絶望という言葉の、本当の意味を、私たちは知らなかった。
6月23日。
60年前。唯一の地上戦が展開された地。沖縄。
この地では戦争の犠牲者を悼み、戦争の悲惨さを語り継ぐ「慰霊の日」という祭日がある。
60年。今を生きる子どもたちにとっては遥か昔の、歴史の中の出来事。
けれど、時代を生きた者たちにとっては、過ぎた昔の出来事ではない。
今も抱える、時折疼く癒えない傷。
6月23日。
せみの声に導かれ、今年もその日が訪れる。
今年は異常気象だった。
梅雨入り宣言からしばらくはまったく降らなかった雨が、
一転、梅雨明け間近になると世界中の水を集めてここに一斉に降らせたかのような土砂降りとなった。
1週間ほど続いた豪雨は県内あちこちの道路を水の下に沈め、また土砂崩れで使用不能にした。
例年6月半ばには明けていた梅雨も、今年は後半にずれ込み、慰霊の日前後になるだろう、とテレビの中の気象予報士が言っていた。
ここ数日にはない晴れ上がった空を恨めしげににらみ上げ、
ひとりの生徒が日傘代わりにさしている雨傘を振り回していた。
頭上には厭味なほどの青空が広がっていた。申し訳程度に浮かんでいる真っ白な雲は、地上ではなく遥か向こうの海上に影を落としている。
もうすぐ真上にやってくる太陽は、すでに夏の日差しと化し、
アスファルトをじりじりと焦がしていた。
道路から立ち上る煙のような、湯気のようなものが、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れていた。
「あつい……」
生ぬるい風を起こし走り去っていく乗用車へ恨めしげな目を向け、少女は吐き出すように呟く。
祭日なのに、しかも太陽が頂点に昇るこの時刻、この暑い時間をわざわざ選んで、
学校に行かなければならないのはなぜか。
暑さに茹だった頭で彼女はぶつけどころのない不平をこぼす。
歴史のある学校では毎年、6月23日に慰霊祭が行われる。
前身を県立第一中学校と呼ばれた首里高校も例外ではない。
毎年、この日になると入学したての1年生は全員、
2、3年生は学級長が慰霊祭に参列しなければならなかった。
「あつい」
男の子のように短く刈った髪は栗色。こんがりと健康的に焼けた肌は小麦色。
白地に襟の縁の部分だけ紺色のセーラー服はまだ真新しい。
膝上5センチほどの長さである紺色のひだスカートから伸びた足は、
地面をこすりつつ投げやりに歩いているようにみえた。
県下でも有名な伝統校である首里高校の制服に身を包んだこの少女の名前は、松田さくら。
この春入学したばかりの1年生だった。
傾斜のきつい坂道の半ば、大きく茂った街路樹の下に辿り着き、さくらは立ち止まる。
日光が遮られるためか、木陰は思いのほか涼しかった。
太陽の下では生温かった風がひんやりと肌に心地良い。
額と頬から流れる塩辛い水をハンカチで拭い、さくらは左手に広がる町並みを見下ろした。
拓けた視界の向こうは那覇を一望できるとは言わないまでも、町並みが見渡せる。
そのさらに先には水平線が広がっていた。
視線を右に流せば、濃い緑が広がる末吉の森。空の青とのコントラストがとても鮮やかに目に映る。
ほんのちょっと手前に目を移した先では銀色の車体が建物の間から見え隠れしていた。
出来てもうすぐ2年。
ようやく景色に馴染んできたモノレールの小さな車体が悠々と視界を横切っていく。
さくら自身はまだ乗ったことがない。
モノレールのルートが彼女の生活圏と離れているため、利用する機会がないのだ。
本土の大学に通い休みのたびに帰省する姉曰く、「小さくてまるでおもちゃのよう」らしい。
視界から消えていく「おもちゃのような」乗り物をしばらくぼんやりと眺めていた彼女を現実に引き戻したのは、
聴き慣れた着信音だった。
スカートのポケットから入学祝に祖父母からもらった携帯電話を取り出す。
大ヒットしたドラマの主題歌のワンフレーズ。メールの着信音だ。
画面を開き、本文に目を通す。みどりからのメールだった。もう学校に到着したらしい。
吹き出る汗を拭い、携帯電話から進行方向へと目を向けた途端、さくらは奇妙な感覚を覚えた。
突然のめまい。
視界を遮る一瞬の、眩い光。
瞬間的な恐怖を覚え、目を閉じる。
恐る恐る瞼を開けたその先に広がっていた光景は、なじみのあるものとは違うものだった。
本来ならアスファルトで舗装された道路と、
反対側の道沿いにはコンクリートの家々が立ち並んでいるはずで、
もう少し先に行けば、周囲を桜の木々に囲まれた学校が見えてくるはずだった。
けれど広がる景色は、風に揺れるさとうきび畑。その向こうに見え隠れする昔ながらの瓦屋根。
平屋作りの家々が並ぶそこにはコンクリート造りの2階建て家屋などなかった。
白昼夢?
蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる映像。
やけにリアルに感じられる景色。
戸惑い、瞬きもできずに呆然と立ち尽くすさくらの耳を再び電子音が飛び込んできた。
スカートの内側から聞こえる篭った音楽。
視線を落とした瞬間。
足元のむき出しの地面が、逆回転し、次の瞬間、真っ黒なアスファルトに変わった。
再び感じた強烈な眩暈。立っていられず、よろけて歩道端の柵に寄りかかった。
眩暈が遠ざかる。
慌てて顔を上げると、3ヶ月通い続けているいつもの通学路が目の前に広がっていた。
うちっぱなしの、コンクリートの色そのままの建物。
草花の影の向こうにひっそりと佇む紅型の小さな工房。
振り返れば緩やかなカーブを描くアスファルトの道があった。
何台も通り過ぎる自家用車が光を反射する。
「なに? 今の……」
さっきまで滝のように流れていた汗がぴたりと止まっていた。代わりに全身を襲う震え。
今の現象を理解したわけではない。けれど、さくらを本能的な恐怖が襲う。
「忘れなきゃ。忘れなきゃ」
冷えて小刻みに震える指先を握り締め、さくらは未読メールはそのままに、急な坂道を走り出した。
みどりと晶や友人たちの待つ学校へ。
背中を追いかけてくるような恐怖が、すぐそこに迫っている気がして、
彼女は振り返ることはできなかった。
続く