動悸



 異様な雰囲気となったフロアを抜け、朱蘭はトイレへと繋がる通路の壁に身体を預けた。
 濁った空気を控えめに吸い、疲れと一緒に大きく吐き出しながら、酔って潤んだ瞳を天井へと向ける。
 フロアからは相変わらず野太い歓声が響いていた。
「行ってみたいって言ったのは、確かにおれだけど……」
 ニワバにオカマバーが開店したと小耳に挟み、面白そうだと出かけたまでは良かったのだけれど。
 客相手の商売をやっているところはたいていそのスジの人間の来店を嫌がる。挨拶には来ても、 こちらから訪ねるとあまりよい顔をしない。
 案の定、店員の対応は友好的とは言いがたく、プライベートで来るべきだったかと後悔の念を覚えたその時、 従業員のひとりの、目の色が変わった。
 向けられた眼差しは朱蘭を素通りし、冷ややかな瞳を持つ男へ向いていた。
 どうやら由暁の容姿がお気に召したらしい。
 岩のようにごつごつとした頬を乙女のように真っ赤に染め、眼を輝かせ、 愚鈍そうな外見を裏切るすばやい動きで次の瞬間由暁に突進していった。
 外見を裏切らない実に男らしい奇声をあげながら。
 標的たる由暁はとるべき対応──回避か攻撃か──を迷っている一瞬の隙にあっけなく捕らわれてしまっていた。
 突然の雄叫びに驚いたのは朱蘭たちだけではない。
 他のおかまたちも一斉に店の入り口付近で押し問答を繰り広げいた 彼らに意識を向けた。と同時に胡散臭い集団の姿を一瞬で検分し、 これまた我先にと突っ込んでくる。
 朱蘭が連れていた他の面子に彼女たち(彼らたちか?)を興奮させるタイプが多数いたらしい。
 勢いに怯み、頬を引きつらせているだけの男たちの中から気に入った者の両頬を大きな掌で挟み込むと、 問答無用で次々と席へと拉致して行く。
 一番人気はやはり由暁らしかった。見ようによってはどことなく影があるようにもみえるお守り役は、 謎めいていて興味が惹かれるのだろう。
 彼は抵抗すらできず、多数のおかまにもみくちゃにされ、されるがままに流されていた。ただし、 冷たい怒りを内包した眼は総長へとしっかり固定されている。
 恨み辛みがこもった視線が痛い。しかし彼女にはどうすることもできず、(援護すれば結束の固いおかまたちに何をされるか わからない)悪いと思いつつも傍観者に徹するしかなかった。
 彼女は彼女で、総長だと一応の自己紹介をしたものの、判断しにくいハスキーヴォイスと男装でもそれはそれ、 一発で女だとかぎつけられてしまい、手厳しい攻撃を受けることになり、実は援護どころではなかったりしたのだ。
 いい男を捕獲したおかまたちの接客は、入店時とはえらい違いだったのだけれど……。
 ここはやはりオカマバー。下にもおかないもてなしをされたのは、遺伝学上男である同行者たちだけ。 女性は敵視され、彼らの中では一番偉いはずの朱蘭だけは輪から取り残されていた。
 おかまたちには権力やら地位は関係ないらしい。容姿だけでなくやはり男性というところが重要なのだろう。 客だというのに女というだけでぞんざいにあしらわれ、最終的には相手にもされなくなった総長は、 ただひとり、にぎやかな一角から離れ、通路の隅で呆けていた。
 壁に背を預け、ひとり佇む。
 服や髪についたヤニ臭い匂いに顔をしかめる。
 呼吸器官がほんの少しばかり弱い彼女にとって煙草は天敵であるのだが、 それ以上にこのなんとも表現しがたい臭いが嫌いだった。
 帰ったらすぐに洗わなきゃな、とぼんやりと考える。
「こんなところで何をなさっておいでです?」
 気配もなしに通路に姿を現したのは、本日2番人気の色男だった。後ろ髪を肩ぎりぎりまで伸ばした ライオンのような無造作ヘアをした男は、本音を隠したポーカーフェイスを浮かべている。
