このページに出てくるデーターは
風の中のジャクリーヌ”ショパン社より出版
作者・ヒラリー&ピアス デュ プレに記載されてるものを
利用しました。
(自分の言葉で書き足したものもありますが)
1945年1/26 | ジャクリーヌ デュ プレ イギリスは、オックスフォードにて誕生。 父 デレク、母 アイリスの夫妻の二番目の子供として生まれた。 母親は音楽の専門教育を受け、父親は専門的な音楽の教育は受けていなかったが音楽を愛する事には違わない人だった。。 |
四歳の頃 | ラジオの番組が子供向けにオーケストラの楽器を紹介するもので流れてきたチェロの音色に魅せられて あの音出してみたいと母親に言い、喜ばれる。 |
1950年1/25 | 五歳の誕生日の前日にベットの横に3/4サイズのチェロを母親からプレゼントされる |
五歳半。 | ロンドン チェロ スクールに入学。 後援者はスペインはカタロニア出身のパブロ カザルスで 総長は後にジャッキーの支持者となるジョン バルビローリ卿(1899−1970)だった |
1955年の初め。 | 後々まで”私のチェロのお父さん”とジャクリーヌが 尊敬したチェリストで名教師のウィリアム プリースと初めて対面する 彼の前で演奏をし、プリースは、ジャクリーヌの個人教師となった。 |
1956年 初め | 11歳でスッジア ギフトというチェリストのための援助基金に応募し、合格する。 その時の運営委員会のメンバーの中にジョン バルビローリ卿がいた。 スジアとは、ギルミナ スジアという20世紀の女性チェリストとして 一流のチェリストで1950年に亡くなった人の事。 遺言には彼女が生前使用していたストラディバリウスを売却し、 若いチェリストを援助するようにと記されていた。 基金の執行を任されていた英国芸術評議会では国籍は問わず、 ソロのチェリストを目指す演奏家を資金援助していた その時の審査では、プリースが選んだ曲をジャクリーヌは、母の伴奏で演奏した。 |
1957年 (13歳) |
プリースはジャッキーに後に彼女のトレードマークとなる sir.エドワード・エルガー(1857-1934)の最後の大作である チェロ協奏曲(作品番号85)を教える 難曲とよばれるピアティ(ピアッティ?)(1822−1901)のカプリスとともに宿題として出した。 一日半後、カプリスを難なく暗譜で演奏し、エルガーの協奏曲は、第一楽章と第二楽章の半分を 暗譜で演奏してしまった。 |
1960年 | この年・二つの賞を獲得。一つは、ギルドホール音楽学校の金メダル、もう一つはクイーンズ賞。(クイーンズ賞の挑戦資格は30歳以下)。ちなみに審査委員長は、ユーディ メニューインだった |
1960年 | 夏にはスジア・ギフトの後援でスイス・ツェルマットで開催されたマスター クラスに参加(マスター クラスとは講習会のようなものらしい) マスター クラスの講師はチェロ界の父と称されたパブロ カザルスだった・ |
1961年 | 3月1日。ロンドンは、ウィグモアホールにてプロの演奏家としてデビューをした。 伴奏者は、アーネスト ラッシュ その前には、匿名の後援者からの手紙での指示で、母親(アイリス)と共に何台かチェロを試し弾きさせて、 適当なものを選ぶようにと・・あり。ジャッキーは専門店で何台か試し弾きをして一台のチェロを気にいったのだった。 (専門店では気に入ったものを選ぶようにとだけ言われていた) ジャッキーが選んだものは1673年製作の茶色のストラディバリウス リサイタルで演奏をしたのはブラームスのチェロ・ソナタ一番、バッハの無伴奏チェロ組曲5番など。 ジャッキーの演奏は次の日 評論家たちの絶賛をあびたのだった |
1962年3月21日 | ロンドンはロイヤル フェスティバルホールにてルドルフ・シュウォルツ(1905-1994)が 指揮するBBC交響楽団をバックに後にトレードマークとなる 母国の偉大な作曲家 SIR.エドワード・エルガー(1857−1934)の 最後の大作 チェロ協奏曲 ホ短調。作品番号 85を演奏したのだった。 |
