幕間


 巨大な落日が地平線へと近づいていく。
 強烈に真横から照りつける夕日を浴びて、黒髪の牧師は目を細めた。
 日中灼熱の日差しに晒された甲板はまだ高い熱を含んでおり、じっとしていると革靴の裏側が焦げつきかねない。
 重たいパニッシャーを背負ったまま、無駄に広く作られた甲板を舳先に向けて歩いていく。
 もともと客を乗せて優雅な空の旅を楽しむために作られたしろものではない。
 剥き身の白味がかった鉄板を打ちっぱなしにしただけの甲板は平坦ではなくところどころで微妙に湾曲しており、 不慣れなものが歩けば足を取られて転びかねない。もちろん手すりなどという親切なものはどこにもついていないため、 運が悪ければ船体を転がり落ちることもありうるのだが、黒髪の牧師―ウルフウッドはそんなことなどお構いなしといっ た様子で危なげなく甲板の上を歩いていく。。
 上空を薄い雲が飛ぶような速さで南へと向かって流れていく。
 今日は大気が澄んでいるのだろうか。夕焼けがことさら鮮やかに空を染め上げているように感じられる。
 そのさまをぼんやりと眺めながら、ウルフウッドは短くなった煙草を足下へと落し踏み消した。
 鈍く光る白い甲板の上に煤けた黒いシミをがつくのを気にする風もなく眼前に広がる礫砂漠の彼方に目をやる。
 低く唸るエンジンの振動が分厚い装甲を通して足の裏に伝わってくる。
 空腹の体に小刻みなその振動が響いてくるのを感じ、ウルフウッドは溜息をついた。
 食べるものがないわけではないが、今は食べる気にならない。否、食べられない。
 「仕事」の前はいつもそうだ。ことに当たるまでの一昼夜ほど、自分の体は水分以外の食事を受け付けなくなって しまう。そうすることで身体の緊張感が高まり、感覚が常の何倍にも研ぎ澄まされていく。覚えこんだリズムを無理に 崩そうとすれば身体が激しい拒絶反応を起こし、無駄に体力を消耗するだけである。
 船体に切り裂かれた風が軌道を失って小さな渦を巻いている。
 少し伸びた前髪がその風に煽られて顔の回りで乱舞するのを鬱陶しそうに掻き分けながら、憂鬱な眼差しを 暮色に染まる地平線に投げかける。
 いま頃、この地平線の彼方にある幾多の街で、多くの人々がささやかながらも幸せな団欒の食卓を囲んでいる ことだろう。それが最後の晩餐となることを知るものは誰もいない。また知る必要もない。明日も変わらず、同じ 食卓を囲むと信じて疑わず過ごすことの幸福さを思い、ウルフウッドは口の中で小さく祈りの言葉を呟いた。
 今ならまだ許されるだろう。牧師という肩書きも背負った十字架も何一つ免罪符にはなりえなくても、迷いの上に 立つ今ならば、罪なくして死にゆく人々の安らぎを祈ることくらいは。