 他の面子に比べ余裕があるのは、年の功か、はたまた場数を踏んでいるからなのか。
 おかまたちにいいように遊ばれていたはずの男は、服装にも乱れた様子はない。 いつもの態度も崩れてはおらず、いたって涼しい顔だ。
「気力を補充中。あんなにすごいお姉さまがたが相手だからな、おれの気力も底をついた……」
 ライバル心をむき出しにされ、休みなく集中砲火を浴びていた総長は、げんなりとした表情を隠さない。
 体力、気力とも標準以上であるところの朱蘭ではあっても、やはりおかまという特殊な方々の異様な テンションにはリズムを崩される。自分のペースを掴めぬまま、無駄に体力気力を消耗していた。
 暫定主人である朱蘭の姿を興味深げに眺めてた男は、「それはまた」とおかしそうに口元を緩め、 応じた。
 床を蹴る音が楽しそうなステップを踏んでいると思うのは、朱蘭の気のせいか。
「あんたはまったく疲れてないんだな。鳴神」
 近づいてくる男の、余裕たっぷりな姿に悔しげに唇を尖らせた朱蘭は、いやみを仕込んだ言葉をなげかける。 が、気づいているのかいないのか、男は飄々とした態度を崩さず、意味深な笑みを 口元に浮かべるだけ。
 ペースを崩すことが稀で、いつもどんな時でも動じない。どんな危機でも飄々とした態度でたくみにかわしていく。 そんな鳴神源也という人間が憎らしい。
 男の、表向きいたってにこやかな顔を、朱蘭は真顔のまま大きな瞳を細め、鋭く睨みあげた。
 しかし、やはり男はびくともしない。まったく動じず、朱蘭の正面へやってくる。
 風すらも起こらない静かな動き。
「慣れていますから……それより」
 どうですか?
 肩をすくめ、総長の嫌味をさらりと流し、男は少女のもたれた壁に片手をついた。
 朱蘭の顔に影がかかる。
 深く甘い香りが鼻腔をくすぐる。微かに流れてくる香りは目の前の男のもの。
 残るほどに甘くはなく、心落ち着く香り。
 良い匂いに気を取られ、詰められた距離の不自然さに彼女は気づかなかった。
 暖簾に腕押しの相手に対し、 憤慨するのも馬鹿馬鹿しいと、朱蘭は早々にやりこめることを諦めた。
 投げられた問いの意味を考える。
 突然の話題の転換。
 しばし眉をしかめ、彼の意図するところを慎重に汲み取ろうとする。
 考えに意識が向いている少女は、男の瞳が奇妙な色を宿していることにも気づかない。
「全体的に見て客への気配りがいい。店の雰囲気も悪くない。教育が行き届いている感じがする。 ……特にじゅんって子とはるかっては接客がいい。 客の話にも乗れるし、話題の方向性もいい。下手に深く入り込まないとこも…… 頭がいいんだな。マコって子は口が固そうで信頼できるかもしれない」
 オープンしてまだ日が浅い割には、従業員の連携が実によい。
 攻撃されつつも観察していた総長は、眉間に皴をよせつつ、促されるまま率直な感想を述べた。
 利用価値が高そうな店だった。接待に使うにはちょうど良い店でもあるし。
「お近づきになっていた方が得だとおれは思ったわけだけど……」
 できれば抱き込んでおきたいな、と希望を混ぜる。
 頭ひとつ半ほど高い男の、サングラス越しの顔をみあげ、朱蘭はこれでいいか? と眼で問いかけた。
 時々こちらを試すような問いを放つ後見人は、本音のみえないポーカーフェイスを浮かべ、 軽く数度頷く。
「まあまあと言ったところですね」
 相変わらず何を求められているのかは判らなかったが、どうやら彼が満足する答えを出せたらしい。
 ほっと胸を撫で下ろした少女の瞳とサングラス越しの瞳が瞬間、重なり合う。
 ??