その夏 | ロンドンの夏の音楽フェスティバル プロムス(正式名称はBBC ヘンリー ウッド プロムナード コンサート)に始めて参加し、 マルコム サージェント卿(1895−1967)の指揮でエルガーを演奏した。 |
1962年7月 | ロンドンはEMIのレコーディング スタジオ アビー ロード スタジオ(ビートルズのアルバムが録音されたところとして有名)において、 チェロの小品を録音。 曲はサン サンスーの 動物の謝肉祭より白鳥など |
1962年10月 | フランス人チェリスト ポール トゥルトゥリエに学ぶためパリに6ヶ月留学。 |
1964年 年秋 | その前の年に知り合っていた弦楽器の専門家 チャールズ ベアからジャッキーの後援者が 新しいチェロを購入していいと報告があったと家族は報告された。 そして。その時市場に出ていたダヴィドフ ストラディバリウスをロンドンへ送付する事を手配した。 (ジャッキーの後援者の名前は、イスメナ・ホーランドと言う人らしい)←追記。 |
同年クリスマス頃 | プリース立会いの下にダヴィドフをためし演奏をし、気に入ったジャクリーヌは、ダヴィドフのオーナーとなった。 値段は、その当時で8万4千ドル。しかし、彼女は、時々このチェロをベアの元に修理に出す事になる。 |
1965年 | 1月には、同指揮者、ロイヤルフィルハーモニックをバックにフレデリック ディーリアス(1862−1934)の チェロ協奏曲をアビーロード スタジオにおいて録音した。 ジャッキーの初めての協奏曲録音だった |
1965年4月 | ジャッキーは、ジョン・バルビローリ卿指揮のハレ交響楽団をバックにエルガーを演奏した バルビローリ卿は、元々チェリストであり、ジャッキーのファンで後援者でもあった・ 彼は、11歳の時にスジア・ギフトのオーディションでジャッキーにあって以来いつか、共演できる日を楽しみにしていたらしいのだ・・ そして、9年かかったが・・ジャッキーとバルビローリ卿とダヴィドフ(チェロ)のコラボレーションはすすり泣く音楽として美しさを表現した新聞もあった・ |
1965年4月下旬・から一ヶ月 | BBC交響楽団と指揮者・アンタル ドラッティ(1906−1988)の招待で彼らのアメリカ・公演のソリストとして同行した。 うち・5月14日のコンサートでドラッティ指揮でエルガーを演奏し、”カーネギーホール”デビューを果たしている・なお、この時使用されたチェロは、ダヴィドフではなく、茶色のストラディバリウスだった・ また・アメリカの評論家はニューヨークタイムス紙にこう書き残している。 ”デュ・プレとエルガーの協奏曲はお互いのために存在しているようだ。”と。 |
1965年8月19日・ | EMI(ジャッキーの契約していたレコード会社)との契約でジャッキーは、ジョン・バルビローリ卿指揮のロンドン交響楽団をバックにエルガーのチェロ協奏曲を録音したのだった. レコードは、12月に発売され、現在でも売れ続けている |
1966年2月 | ムスティラフ・ロストロポーヴィッチに学ぶためにロシアへ留学した。期間は、4ヶ月ほどだった |
1966年年末 | 友人の演奏家であったフー・ツォンの家でのクリスマス・パーティに招待される・ そこでダニエル バレンボイム(1942〜)と出会う。ジャッキーが合奏を提案してブラームスのへ長調を演奏した |
1967年1月7日 | モスクワ音楽院にて。指揮sir.ジョン=バルビローリ、バックをBBC交響楽団でエルガーのチェロ協奏曲を演奏して成功を収めた。 |
1976年3月2日 | レナード・バーンスタイン指揮・ニューヨークフィルをバックにシューマンのチェロ協奏曲を演奏 |
1967年4月5日 | ロイヤル フェスティバル ホールにて、ダニエル バレンボイムと初共演となる。 演奏曲目は、ハイドンのチェロ協奏曲ハ長調。指揮がバレンボイムだった (これは、二人が親しくなる前に決まっていたコンサート) それから一週間たたないうちに、二人の婚約が発表された。 オーケストラは、英国室内管弦楽団だった |
6月15日 | イスラエルのエルサレムでユダヤ教式の結婚式をした。 ジャッキーはユダヤ教に改宗した |