大正の女


 母は大正五年に生まれた。


 初めて見たのは、いつだったろう。
 初めてあの人を、母と確認し、母と呼び、そして、母と慕ったのは……。
 捨てられた事は、鮮明に覚えているのに、母と過ごした楽しい日々は、うたた寝に見るゆめのようで、 確かな記憶がない。
 きっと、どこかで、思い出したくないという意志があるのだろう。
 別に母を憎んでいる訳ではない。もし憎むとするならば、彼女の方だろうから。 彼女の幸せを父と二人で奪い、この家に束縛していたのだから──。


 母──といえばあの笑顔を思い出す。
 目元を緩めて、口を少し開き、何か躊躇ったような、あの笑顔。 それは、決して嬉しい時に浮かべる笑みじゃなく、寧ろ、偽り的な笑みだった。
 わたしは、母のその笑みが嫌いだった。その笑みがわたしと父を苦しめ、同時に、 母自身をも苦しめていたのだから。
 だから、わたしは考えていた。
 どうしたら、母を本当に悦ばすことができるか。そして、どうしたらあの笑みを無くすことができるか──。
 しかし、それも一人芝居で終わるのが常で、母には何の効果もなかった。
 子供心にも、それは、ショックだった。しかし、逆にいつかは母に最高の笑顔を浮かばせたいという、 希望をもたせてくれた。
 そしてある日。わたしはずっと待ち焦がれていた、母の本当の笑顔にありつけた。
 だが……。


 あれは、雨の激しい日だった。
 わたしは、母が傘を持たずに買い物に行ったのが気になって、急いで、捜しに出掛けた。 母が買い物に行く店は、凡そ見当がついていたので、別に困難ではなかった。
 人込みの中で、母らしき人をみつけた。しかし、よく見ると人違いで、 母を捜すのは、意外に容易ではなかった。
 わたしは、母が少しでも濡れないようにと、自然に小走りになった。 水が跳ねないように走っているつもりだが、既に足には、泥が付いていた。気持ちが悪い筈だが、 夢中になっているせいか、然程、嫌な感じはしなかった。 そして、どれくらい走ったか、わたしは母を見つけた。
 後ろ姿だったが、間違える訳なかった。
 しかし──。
 その傍らに、全く知らない男がいたのだ。
 父ではない、全く別の男──。
 二人は雨に濡れたまま、言葉も交わさず、何事もないように歩いていた。
 だがわたしにはわかった。母がこの男を、どういう目で見ているか。母にとって、どういう存在なのか。 家族とかそういうものではなく、もっと別の、もっと大きな存在だということが。
 二人は小さな小さな家に入って行った。
 中に入って行ったから、仕方なくわたしは窓から覗いて見た。入ると同時に口を開いた。
 「……会えて嬉しいよ……。」
 その瞬間、母が微笑んだ。これ以上の至福はないというぐらい嬉しそうな顔で……。 そして、腕を伸ばし、男の頬を撫で摩った。男も母の頬を大きな手で包み込み、そして、ゆっくりと抱きしめた。
 そこにいたのは、一対の男と女だった。
 母は、母親ではなく、妻でもなく、もう一つの、別の、女になっていた。
 それは、わたしが生まれて初めて見る、女だった。
 一人の男に愛されている、女。
 美しい、一人の女。
 二人は、何度か接吻を繰り返し、着物を剥いでいった。
 母の美しい姿態と、男の逞しい姿態が対照的で、大変美しかった。
 二人は、手と手の指を絡ませるように、手足を絡ませ、そして、喜びの声を上げていた。
 幸せそうな顔で、幸せそうな声で……。


 母が身支度を始めた。
 わたしは、母に見つかるといけないと思い、急いで、その場所を離れた。 いつのまにか、雨は止んでいた。
 わたしは、転ばないように走った。思い切り走った。先ほどの事を全て忘れるように。