 意味深な笑みがより深まる。表情の見えないサングラスの奥の瞳が、静かに笑った。
「よくできたご褒美というわけではないですが」
 途切れた言葉の意味が判らず首を傾げた少女の顔全体に影が落ちる。
「……鳴神?……」
 不自然に顔が近い。
 戸惑うハスキーボイスが名前を呼ぶ。男の厚い胸板を押しのけようとした両手が掴まれ、動きを奪われた。
 瞬間、結城朱蘭の瞳が大きく見開かれた。
 乾いた唇が感じた柔らかな感触。アルコールの香りが混ざった熱い吐息。
 驚く間もなく、唇が数度触れた。白い歯で唇を甘噛みされる。下唇に軽い痺れを感じた。
 意識する間もなく今度は男の舌が少女の歯列をなぞっていく。
 ちょっとタンマ!
 予想外の展開に、少女の思考は停止した。
 混乱のまま、掴まれた手で握りこぶしを作り、相手の肩先へ叩きつけようと力を入れてみるが、びくりともしない。
 その間にも男の舌が朱蘭の口内へと侵入してくる。ねっとりとした、けれど不快には感じない 舌が彼女の舌を絡めとる。
 気づかぬうちに少女の両手を掴んでいた大きな手は、彼女の細い腰と頭へとまわされていた。 逃げることができないようがっちりとガードされて。
 誰も通らない薄明かりの廊下で、二つの影が重なる。
 向こうとこちらを区切る目隠しの壁が、フロアの談笑を遠ざける。
 うわ、うわ、うわ。
 徐々に身体の芯が溶けていくような、奇妙な感覚にとらわれそうになる。
 意識が霞む。甘美な波が彼女を飲み込もうとしていた。
 今までにない感覚。身体の奥が疼くような……。
 全身の力が抜けていく。
 鳴神、うますぎ……。
 一瞬浮かべた恍惚とした表情。ほんの一瞬垣間見せた女の貌。が朱蘭には自覚がなく、 またそれだからこそ理性が勝った一瞬後には跡形もなく霧散していた。
 隅の冷めた部分で率直な感想を抱きつつ、心地良い感覚に身を委ねそうになった彼女は、 しかしぎりぎりのところで踏みとどまった。
 遠くに聴こえていた笑い声が、いっきにボリュームをあげる。
 遠ざかる甘い痺れ。
 男の太い首に回しそうになった腕で、広い胸を押しのけた。
 角度を変えて口内を蹂躙する男の唇を引き剥がす頃には、彼女は肩で息をしていた。
「……何のまねだ?」
 動揺を隠せない揺れる眼差しのまま、朱蘭は後見人をきつく睨みつける。
 本当はひっぱたいてやりたかったが、壁の向こう側に気づかれると面倒だった。
「ご褒美を兼ねた口直しです」
 顔を真っ赤に染め、必死に動揺を抑えようとしている若き総長とは対照的に、 その後見人たる男はしれっとした顔で悪びれもせずに答える。
 力が抜けた主人の身体を支えるように腰にまわされた腕はそのまま。
 間近に響いた低いテノールには笑いの色が含まれていた。 明らかにからかっているのが判る声。
 衝撃が強すぎて言葉が続かない。思った以上に動揺している自分が悔しい。
「それに、貴女が言ったんですよ。キスを教えて欲しいと」
 お忘れですか?
 悔しいほどに泰然としている男の次の台詞が、彼女に新たな衝撃を与えた。
 瞬時にして蘇る記憶。
 思い出した朱蘭の目が色を変える。
 腰に回されていた腕を振りほどき、男から飛び退る。
「半年前のこと、今さら実行するんじゃねぇよ!」
 何もこんな時にこんなタイミングで!!
