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平成12年度

浦添市社会教育研究大会基調講演要約

 

家庭人生最初学校

−子育てを終えて今想うこと−

              講師:弁護士 大城光代

   ただ今ご紹介に預かりました大城光代でございます。本日は浦添市社会教育研究大会にお招きいただきまして、基調講演という重責を担うことになりましたこと、大変光栄に存じております。

 

  三年前に14歳の少年による、おぞましいとしか言いようのない犯罪が起きまして、少年非行の低年齢化が話題になりましたけれども、今年は17歳の少年による重大犯罪が相次ぎました。これらの事件について、どの時代にでも当てはまる17歳ではなくて、14歳の時にあの事件の報道に接し、それから三年たった17歳だということを問題提起の基本としている論評もございます。そして長年くすぶっておりました少年法改正問題が再燃しました。この少年法の中に、家庭裁判所が保護処分を決めるために必要があるときは、相当期間、家庭裁判所調査官に観察させることができ、その際、適当な施設などに補導を委託することができるという規定があります。試験観察、補導委託という制度です。

   横浜で、30年余にわたり自宅を開放して補導施設とし、関東周辺の家庭裁判所から非行少年の補導委託を受けて、延べ千人以上の子どもたちと生活を共にして、その更正に当たったという方が、失敗と成功の経験を綴った「家庭の愛を下さい」という本がございます。その中に”家庭は人生の最初の学校”という言葉が出てまいりますので、それを今日の演題にいたしました。その方の所では毎年、いわゆる卒業生たちが妻子を連れて集まるクリスマスパーティーを催しておりまして、私も横浜家庭裁判所に勤務しているときに2回、参加させてもらいました。かつての非行少年たちが園長夫妻を父母のように慕って、毎年集まってきては先生に感謝し、後輩たちの指導にあたっている、支援の手をさしのべているということに大変感銘を受けました。その方が、非行少年の特色として、「人生の基本的な暮らし方、しつけというよりも、知識教育を受ける以前の、基本的な物事の受け取り方、考え方、行動の仕方を教わっていない、人を愛する喜びを教えられていない寂しい人たちだ」ということを言っておられます。そして、家族として一緒に暮らす中で、まず、これらのことを知ってもらうということをモットーとして、補導にあたってこられたわけです。 私も30年間の裁判官生活の中で、通算8年間、少年審判を担当いたしました。弁護士から裁判官になった最初が少年係でした。それが1968年からの2年間なんですけれども、そのころは原始的な非行原因といわれているスラム街、つまり、貧困と欠損家庭、欠損家庭というよりはむしろ崩壊家庭で放任されて育った子どもたちというのが大部分でした。私は12歳の時に台湾で終戦を迎えまして、14歳の時に沖縄に引き上げてきたんですけれども、私よりも幾つか年上で、戦争で親兄弟を失ったり、戦後の過酷な生活の中で大人になって、しつけや教育をするすべも知らないままに子どもを生んだという親が多くて、そういう親に放任されて育った子どもたちが家庭裁判所に来る、それがほとんどだったという時期でございました。結局、空腹を満たすための非行、それが非行の始まりなんです。初等少年院に送った子どもたち、何人かの中には結局更正することができずにだんだん非行が進行いたしまして、しまいには銀行強盗など、大きな事件を起こしてしまった者もおりました。復帰20周年を記念して那覇地検の沿革史が作られているのですが、その中に当時14歳で初等少年院に送った子どもたちの名前が何人か残っております。そういう人たちに接しますと、彼らは本当に家庭の愛というものを知らない、父母の愛を知らない、家庭のぬくもりを知らないんです。そのような環境に育って、他に何ができたのかという想いがあって、子どもたちだけを責められないという印象を受けました。

