上げ、その中に携帯用コンピューターをしまう。
「何処か行くの?」
「うん、ちょっとエデンまで。今日で見納めだし、空でも見に行こうかなと思って。」
そう答えて立ち上がったサウラは、思い出した様にカバンの中をガサゴソと探りだす。そして数秒後、訝しげな顔つきのラクリの目の前に、一枚のフロッピーディスクを突きつけた。
「何これ?」
「ノウヤクの合成方法。図書館で見つけたから、コピーしてきたんだ。ラクリにあげるよ。」
ラクリは手渡されたディスクをためつすがめつしながら、眉根を寄せる。
「図書館から資料を持ち出すのって……禁止されているよねぇ。二十年以下の懲役だっけ?」
サウラは既に、苦悩するラクリに背を向けて、歩き出していた。
「まっ、いいか。見つかんなきゃ、バレないし。」
ものすごく楽天的な意見を結論として採用したラクリは遠ざかっていくサウラの後ろ姿に呼びかける。
「サウラー! 早く帰ってきなさいよ!」
サウラはクルリと振り返って、その声に答えた。
「完成式典迄には帰るよ。ジャスの映した空見なきゃイケナイから。」
そして大きく手を振ると、確かな足取りで、ドームの外に広がる荒野目指して歩み去って行った。
エデン。それは遥か昔、神が造った楽園。
エデン。それは最初の罪を犯した人間達が逐われた楽園。
エデン。それは二度と帰れぬ、始源の楽園。
エデン。それはそれは決して辿り着けぬ楽園。(ユートピア)
この都市の周辺に広がる無限の荒野を『エデン』と名づけた人は、何を思っていたのだろう。この荒野を拒絶しながら、『エデン』と呼び続ける人々は何を思っているのだろう。そして、都市を否定しながら、拒絶する事も出来ず、エデンを彷徨っている僕は何を思っているのだろう。
サウラは胸の奥底から沸き上がってくる疑問を幾度も繰り返して呟きながら、殺風景な荒野を見渡した。
都市内に浮遊する人工衛星の何百倍、何千倍という熱を放つ太陽。所々、赤い岩が露出している乾燥した大地。倒れる力もなく、立ち尽くしたまま枯れている。数える程しか生えていない植物。時折、熱風が赤い砂埃を巻き上げる。
ひどく殺伐とした、けれど何故か懐かしい風景。
サウラは胸に閊えた悲しみに似た想いを、小さなため息に乗せて吐き出した。そして、膝の上に乗せたコンピューターをわきに除けて、岩の蔭にひっそりと湧く泉に口をつける。喉がゴクリと上下する。体内に水が浸透していく。
その水は、ギラギラと照りつける太陽の熱で、すっかり温まっていたが、この乾燥しきった荒野では何よりの甘露であった。
サウラは、その小さな泉を飲み干してしまうのを恐れるかの様に、ほんの僅かな量を飲んだだけで、顔をあげた。そして、水に濡れて額に張り付いた前髪を手櫛で掻き上げながら、水面を覗き込む。
澄みきった水。ホウシャノウやノウヤクを一切含まないと言うと嘘になるが、都市内の水と比べれば、ずっと純粋な水。
どうして、この水を飲んでいきていく事が出来ないのだろう?
サウラはそんな事を思いながら、コンピューターを、手元に引き寄せる。そして手慣れた仕草で、先刻まで使用していた『個人的な日記』用フロッピーディスクと、カバンの内ポケットにしまってあったディスクを交換する。カシャカシャという無機質な音を立てて、ディスクに書き込まれた内容をディスプレイに表示していく。
『人類の歴史』というタイトルと『最高機密(トップシークレット)』という文字が、耳障りな警告音と共に浮かぶ。
それは先程渡した物と同じく、図書館の資料を無断でコピーした物だった。
サウラの細い指がキーボードの上を駆け巡り、極秘事項を読み取るように命令する。ディスプレイを見つめる顔には、恐れも躊躇も、そして決意すらも浮かんでいない。完全なる無表情で、ディスプレイの上の情報を読み取っていく。文章化された人類の歴史を遡っていく。
ビッグバン以前の人類は、ホウシャノウやノウヤクが無くても生存できた。それどころか、それらは有害な物質だったのだ。しかし人類は、ビッグバンを境にホウシャノウやノウヤクが有っても生存できる形に進化したのだ。
そこまで読み取ったサウラの脳裏に、都市の外れの風景が浮かんだ。醜くねじ曲がった鉄骨。鉄筋がむき出しになったビル。黒く焼け焦げた瓦礫。完全なる破壊の跡。
全てを破壊尽くさなければ、進化出来なかったのか?