 目の前に、会社帰りの父が見えた。
 「父さん!」
 息苦しいのを我慢して、父を呼んだ。父は振り返って、目を見開いた。
 「なんです? どうして、そんな所にいるのです?」
 だが、はぁはぁと呼吸を整えているわたしは何にも言えなかった。
 ようやく、落ち着いて、
 「うん。父さんを迎えに来たんだ。」
 と、心にもない事を言った。わたしは、そんな自分に驚いた。
 「そうですか……ありがとう。」
 父は素直に悦んでくれた。いい人だな……と、思った。
 なのに、なぜ母は、父を裏切るようなことをしたんだろうか、父は知っているのだろうか。 母の事を。母が自分を裏切り、他の男に抱かれていることを。
 「良平、タコ焼を食べますか?」
 難しい顔をしていたのだろう。父はわたしがタコ焼を好きなのを承知だから、 気分を変えさせるために言った。
 「うん。」
 しかし、タコ焼きの屋台は、ほんの二、三分前に通り過ぎたので、また戻らないといけない。
 父がわたしの手を引いて、Uターンをした。
 「よし、行きましょう。」
 「少し、時間が掛りますが……。」
 「構いませんよ。」
 ──本当に、十分くらい待たされて、タコ焼が出来た。
 ここまで引き返して、何も買わなかったら損だよ、と、父の目が訴えている。そして、 わたしも同じことを考えていたから、二人して顔を見合わせて、笑った。
 暫くしてお金を払い、タコ焼きを受取り、歩き始めた。が、急に動きが止まった。どうしたのだろう、 と顔を上げるとそこには、母とあの男がいた。
 一瞬にして、そこだけ時が止まったかに思えた。
 だが、男がその場で正座し、地面に頭をつけていた。先ほどの雨のせいで道は泥だらけだ。
 その上、追い討ちを掛けるようにポツポツと、雨が降り始めた。それは、やがて、シトシトと、 激しさを増していった。男はまだ、そのままの格好でいた。父はただ黙って、突っ立っていた。 母は、泣いているかのように見えた。いや、雨のせいじゃない。母は、泣いていたのだ。
 「顔を上げてください。」
 父は、その男の腕をとり、微笑んだ。
 「……。」
 「佐代子が……佐代子さんが……好きなんですか?」
 男は黙って、頷いた。
 「佐代子さんも好きなんですよね?」
 そして、次は母に尋ねた。
 「……すみません……。」
 「謝る必要はありませんよ。愛し合っていた者達を引き裂いたのは、わたしたちの親なんですから。 あなた達が悪いわけではありません。」
 そう言って父は、わたしの手を取り、
 「良平、お母さんにちゃんと挨拶をしなさい。」
 と、促した。
 何を言えばよいのか、わたしには分からなかった。
 「サヨナラするんですよ。」
 父がわたしを急かす。
 だが、わたしは思いもかけない事を口走っていた。
 「母さん、……僕たちと居て、幸せだった……?……。」
 母は、顔面蒼白になった。
 わたしは、咄嗟にその場から逃げた。怖かった。返事が、母の反応が、自分がしたことが……。
 「良平! 待ちなさい。良平!」
 父がわたしを追って来た。右手にタコ焼きと、左手にカバンを持って……。走り辛そうだった。


 家に帰って、わたしは傘を持っていたことに気付いた。そして、バカだと苦笑した。
 「良平、」
 母の声が聞こえた。あの笑顔を浮かぶ。あの偽りの笑顔が。ここで生活していた母が。
 そして、あの男のところにいた母が、思い出される。あの笑顔。あの声。あの表情……。
 わたしは、下唇を噛んで、涙をこらえた。
 「クゥ……ウッ……。」
 押さえつけた指の間から、嗚咽が洩れた。


 寝つけなくて、わたしは夜中に父の部屋へ行った。
 父はまだ起きていた。
 「どうしました?」
 「眠れなくて……」
 「そうですね、わたしもです。
 そうだ。お話をしてあげましょう。」
 その夜わたしは父の話しを聞いた。
 母と初めて会った話しや、わたしが生まれた時の話しや、そして、あの男の話しなどいろいろ聞いた。

 「佐代子はわたしの初恋だったんですよ。」
 照れ臭そうに、父は笑った。


 それから、数年後。
 戦争が起き、父が死んだ。
 身寄りのないわたしを、母だった佐代子さんが引き取ってくれた。
 佐代子さんは、新しい家庭を築いてて、子供が二人いた。
 そしてわたしは、佐代子さんの一家にお世話になりながら、あの微笑を浮かべている。 偽りの、あの、いつかの、大正生まれの女が微笑んでいたような……。



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高校の文芸誌「翠」に掲載された後輩の短編です。
私の好きな作品のひとつ。
実はサイトを立ち上げる時に、この作品と譲さんの「もう一度サカナ」からすちゃんの 「交響詩」は絶対に載せようと決めていたのです。
ラブコールに答えてくれたMANAちゃん、ありがとうvvv