   ところが、世の中が落ち着いてまいりまして、一億総中流といわれる時代になって、両親健在、高学歴、経済的にも中流という家庭からも、戦後の自由主義のはき違えと私は言っておりますけれども、わがままいっぱいに育てられたり、一流大学一流企業という親の期待に応えきれないままに非行に走るという子どもたちが出始めているんです。生きていくために仕方なく非行に走るということではなく、自分の要求が満たされないことの八つ当たり、それから、遊びの延長としての非行が目立ってまいりました。多く見られる非行が無免許運転と万引きなんですが、みんなやっているのに自分だけが捕まったのは運が悪い、という感覚の子どもたちがかなり出てきたわけです。親の方も、みんながやっているのに、何で事故を起こしたわけでもないのに親まで家庭裁判所に呼ばれるのかという感覚、万引きなんか、見つかったら金さえ払えばいいという感覚、こういう親がたくさんおりまして、裁判所に対して苦情を言ってくる者もおりました。こういう子どもたちは、その根底に自己中心的で未熟で不安定な性格があるわけで、放っておくと社会生活上不適応をきたして、結局同じような人たちが集まってグループ化して、暴走族とか遊ぶ金ほしさに相手を脅してでもお金を取る、それが高じてくると殴りつけてでも、ということになって強盗にまで至る。いわゆる親父狩りというのを皆さんお聞きになったことがあると思いますけれども、あれは本当に強盗という犯罪になるんですけれども、これも遊びの延長としてやってしまうわけですね。このように非行を繰り返してきた子どもたちというのは、少年鑑別所とか少年院で先輩たちからいろいろ学習するんです。悪い方の学習なんですけれども、「少年時代は何をやっても罰されない」とか「少年院に行くよりは逆送されて執行猶予になった方がいいから逆送してくれ」なんて言う子どもたちもおりました。新聞報道でご存じだと思うんですけれども、家庭裁判所に送致された少年事件のうち、重大犯罪の場合に、大人と同じ刑事裁判を受けさせた方がいいということで、再び検察庁に戻す場合があるんですが、これを逆送と言っております。大人と同じ裁判を受けるということになりますと、場合によっては執行猶予になる可能性もあるということで、少年院に行くよりは、逆送してもらって執行猶予になったほうがいいからということで、平気で審判廷で裁判官に対して「逆送してください!」と言う子どもたちがいるんですね。こういうタイプの子どもたちには自分の行為が犯罪にあたるということをしっかり教えないといけない、本来、刑罰を科されるべきものだということを厳しく教えなければいけないということですね。少年だからということで甘やかしているわけにはいきません。各種事例によりますけれども、私もかなり厳しく対処したこともあります。被害者に詫びなければいけない、損害賠償もしなければいけないということなどを説明して、自分の責任について考えさせるということも必要なんです。ところが、そういう説諭をしたときに、「責任て何ですか?」と少年に聞き返されて唖然としたという裁判官も中にはいるわけです。十六、七にもなって「責任」ということを知らないとは、と我々は思いますけれども、みんな責任ということを考えること無しに自分勝手な行動をやってきているというのが実態なんです。

   その後、現れたのが「いじめ」ということになるんですけれども、「いじめ」もやっている本人は犯罪だとは思わないんですね。いじめる側というのはほとんどがいじめられ体験を持ってます。いじめられた辛さや悲しさ、苦しさというものを自分だけで終わらせるという例は少ないです。大抵は自分より弱い者へのいじめに発展していく、これが多いのが現代の風潮なんですね。限度を知らない、そして、命まで落とさせてしまう、ということになった例は、最近の沖縄にもあるわけです。こういう非行少年に裁判官として接しますと、まず、大部分の子どもたちは、ごく普通の知的能力を持っているということを知ります。普通に育てられていれば立派に社会生活をやっていけるだけの素質はあるんです。教えてもわからないという子どもたちはほとんどおりません。ですから、小さいときからやっていいことと悪いことの区別をきちんと教えられていれば、立派な社会生活ができるのに、あまりにわがままに自由奔放に行動してきたために、年齢相応の思慮分別がない、みんながやるからというだけで行動している、だから自分の行動が、他に及ぼす影響を考えることができないという共通点を持っているわけですね。表面的には両親健在、父親の社会的地位もあって、母親は専業主婦という問題なさそうな家庭でも、親は子どもが事件を起こしてはじめて、子どもの行動に気がつく、そして、「うちの子に限ってそんなことするはずはない」とか「友達が悪いんだ」と言うわけですね。そして、事実とわかってからも、夫は妻に対して「おまえの責任だ」と言い、母親は父親に対して「会社のことばっかりで子どものことかまわないからあんたの責任だ」と、このようなパターンを、多数経験しております。