全てを破壊してまで進化しなければならなかったのか??
しかし、サウラの抱いた疑問に答えは──応えは──無かった。
記録は無慈悲な冷静さでもって、醜悪な歴史を記述する。
ビッグバンとは、人類に進化をもたらすものではなく、人類を抹殺するもの──核兵器の爆発──であったのだ。そして、それを行ったのは、幾人かのエゴイストに扇動された人類自身だった。
いつの間にか、サウラの頬を涙が伝わっていた。
どうやって、この歴史を伝承すればいいのだろう。
どうして、こんな歴史を伝承しなければいけないのだ?
他人を抹殺する権利と手段を造り出した人類。
自己の破滅の手段さえ、自身で選択した人類。
進化してまで生き延びようとした人類。
破壊への過程を忘れようとした人類。
灰色の壁の内側で、荒野から目を逸らしている人類。
どうやって、この現実を伝承すればいいのだろう。
どうして、こんな現実を伝承しなければいけないのだ?
悲しみよりも怒りで涙を流し続けるサウラを無視して、コンピューターは歴史を遡り続ける。
戦争─殺戮─闘争─虐殺─争乱─殲滅─戦争─人類が存在する限り繰り返される地獄絵図─侵略─攻撃─殺害─狩猟─食物連鎖─生存─本能─人類が人類で有る限り繰り返される図式─進化─進化─進化─進化─進化─何故に進化しなければいけなかった?─進化─発展─弱者。
いつの間にか、記録は人類が人類となる以前まで遡っていた。
サウラは泣き濡れた瞳で太古の生物─原人─猿人─猿─哺乳類─恐竜─魚─原生物─生命─を眺めた。
サウラはそれらの生物を見た事が無かった。それらの生物の存在を知らなかった。サウラは人類しか存在しない世界に、人類だけが存在する時代に生まれてきたのだから。
進化の道を選んだ愚かな生物達。進化の過程で滅んでいった幸運な生物達。
サウラは、その中の『サカナ』に目を止めた。
「お前が始まり……?」
それは、サウラの知識の中の始まりの姿に似ていた。
「お前に戻れたらいいね……」
それは、サウラの知識の中の人間の始まりに似ていた。
「始まりまで戻って……」
それは、母親の内部で眠る胎児の姿に似ていた。
「やり直せたら……」
「やり直せたら……」
呪文の様に呟き続けるサウラの耳に微かに水の跳ねる音が聞こえた。それは有り得ない事であったけれど、何者かが──生物が──静まり返った水をかき乱した音であった。
サウラはその音に誘われるかのように、それでいて絶望を信じる者の物憂げな動きで、水面を覗き込んだ。
澄み切った水。青く青く澄んだ水。罪も汚れも内包し、それでいて純粋なままでいる水。
その中に何か赤いものが映る。その中で何か赤いものが動く。その中を何か赤いものが泳ぐ。
それは、小さな赤いサカナ。
サウラは小さく微笑む。絶望に近い悲しみと、歓喜に等しい希望が彼を微笑ませる。
サウラはゆっくりと水面に顔を近づける。
モウ イチド
ほつれた緑色の髪が水面に広がる。
ハジメ カラ
頬が水に濡れるのを感じる
ハジマリ マデ モドッテ
水中に落ちていく。
サイショ カラ
水と触れ合う。
モウ イチド
水と交わる。
ヤリナオソウ
原始の生命へと還っていく。
モウ イチド サ・カ・ナ
都市は、ドーム完成の歓喜と熱気に包まれていた。
全ての人が歓声を上げ、踊り、笑い、そして叫んだ。
「私達はドームに守られる!」
「俺達のホウシャノウが守られる!」
「僕達のノウヤクが守られる!」
「私達は、ドームに守られる!」
「我々は進化し続ける!」
その熱狂と混乱の中、一人の少女が人混みをかき分け、走り続ける。ラクリだった。
ラクリは、今まさにドームを封鎖しようとしている指導者の下へと駆け寄った。
「閉めないで! まだサウラが帰ってこないの。」
サウラという名前に、その場に居る者全てが動きを止める。
映写技師ジャスの弟、サウラ。歴史伝承者サウラ。そして指導者サザの息子、サウラ。
そのサウラが帰っていない?