 半年前、お守り役の由暁に挑発され、引くに引けずに決死の覚悟で持ち出した相談事。
『せっかく女に生まれてきているのだから、それを使ってさっさと篭絡して来い。  それぐらいはおれたちの役に立てくれないと困る』
 セクハラまがいの、人権侵害もいいとこな問題発言に挑発され、 本気で実行しようと、頭に血が上った状態で、恋愛経験豊富そうな目の前の人物に頼み込み、 結局一笑された一件だった。
 すでに終わったことだったはずだ。なぜ今さら蒸し返す!!
「いえ、一度は実行していた方が良いかと」
 たまたま思い出したもので。
 いけしゃあしゃあと。
「この……エロ親父!」
 一瞬、場所を忘れ、怒鳴りそうになる。
 叫ぶ寸前、背後の声が大きくなった。どうやら目玉のレビューが始まったらしい。 アップテンポな音楽が流れ出す。
 寸でのところでここがどこかを思いだし、声のトーンを落とした。
「無用心すぎるのですよ。貴女が」
 不用意な発言は控えるべきです。
 それに……もっと他人を警戒すべきです。たとえ後見人である私であっても。
 からかうような笑みが仕舞われ、変わりに表層に現れたのは能面のような、 感情をうかがい知ることのできない表情だった。
 体中の血液が沸騰しそうな勢いだった朱蘭の全身が冷水を浴びたように凍りつく。
 そう、朱蘭に鳴神の行為を詰る権利はない。
 彼女の不用意な発言が原因だ。彼の行為を責めるのはお門違いだった。
 彼の言葉は正しい。けれど、そのあとに続く言葉は……。身近な者であっても気を許すなと告げた男の真意はどこにあるのだろう。
「今、このタイミングでそれを言う理由は何?」
 何のための警告だ? 何のための牽制なのか。
「貴女は知らなさ過ぎるのですよ」
 切りかえす少女に返ってきたのは理解不能な呟きだった。
 一歩踏み込もうとするとすり抜けていく。
 いつもの、唇の端だけを吊り上げたポーカーフェイスの笑みが戻る。
 仮面を被り直した男に何を問い質しても、もう核心をつく回答は得られない。
 穏やかではない内容が気がかりであったけれど。
 タイミングを逸したことを悟り、朱蘭は問いを喉の奥へと押し戻した。
「まぁ、鳴さん、こんなところにいた」
 語尾に大きなハートマーク付きの甘ったるい声を出し、 長身の美女が壁の向こうからタイミングよく姿を現した。
 遺伝学上は男であることが信じられないほどの美女である元男性は、 総長を押しのけると若頭代行の腕に自分の腕をするりと絡ませる。 その上、男の指にマニキュアで華やかに彩った細長い指を絡ませた。
 鳴神は拒むでもなく笑顔のポーカーフェイスを浮かべ、彼女(彼)のしたいがままにされている。朱蘭には眼を向けず。
 女(男)は甘えるように男の広い肩に頭を預け、次いで朱蘭を振り返る。微かに眉宇をひそめ、 何かを伝えるように手入れの行き届いた細長い指を唇の淵に這わせ、そのまま男をエスコートし、フロアへ攫っていった。
 残されたのは未だ全身の力が抜けたままの工藤組13代目組長ただひとり。
 少女はミラーのような内装が施された円柱にのろのろと近づき、ニューハーフが指し示した部分を確認した。
 乱れた口紅。
 認めたと同時に熱くなっていく頬を感じながら、朱蘭は誰もいない空間で独り言ちる。
「……反則だぞ……」
 淵を拭い、まだ温もりの残る唇に触れる。蘇る感触が、彼女の心に波を立たせる。
 再び乱れる動悸。
 重大なルール違反だった。けれど……。
 警戒心を抱け。
 突きつけられた言葉を反芻しながら、朱蘭は言われた意味を考える。
 拒絶ではなく、牽制ではないその言葉の意味を。







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