  子どもというのは親の背中を見て育つといいます。これはその通りだと思いますけれども、黙って背中を見せているだけではだめだ、と私は言っているのですが、対話プラス実践が必要ではなかろうか、と思います。非行少年を見ていますと、必ずと言っていいほど親子間の対話がありません。親と子が話し合うというのが社会生活の基本といいますか、子どもにとってまず最初に接する大人は親なんですから。親子の間で表現の方法、意思表示の方法というものを学んでいく、対人関係について学ぶ最初の関係が親子の間ということなんですね。子どもは純真無垢ですからどのようにでも育つ、ですから、親としては悪い影響を受ける前に、あるべき姿といいますか、幼い頃からきちんと育てていく必要があるのではなかろうかと思うわけです。幼い頃から子どもがあれこれ問いかけてくるのに対してきちんと対応して、そこから会話が生まれるということで、親子というのはまず、何でも話し合える間柄であってほしいと考えております。成長の過程ではほんとに、マイナスの影響を受ける場面がたくさん出てくるんですけれども、最近の子どもたちは親を相談相手としていない様ですね。親には相談できないなんて、悲しすぎると思いませんか?。子どもが何か困ったときに言ってくる、その時にちゃんと答えられる親でありたいというふうに思っているわけです。子どもも次第に自分で、善悪の判断をつけられるようになり、万一横道にそれても、親がしっかりと受け止め、子どもが自分で軌道修正して普通に育っていけば何にも問題ないわけで、過ちを改めらることができれば少年時代の非行は誰も問題にしない、というのが少年法の本来の理念なんですけれども、「少年の間は罰せられない、何をやってもいいんだ」というふうに取られるようでは少年法の理念も泣く、ということになるのではないかと思います。若いうちの失敗は幾らでもありますし、修正は可能なんですね。修正するについては、まず本人の強い意志とこれを支える周囲の理解、支援が必要なんです。少年審判をする時には、少年自身に問題点を指摘して十分考えさせると同時に受け入れる側の学校とか家庭にいろいろとアドバイスをしてきました。いつもここで立ち直ってほしいと本当に祈るような気持ちで少年に接しておりました。

  私自身の子育ての体験についてお話ししてみたいと思います。今は男女共同参画社会ということで、雇用の場で女性が男性と差別されませんから、誰でも働くのが当たり前ということになっております。昔は働く女性が少なかったせいでしょうか職業婦人という言葉が使われていたんですね。私は子どもの頃から職業婦人にあこがれていたのですが、高校生になって、職業の方向性は決めていませんでしたが、専門的な仕事を持って生きていくためには大学に行こう、大学に通っている間は親のすねをかじらせてもらうけれど、卒業したら自活すると決めていたので、大学四年の司法試験に落っこちたときは、働きながら司法試験に通ろうと思って、さっそく弁護士事務所の事務員として就職したわけです。以後、ずっと働いておりますので、働くことは何でもないんですね。しかし、子どもを育てるということに対してはかなり真剣に考えました。結婚した相手がお酒が好きで、よく二人で飲んでいたんですが、アルコールが子どもに影響を与えたらいけないということで、妊娠がわかってからは一滴も飲みませんでした。それから、母乳で育てましたから母乳を通して子どもに影響があってはいけないということで、母乳を与えている間は本当に一滴も飲まない、という生活をしていました。育児というのはやっぱり妊娠中から始まるんですよね。この場に、日本たばこ産業の関係者の方がいらしたら耳をふさいでおいてほしいんですけれども、沖縄支店の支店長が、沖縄支店が日本一業績を上げているというお話をなさっていたんですよね。日本たばこ産業もたばこだけではなく他にもいろいろやってますから、たばこだけで業績を上げたのではないとは思いますが、やっぱり、若い女性の喫煙が日本たばこ産業沖縄支店の売り上げを増強しているのではないかと思います。毎朝、家の前を掃除しておりまして、口紅のついた吸い殻が落ちていない日はないものですから、本当に嘆かわしい思いをしております。