 引き返せないところまで来てしまった。そう感じたのはなにも今回に限ったことではない。
   ただ今ほど切実に思ったことはなかった。
 自分達がこれからなすべきことを思うと、一歩下がれば奈落が広がる崖淵に立たされたまま、自分が入る 墓穴を掘っているような救いのない徒労感に襲われる。
「なにをしてんのやろ・・・ワイは」
 自嘲気味な笑いが口元に浮かんでくる。夕日に照らされた顔に深い影が刻みこまれたようだった。
 銃の引き金に指をかける時、いつも脳裏には教会の子供達の顔が浮かんでいた。
 すべてが不安定な要素の上に成り立つこの星の社会の中で、人々は皆生きることに懸命だ。余裕の あるものはいたとしてもほんの一握りにすぎない。
 その中で孤児となった子供に与えられる加護はあまりにも薄っぺらなものでしかない。
 特定の庇護を受けられない孤児達の行末に待っている苛酷な現実を、自分は嫌というほど目の当た りにしてきた。同じ思いをあの子たちにはさせたくない。
 そのため自分の手が汚れようと悪鬼と恐れられることになろうと一向に構わなかった。
 その代償として守られているものがあると信じることができたからだ。
 だが、今はそのかすかな望みさえ迫り来る宵闇に掻き消されてしまいそうだった。
 これから行われようとしていることは、この星に生きる人間にとって何の救いも希望ももたらさない。
 人類に対して悪意を持つ1人の男の描いた破滅へのシナリオを、それと分かっていて演じなければ ならない自分達は傍目には道化師と見えることだろう。
 それでも生き残りたいという抑えがたい思いが、自分をここに踏みとどまらせている。
 社会の表側と裏側を行き来しながら、なんとか今まで無事に生き抜いてきた。腕利きのならず者や狡知に長 けた詐欺師まがいの輩となら互角に渡り合ってヒケを取らない自信はある。形勢の有利不利を察して不要な危 険を回避する術も心得ている。しかしそんな打算や駆け引きも相手が人間であってこそ通用する話なのだと認 めざる負えない。
 息苦しいような焦燥感に苛まれながら、頭の一部分はまるで別の生き物のように冴えた冷たさを保っている。
 GUNG-HO-GUNSは人間であることの何かをごっそり取りこぼした集団だ。自分もまた闇の眷族の一員である。 無くさぬように大事に守っていたつもりで本当はとっくの昔に人として大切な何かを失ってしまっているのか もしれない。
 真っ赤に熟れた太陽が緋色の鋭い閃光を一瞬投げかけて、地表に没していく。
 同時に大気から夕暮れの気配が消え、微かに残っていた日の光のぬくもりが瞬く間に砂漠の夜特有の冷たさ に飲み込まれていく。遠い東の空の高みから宵闇が静かに地上へ降りて来る気配を感じながら、ウルフウッド は新しい煙草に火をつけた。
「なにしてんのやろ・・・アイツは」
 ヴァッシュ・ザ・スタンピード。
 案内役を任されて、ここまで引きずってきた元600億$$の賞金首は「人間台風」の異名をとるとは信じがたい ような優男だが、唯一この計画の首謀者たるナイブズに対抗できる力を秘めている。もしも可能性があるとした ら、あの男だけ。ナイブズを止められるのはあの男だけだという思いは今でも変わらない。
 長い階段を登っていった赤いコートの後ろ姿が目の前をちらつく。
 兄弟の久しぶりの対面は予想したほどの大きな衝突には至らなかったらしい。
 現に建物が破壊されることもなく、こうして「方舟」は始動している。
 倒されてしまったのか、それとも拘束されているだけなのか。ナイブズはなにも語ろうとはしなかったが側 近ともいえるレガートの姿が見えないところを見ると、彼の特殊な能力を使って拘束されている可能性が高い。
 今のままで終わるはずもない。必ず何かが起こる。そう確信している。
 ただ、何かが起こるとしてそれがいつになることなのかは神ならぬ身では知りようもなかった。
 人生は絶え間なく続く問題集だ、といつかあの男に言ったことがある。
 最良の答えを求めて右往左往するうち、時間は刻々と過ぎ選択の幅は狭まってくる。
 粛清の雨が地上を覆い尽くしてからでは遅すぎる。
 待つことしかできない自分の無力さに苛立ちを覚え、咥えた煙草を強く噛み締めると強烈な苦味が口中に広 がった。同時に苦々しい思いが胸を満たしていく。
 あの男に連れられていったSHIP。そこで知らされたホームからの救援船の話が脳裏にこびりついて離れない。 無闇な期待は毒になる。分かっていても一度見えた希望の光を今更なかったことにはしたくない。先が見えない と思っていたこの乾いた星の上に救いの手が差し伸べられようとしているのだ。それも遥か遠い未来の漠然とし た話ではなく、数年後という近い将来、確実に訪れる約束されたものとしてである。大墜落から150年あまり を経て、この星はようやく新しい時代へと向かおうとしている。
 その希望の灯が眼前で吹き消されるのを指を咥えて見ていろと、そう言われるならまだマシだったかもしれない。
 ナイブズはしたたかだ。自ら直接手を下そうとはしない。
 あの男は希望の灯を吹き消す役割を自分達に与え、人間同士での潰し合いを演じさせようとしている。


 宵闇は次第に濃度を増していく。
 指先が凍えるように冷たい。それは煙草のせいでも、夜、砂漠を吹く冷たく乾いた風のせいでもないことを牧師 は知っていた。
 追い詰められていく意識。ギリギリの緊張感の中で感覚だけは刃物のように鋭く尖っていく。
 体温の失せた冷たい指先は自分の手とも思えない作り物じみた感触を与える。
 この指先が引き金を引く。魂のこもらぬ機械仕掛けの道具のような正確さで、残酷に確実に罪なき命を剥ぎ取る ことを目的として。
 あの男は・・・ヴァッシュ・ザ・スタンピードは自分が言った言葉をまだ覚えているだろうか。
 「いつか選ぶ日が来る」と。
 より多くの人々の命を守りたいと思うなら躊躇うことも迷う必要もなにもない。
 その手足が自由になるのならば、やるべきことは明白である。

 ―――――― 頼むで・・・

 これはどこまでも綺麗事を押し通そうとするあの男を追い詰めるために、ナイブズが仕組んだ大掛かりな舞台装 置だ。分かっていても、自分は乗りかかったこの船を降りることはできない。
 決断を誤ればより多くの罪なき人々の血が流れることになる。今回はいままでのように、一つの街や村単位では 済まされない。

 ―――――― 外道はどこまでいっても外道なんや・・・

 それでも外道には外道なりの倫理感がある。意地といってもいい。
 あのロクデナシの扱い方を知らない男では甚だ心許ないが・・・
 笑いは口元で形をなす前に飛散し、奇妙に乾いた短い笑い声だけが喉の奥から漏れた。
 その声も誰の耳にも届かぬまま、風に吹きちぎられていく。


 すでに日没の残像は消え失せ、夜の帳が辺りを包み込んでいる。
 新月を迎えた夜空に月明かりはない。
 漆黒の闇の中を巨大な白い船体が低空飛行でゆっくりと移動していく。
 見上げた夜空の中に微かな星の瞬きを感じる。暗い地平線に目を凝らしてみるがまだ光は見えない。
 夜の砂漠を旅する時にはいつでも行く手に街の灯が見えてくるのを待ちわびていた。
 今はこの暗闇ができるだけ長く遠くまで続くものであることを願っている。


 低く唸るような船のエンジン音が微かに機体を震わせている。
 長い夜はまだ始まったばかりだった。


END

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