「サウラが、エデンにいったまま、帰ってこないの。」
ラクリが息を切らせながら、報告する。ジャズが『空』を制御する大型コンピューターから離れ、ラクリの側に寄って来る。そして父の顔を見る。
しかし、サザは顔色一つ変えずに、ドームを封鎖するように命じる。
「サザ! サウラがまだ……」
ラクリの目から涙がこぼれる。ジャズがサザに詰め寄る。
「完成式典の時間を忘れる程、馬鹿ではないだろう。」
サザが低い声音で、言い捨てる。
その一言は、サザの忠実な部下である筈のジャスを激高させた。ジャスは、自分より遥かに強いサザ──あらゆる意味で、サザはジャスより強かった──に殴りかかろうとする。
その動きを右手一本で押し止めながら、サザは自分に言い聞かせる様に呟く。
「あれは、選んだのだ。」
「何を? 何を選ぶと?」
ジャスが聞き返す。都市を捨て、ドームを捨て、家族を捨て、全ての庇護を捨てて、エデンに残る事が何の選択だというのだ。
その問いに答えず、サザはもう一度言う。
「あれは選んだのだ。」
サザがそう言った瞬間、ドームがどよめいた。
ドームが封鎖される前の天井──つまりは映写技師が何も映していない筈の天井──が青く染まったのだ。
「アオ……ゾラ……?」
都市中の人間が、天井に広がる蒼を見て、呆気に取られた。映写技師のジャスでさえも。
それは空ではなかった。それは水だった。
青い青い水、蒼い蒼い海、万物の母、純粋なる水。
その中で赤いものが動いた。
「何あれ?」
人類しか見た事の無い人間達が異口同音に疑問を発する。
赤いものは水面近くまで浮かび上がる。
「あれは……」
都市中の人間達が、記憶を必死で探る。遺伝子レベルの記憶。
私達はあれを知っている。見た事がある。
赤いものは悠々と泳ぐ。
いつ見た?
遥か昔!
遥か昔?
私達の昔!
赤いものは水面を突き破って、跳ねた。
サカナ!
私達の祖先!
私達のムカシ!
赤いサカナは鱗をきらめかせながら、悠々と跳ねた。
「俺、あんなのプログラムしてない……」
ジャスが呆然と呟いた。
「あれ……サウラだよ!」
ラクリが叫んだ。その頬は涙で濡れていた。
赤いサカナが、原始の海を泳ぐ。
サザはその姿を眺めながら呟いた。
「お前は始まりに戻る事を選んだのだな。」
それは決して届く事は無い、息子への呼びかけだった。
「お前と私の選ぶ道は違うか……」
何時も冷静で、時として冷酷にさえなるサザが泣いているかに見えた。涙も流れない、声も震えない、けれど彼は泣いていた。
ジャスはそれを察し、父親の側に立つ。
二人は黙ったまま、空中を泳ぐサカナを、永遠に失ってしまった家族を見つめていた。
ずっと、永遠に、彼らの元から去った少年の姿を眺め続けていたかった。悲しみに、感傷に浸っていたかった。
しかし。サザはそれを切り捨てた。
そして、始まりへと戻っていった少年に対し、宣言する。
「私は進化の道を選ぶ。例え愚かでも、例え破滅への道であろうと、私は進化を選ぶ。」
「ここで死ぬ訳にはいかない。ここで滅びる訳にはいかない。」
「私達は進化し続ける!」
それはサウラに対する最後通告であり、別れの言葉であった。
天井を泳ぐサカナも、それを理解していたのか、サザの言葉と同時に、その姿を消した。
天井には、それから数分の間海が残っていたが、それも徐々に──まるで潮が引く様に──薄れ、消えていった。
後に残ったのは、原始からの記憶を抱えたまま、ドームに残る事を、進化し続ける事を選択した者達であった。
彼らは叫んだ。サカナが現れる前と同じ言葉を。
「私達はドームに守られる!」
「我々は進化し続ける!」
サザは彼らの叫び声を受け止める。
そして傍らに立っていたジャスに、『空』を制御する機材をセットするように命じる。
ラクリが、サウラはもう消えてしまった事を知りながらも、もう一度、天井を見上げる。
サザが、低いが良く通る声で、命令を下した。
「ドームを封鎖せよ!」