  弁護士というのは自由業ですから、そこそこの収入でいいと割り切れば、あまり働かなくても済むんです。私は子育て中は、子育て優先で考えまして、妊娠してからは事務所を自宅に移して、仕事をかなり制限して、生み育てたということになるんです。子どもが満五歳になるまでは、仕事よりは母親業にいそしんだつもりでおります。また、主人の又従兄弟の男性の事務員が、本当によく子どもの面倒を見てくれて助かったんです。今でも忘れられないのが、子どもが3つぐらいの時ですけれども、私が事務所に戻ってきましたら、指に包帯が巻いてあるんですね。どうしたのか聞いてみたら、ドアに指をはさんで爪を痛めたと言うんです。私はびっくりしまして「痛かったでしょう。ママがいなくてごめんね。」と言ったんです。そしたら息子が「ママは世の中の人のために一生懸命働いているんだからいいよ。僕にはおじちゃんがついてるから。」と、こう言ったんですね。息子がこのように言ったのは、きっと、泣きわめいている息子ををなだめながら、彼がそのように言いながら病院に連れて行ったからだろうと思うんです。こういう教え方をしてもらって私は本当に助かったんですね。同じように「おじちゃんがついているから大丈夫だよ」と言うにしても、「ママはほったらかしだけど」と言うのとでは全然違うんです。ママは居なくてもいいよ、と言われたことはショックだったんですけれども、この機会にと思いまして、「私が働いている間、あなたが我慢していることが、ひいては世の中のためになっている」、ということを教えましたら、素直にそれを受け取ってくれまして、親が仕事に出ている間は自分が寂しくても我慢することが自分の勤めであり、そうすることによって自分も世の中の人のためになっているんだという自覚を持つようになったんです。幼くてもちゃんと話をすれば、子どもというのはそれを理解できるんですね。例えば父親が忙しくてなかなか子どもと関わることができない家庭で、お母さんが「お父さんはいつも忙しくしているけれども、それは私たちのために一生懸命働いているためなんだよ」と言うのと「お父さんは忙しい忙しいというばっかりでちっともあんたたちのことかまってくれないわね」と言うのとでは全く違うんですね。それぞれ仕事もあり立場もありますから、それを補い合う、そういうことで父親の生き方母親の生き方を教える、そして同時に、両親共に子どものことを大切に思っているということを子どもに理解させておくということが必要ではないかと思います。そこから、父母に対する信頼感というものも生まれてくるのではないかと考えているわけです。結局、基本となるのは子どもに対する愛情なんですね。「うるさい」とか、「子どもがいるために何にもできない」とか、「子どもがいなかったらもっといろんなことができたのに」なんて思ったら、これはたちまち子どもに反映すると思います。たとえ口に出さなくても反映すると思うんです。子どもはかわいい、大事に育てようという本当に基本的な気持ちで接すれば子どももわかってくれるんじゃないかと思います。

  良くないのは代償的に金品を与えることなんですね。これは人の気持ちの優しさ、豊かさよりも、物の豊かさを優先することになるんで、代償的に金品を与えることは絶対にやってはいけないことだと思います。できないならできないなりに、精一杯の愛情を示すということ、代わりに物をあげる、金をあげるということではだめなんじゃないかなあと思います。そういうようなことから息子も、私が書類カバンを持って出るときは後追いしなくなりましたし、その代わり、ショッピングバッグなんかを用意していますと、連れて行ってもらえると思って、靴をはいて帽子をかぶって待っておりましたので、仕事で出る以外は必ず連れて出て、いつも一緒にいるということで、密度の濃い接し方をしてきたつもりです。忙しいからだめ!と言うだけでは子どもは離れていってしまうんですね。

  息子が満五歳を過ぎまして、もう大丈夫だなと思ってから私は裁判官になったんです。裁判官は特別職ではありますが、時間に縛られる勤務になるものですから、幼稚園の年長組に上がるときに裁判所勤めを始めたわけです。そして、息子が小学校一年生になってすぐ、国民指導員という制度でアメリカに一ヶ月行ったんですけれども、私はアメリカから毎日、子どもに手紙を書きまして、息子も、あと何日で帰ってくるという逆のカレンダーを作りまして待っていたようなんです。帰ってきたときは、特に変わった様子もなくて普通に迎えてもらってそのまま収まっちゃったんですけれども、息子が大学生の時、何かの折りに、「あの時僕は捨てられていた」と言いましてね、私はその「捨てられていた」という気持ちでいたということと、息子がそれを周りに気づかせずに過ごしていたということで二重のショックを受けました。小学校一年の子が、けっこう健気に淋しいのをがまんしていたんですね。

