1970年11月。 | アメリカ。シカゴでドヴォルザークのチェロ協奏曲をシカゴ交響楽団をバックにバレンボイムの指揮でレコーディング。 フィラデルフィアではエルガーのチェロ協奏曲をフィラデルフィア交響楽団をバックに演奏。 (指揮はバレンボイム) ⇒のちにライブ盤としてリリース。ドヴォルザークの協奏曲は、EMIから。エルガーのライブ盤の演奏は、CBSsonyよりリリースされた |
1971年1月23日 | フィラデルフィア交響楽団のコンサートでサン=サーンスのチェロ協奏曲を演奏する。 指揮は、バレンボイム。その後、しばらく休養する事が発表された・・。 |
1971年12月 | 予定外だったが、バレンボイムと共にショパンとフランクのチェロソナタをEMIのアビー ロードスタジオで録音した。 ベートベンのチェロソナタも録音する予定だったがそれは、キャンセルされた。 この録音はスタジオ録音として、彼女のラストとなってしまった |
1972年7月 | エルサレム(イスラエルの首都)でラジオ放送のためにバレンボイム、ズッカーマンとチャイコフスキーのピアノ三重奏曲”偉大な芸術家の思いで”を演奏する。 ⇒。のちにCD化 |
1973年1月。 | バレンボイム指揮、クリーブランド交響楽団をバックにラロのチェロ協奏曲を演奏する。(⇒死後。ライブ盤として発売された。協奏曲最後のCD化。⇒但し正規盤 |
1973年2月8日 | ロイヤル フェスティバルホールにてズービン メータ指揮、ニューフィルハーモニア交響楽団をバックにエルガーのチェロ協奏曲を演奏した。 しかし、イギリスでの最後のコンサートとなってしまった。 (海賊盤で音源が出たことがある |
1973年10月 | 不治の病。多発性硬化症と診断が下された |
1975年 | バレンボイムがサー ゲオルク ショーティの後任として、創設して6年のパリ管弦楽団の音楽監督に就任した。 |
同年クリスマス | 大英帝国勲位(OBE)に選ばれたと知らせを受けた |
1978年8月15日 | プロコイエフの”ピーターと狼”のナレーターとしてコンサートに参加。 ”ジャクリーヌ デュ プレ基金”設立の記念コンサートだった |
1979年11月 | エリザベス皇太后から音楽博士の名誉学位を与えられた。その頃ギルドホール音楽学校でBBCのために4回シリーズのマスターコースを行なった。 |
1987年10月19日 | 多発性硬化症のためにイギリスは、ロンドンの自宅で42歳の生涯を閉じた。 2日後、ユダヤ教の形式による葬儀が行なわれた。 |
1988年1月26日 | 生きていたら43回目の誕生日だった日に生涯を感謝するコンサートが開かれ, (デーム)ジャネット ベーカーが歌い、ズービン・メータがスピーチをして、夫だったバレンボイムが最後に英国室内管弦楽団をバックにモーツアルトのピアノ協奏曲第27番を指揮振りした。 |