 小学校の頃には子どもに対して、「毎日学校に行って先生のおっしゃることをよく聞いて、一生懸命勉強して、お友達とも仲良くして過ごすのがあなたの仕事だ」、と教えたんです。そして、「仕事というのは、やらなければならないことを責任を持ってやることだ」、と教えました。各家庭でいろいろなやり方があると思いますが、私の家庭ではその方がわかりやすいんじゃないかと思ってそうしておりました。そして、あとは、宿題をやったかだとか、勉強しろだとか、一切言わなかったんです。全部、責任を持ってやるべきものだということを教えてましたから、自分で考えてやっていたんだろうと思うんです。だから、遊びすぎて宿題忘れることもありますし、忘れ物をして行くということもあるわけで、その時は当然しかられるし、忘れ物を取りに帰れと言われることもあるでしょう。ただ、そういう経験をして、自分で、どうしたらいいかということがわかっていくのではないかと思ったものですから、細かいことは一切言わなかったんです。

  小学校六年生の時にそれまで子どもが帰ってくる時間に合わせてパートで頼んでいたお手伝いさんがやめることになって、なかなか替わりの人も探せないときに「お母さん僕、もう鍵っ子で大丈夫だよ」と息子の方から言ってくれまして、鍵っ子になりました。その頃、父親が息子に対してけんかの仕方というのを教えたようです。男の子だからけんかするなと言ってもだめで、けんかするのが当たり前なんだと、ならばけんかのルールを教えておこうということだったようです。彼の言うけんかのルールというのが、一対一ですること、素手ですること、それと、先に手を出してはいけない、やられたら泣いちゃいかん、やり返せと、ただし、自分より年下の者、体の小さい者とか弱い者からやられたときは痛くても我慢して殴り返してはいけない、ということを教えたようです。これを守ってたらけんかになりませんよね。たとえけんかしても後でなかよくなれるようなけんかだろうと思うんです。けんかのルールというのはけんかをしないためのルールであり、深く考えていけば、人生を生きていくためのルールでもあるわけです。困難なことには立ち向かっていかなければならないけれども、弱い者には優しい思いやりを持たなきゃいけないということで、夫は息子に教えていたんだと思います。今の子どもたちを見ていますと、一対一のけんかなんてまず無いんじゃないでしょうか。必ず大勢で一人を痛めつける、そして殴っている自分の手が痛いから道具を使うということですよね。ルール違反というかこれはけんかじゃなくて「いじめ」ですよね。こういう「いじめ」というのは子ども同士のけんかじゃなくてりっぱな犯罪なんですね。だから、すべてにおいていいことと悪いこと、そしてその限度というんですか、そういうものはしっかり教えておかなければいけないんじゃないかと思います。

  息子は中学、高校と、熊本の全寮制の学校に行ったんですけれども、これも自分で言い出したんですね。私が「寂しくなる」とかぐずぐず言っておりましたら、「母さん、かわいい子には旅をさせろと言うじゃない、母さんは僕が一人で熊本の学校に行けるようになったのを喜ぶべきだ」と、生意気なことを言いまして、完全に一本取られたんですけれども、自分でそのようなことを言い出したということは、幼い頃から積み立ててきたことの成果じゃないかと、私も納得して行かせたわけなんです。

  息子が中学三年生の時に夫が急死いたしました。その時、私は福岡の裁判所に勤務していまして、八月、息子が夏休みでちょうど帰ってきている時だったんです。これには本当にショックを受けまして、最高裁や福岡高等裁判所の方でも心配して下さいまして、三年の任期で福岡に行ったんですけれども、翌年の四月に那覇に帰るか、息子のいる熊本に転勤させてもいいと言って下さったんですね。私も精神的に参っていたものですから、沖縄に帰るということは考えていなかったんですが、熊本というのには多少気が動きまして、息子に相談に行ったんです。息子も父親の急死で成績もがた落ちしていた頃だったんですけれども、しばらく考えてから「母さんが熊本に来たらお互いに甘えてだめなんじゃないか、福岡と熊本くらい離れていた方がいいよ」と、こう言ったんですね。私はその言葉を聞いてハッとしたというか、目が覚めたというか、「そうか」と思いまして精神的にも立ち直れたということなんです。当時、福岡の家庭裁判所でも少年係をしておりまして、中学三年生くらいの子がよく来るわけですね。中には親が亡くなったショックで非行に走ったという子が何人かいたわけです。それで、同じ年代の息子がそういうことを言ってくれたということで、負うた子に教えられるというのはこういうことかなあと思いましたし、中学三年生ともなれば頼りになるものだと思ったわけです。このことは私の人生の転機でしたし、父親は早く亡くなったけれども、父親としての役割は充分果たしていったと、私が言える一つの理由でもあるわけです。父親がいなくても、幼い頃に充分に関わっていたということで、息子の中には父の生き方、父の教えというものがしっかり残っている、そこで、母親がおたおたしている時に喝を入れてくれたんじゃないかと思います。

  また、高校三年生の時にこういうことを言いだしたんです。「母さんは僕をかわいがっているから、僕が結婚したら嫁さんに僕を取られたと思って嫁いびりをするはずよ」とこう言ったんですね。私はとっさに「あれは暇人がすることだから、私はやることがいっぱいあるからそんなことはしないよ」と言ったんですけれども、この際、言っておいた方がいいんじゃないかと思って、いろいろと息子に話しました。若い内は始めて出会った人に対してポーとなっちゃって他が見えなくなって、相手のことも良くわからないままに「この人しかいない!」と思い込んでしまう傾向があると、ただし、それは危険だということですね。いろいろな人とつきあって、結婚の相手というものは多数の中から選ぶこと、これをまず第一に宣言したんです。もう一つは、妻子を養って生活できるというめどが立つまでは結婚を前提とするつきあいはしてはいけないということ、子どもは絶対に作ってはいけないということを言ったんです。愛情に基づく男女の間の性的交渉というのは禁止できないんですよね。するなとは言えませんから、子どもだけはだめだと言ったわけです。先の見通しも無しに、子どもが出来ちゃって、結局あとで「そんなはずではなかった」ということで別れてしまう、で、子どもはどうなるかということになってしまう。まあ、うまくいけばいいですけれども、うまくいかない例だけしか私は見ておりませんので、そのうまくいかなかった例を息子には体験させたくないという思いからそういうことを言ったんです。母親と息子がそういう会話が出来るということは、いきなりは無理だと思います。何でも言い合える間柄だったからこそ、そういう話も母親の意見として息子は受け入れてくれたんじゃないかと思います。最終的に息子が選んだ人には絶対にぐずぐず言わない、そのためにはあらかじめ希望を言っておくということで、二つあげました。一つは母ひとり子ひとりだから将来必ず世話になることがあるから、それを承知してくれる人、よく子どもに対して「あんたの世話になんかならないよ」なんていう人がいるれけどあれは間違いですよね。必ず世話になるんですから。もう一つは家事の好きな人を選んでほしいということです。若いから上手じゃなくてもいいんです。好きだったら必ず上手になります。男性が家事が出来るということは素晴らしいことだと思いますし、息子にも家事は仕込んできました。家事が苦にならないということは、男性にしろ女性にしろ、仕事と家庭の両立の基になるんですね。ですから、家事が好きな人という条件を付けたわけです。また、単なる友達である間はいいけれども、多少とも結婚してもいいかなと思うような人が出来たときは、決める前に必ず紹介してほしいと言っておいたんです。素晴らしいいい子を最終的には選んでくれまして、娘を生むことが出来なかった私は労せずして娘を持つことが出来たと喜んでいます。結婚式の夜に息子と嫁と三人でいろいろと話していたんですけれども、息子が「母さんがよそのお母さんみたいに細かいことを言わなかったのが一番良かった」と言っておりました。基本的なことだけを言って、あとは息子の判断に任せて自分で考えてやっていくように仕向けたこと、私の育て方は結果的に良かったんじゃないかなあと思っております。うまく育てたということではなくて、息子がうまく育ってくれたと言っているんです。 このようにお話をすると、いかにも素直にちゃんと育ったとお思いかもしれませんが、必ずしも親の期待通りに育ったということではないんです。大学に入る時も一浪いたしまして、医学部なんですけれども、私は国立はあきらめたんですね。一浪したときにいろいろと考えまして、子どもの性格から、早めに入れてしまわないとだめだと思いまして、受験科目の少ない私立に切り替えたんです。お金が掛かるのは当然ですけれども、本当に、決断するまでには胃が痛くなる思いをずいぶんいたしました。おかげで六年間、夏冬のボーナス全部と、給料の中からも毎月積み立てまして学費を納めたという経験もいたしました。入学してからも体育会系の同好会にいっぱい入りまして、学問は低空飛行なんです。大学の方からもっと勉強をさせろという通知を何回も頂いたんですけれども、息子は息子で、「親は医学部に入れたと思っているけれども、息子は体育学部の医学同好会に入ったと思っている」と、ぬけぬけと申しましてね。結局、スポーツをして体を鍛えることは悪いことではないし、学校から勉強しろと言われたことに対して私がやきもきしてもどうにもなりませんから、こういう通知が来たよということだけは伝えました。低空飛行しているのは、自分が一番知っているんです。だから、つまづいて転んではい上がって何とか頑張っていけばいいと思ってました。彼の小さい頃の夢は、無医村を自転車に乗って診察して歩く医者になりたい、子どもたちを泣かさないで治療できる医者になりたいということを言っていたんですね。そうすると内科・小児科ということになるんですけれども、大学に入ってから「体力に勝る男性は外科がいい」とか言いまして、外科医になっているんですけれども、小さい頃そういう気持ちになったのであれば、医は仁術と申しますので、患者さんに慕われる医者になってくれるんじゃないかと思っております。妻は大学病院の看護婦でしたけれども、激務なので上の子を妊娠したときに退職しまして、二番目の子が保育園に行くようになってから、訪問看護婦として復職しまして、その後、三人目が出来ましたが、訪問看護婦として働いている病院に託児所が敷設されているものですから、そこに預けて訪問看護の仕事をしております。上の子どもたちが帰ってくる時間には帰宅できるという時間帯も組んでもらえて、理想的な共働き家庭だなあと思っております。

  私たち親子が生きてきた過程を一つの例としてお話ししてきましたが、私は自分の半生を振り返ってみまして、人間として、次代を担う子どもを育てるということが最も価値ある仕事だと思っております。私は先ほどもご紹介ありましたように、沖縄の女性として初めて法曹界の道をひらいたわけですけれども、私一人の力には限度があるんですね。私が育てた息子が次の世代で自分の立場で社会に貢献できるということはいいことで、それにむしろ、一層の意義を感じているわけです。子育ては男女共同作業、共同作業という言葉には、お互いに無いところを補い合うというニュアンスがあるんじゃないかなあということで、子育てはお父さんお母さんの共同作業と言っているです。人間の生き方は様々です。私は夫との共同作業で息子を世に送り出したと思ってます。医者になってほしいというのは夫の遺志でもありましたし、夫が残した一人息子を社会に送り出せてよかったと考えているわけです。男女平等というのは男女とも同じ仕事をするということではないんですね。それぞれの立場で最善を尽くせばいいのではないかと思います。専業主婦の方は家庭をしっかり守り、子どもを育てるということは、有意義な仕事ではないかと思います。女性が社会的な進出を果たしたばっかりに、家庭が崩壊してしまったということでは何にもならないと思います。家庭、子どもを大切にして、その上で社会に貢献できる女性であってほしい、家族の理解と協力を得られる社会進出であってほしいというのが、私が働く女性たちにいつも望んでいることなんです。時間が迫っておりますので、レジュメの3はお読みいただければわかると思います。補足できる機会があれば補足させていただきたいと思います。

  青少年の健やかな成長を考えるという、今日の皆様の熱意が、地域社会に浸透していくということを心から願いまして、私の話を終わらせていただきます。