一 陽 来 復
──月 光──

「キレイ」
 深い紺色に染まる空を見上げて、富樫まりあは感嘆の声を上げる。
 彼女の視線の先にはまぁるい月が浮かんでいた。
 雲ひとつない空にほぼ完全な形で浮かぶ月。満月は昨日。
 青を含んだ銀色の光のシャワーが地上に音もなく降り注ぐ。閑静な住宅街の一角。
 月光に照れされたこの景色が、まりあは好きだった。
 ほんと、キレイ。
 うっとりと眺めながら、歩みが止まりつつある足を再び動かす。
 月の紡ぎ出す光の中で、この時間をずっと味わっていたかったけれど。
 クゥーン。
 まりあと同じく淡い銀色に染まった愛犬サスケが、こちらを見上げて切なそうな声を上げた。
 お腹を空かせているのがわかるその声に、まりあは苦笑し、愛犬に目を向けた。
「そうだね。もう帰ろうか」
 まりあの言葉がわかるのか、サスケは勢いよくシッポを振って応える。
 愛犬に歩調を合わせ、並んで歩きながら、まりあは時おり月を見上げた。
「ほんと、久しぶりよねぇ」
 月光浴なんてどれくらいぶりだろうか。
 何気なく空いた片方の手で指折り数えてみる。
 確かあれは……。
 家族と夜桜見物の日に観た満月。今日と同じく空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。散り始めた桜に月光が静かに降り注いでいて。
 とても幻想的で「きれいね」と母親と感激したのを覚えている。
 あれは入学直前のことだったから……。
 半年ぶり?
 一本だけ広げられた小指をまじまじと見つめ立ち止まったまりあを、不思議そうな顔でサスケが見上げる。
 そういえば……。
 入学してからこっち、ゆっくり景色を眺める暇も、季節を感じる暇もなかったような気がする。
 なぜ? と記憶を辿らなくとも、その元凶は容易に突き止めることができた。
 なにもかもあの少女、結城朱蘭のせい。
 トラブル吸引機と名付けたくなるほどトラブルを引き寄せる少女のせい。彼女が目の前に現れてから、まりあの心の休まる日はなかった。
 彼女と出会ってからというもの、なにがなにやら把握できないままになぜかトラブルに巻き込まれる。すべて彼女絡みのトラブルだ。挙句の果てになぜか気付くといつも自分が事後処理にあちこち走り回っているのだ。
 客観的に見ても、主観的に見ても元凶が彼女にあることは明白だった。
 教師の手に負えない問題児。喧嘩好きの不良。天邪鬼。敵を作るのが上手い少女──同時に強力な味方を見つけることも上手いのだけれど──正直、あまりお近づきになりたくない人種ではあるのだ、彼女は。
 はみ出すことが嫌いで、聞き分けが良くて、真面目でいい子ちゃんの自分自身とは相容れないはずの少女。
 それなのになぜかなつかれ、今ではすっかり彼女の「親友」として周囲に認められてしまっている。そのせいで彼女が元凶で起こる騒動に毎回毎回毎回毎回、これでもか、というほどに巻き込まれている。
 つい1週間前だって彼女絡みのトラブルに巻き込まれ、生命の危機なるものまで味わったのだ。
 これまでよく我慢してきたと思う。忍耐強い自分の性格を褒めてやりたいと強く思う。でももう限界だった。
 友人でいるだけで、なぜ命まで狙われなければならない? 冗談ではない。もう笑って済ませる域を越えている。
 絶対に縁を切ってやる!!
 新たな決意を胸に抱き、憤然と拳を握り締め、大股で歩き出す。その勢いのままで角を曲がった。


 曲がった先には小さな公園があった。左手に滑り台とブランコと砂場という三種の神器ともいえる遊具がそろった昔ながらの公園。そこから200メートルと離れていないところにまりあの家がある。
 馴染んだ公園のブランコにひとつの影があった。月光を鈍く反射するブランコに、座る人影。輪郭が淡く浮かび上がり、その存在を示しているのだが、まりあの目には映らない。
 彼女の意識はここにはいない少女に向いていた。もう周りの情景など一つも目に入らない。月光浴が何ヶ月ぶりだとか、そういうことも、もう、どうでも良くなっていた。
 泣こうが喚こうか、絶対切ってやる! 謝って……。
 謝ってきても知らない、と続けようとして、動きを止める。謝る、という単語が引っかかった。
 そういえば……。
 新たに思い出した記憶に、真一文字に引き結ばれた薄い唇がへの字に歪められる。
 この前のこと、謝ってもらっていない。
 彼女と間違えられて誘拐され、生命の危機にまで直面したあの日。まりあの記憶上、謝ってもらった覚えがない。彼女の手で救出されたのは覚えている。でもその後は……。
 絶対謝ってもらっていないわよね。うん。
 記憶を確認するように、大きく頷く。
 しかもあの日から、少女からの連絡はぱったりと途絶えている。
 冗談じゃない! あんな薄情なやつ! なにが親友よ! もう絶対縁を切ってやる!
 怒りに任せてサスケに繋がるリードを力任せに引っ張った。
 喉を締め上げられたサスケが苦しげな鳴き声を上げる。が、まりあは考えに没頭しているため、サスケの必死の声も聞こえない。
「ギャン!」
 堪らず悲鳴をあげたサスケにぎょっとしてまりあは目を落とす。涙を溜めたような潤んだ瞳で見上げてくる視線に、まりあは慌ててしゃがみ込んだ。
「ごめん。サスケ、大丈夫?」
 しゃがんで、覗き込む。
 「ケッケッ」と奇妙な咳を繰り返す愛犬の背中をトントンと叩いてやる。
 しばらくして尻尾を振り始めたサスケに、なんとか大丈夫だとほっと胸を撫で下ろし立ち上がる。その瞬間。
 何かが動いた気配がした。
 錆びた金属の擦れあう音が響く。
 ビクっと身体を強張らせる。恐る恐る気配のするそちらに目を向けようとして……。
「まりあ!」
 姿を認めるより早くソレは自分との差を縮め、首に抱きついてきた。
 勢いに押され、よろめいて背後の路上駐車の車にしたたかに背中をぶつける。
「っつ……」
 背中に走った痛みに顔をしかめたまりあの首元で、
「まりあっ!」
 語尾にハートマークが付かんばかりの上機嫌な声が聞こえた。
 聞き慣れたハスキーヴォイスに、言葉が出ない。
 なんで? なんで?
 噂をすると影がさすとはいうけれど……。
 あまりに唐突な登場に、声が出ない。その上、抱きついて来た本人は嬉しさのあまり手加減をすることを忘れている。まりあは首を締められ、窒息寸前だった。
「く……くる……しい」
 ギブギブっと朱蘭の肩を必死に叩くと、やっと彼女はまりあから飛び退いた。
「元気そうで良かったぁ!」
 ケホケホと激しく咳き込むまりあに、朱蘭は大きな鳶色の瞳を笑ませる。
 よかった、じゃないわよ。
 咳き込み過ぎて顔を真っ赤にさせながら、きつめの顔立ちを笑みに緩めた友人を睨みつけた。
 しかし彼女は気にする風もない。もう一度抱きつこうと腕を伸ばしてくる。
 それを必死に涙目になりながら阻止したまりあの顔を、彼女は怪訝そうな顔で覗き込んできた。
「なんで泣いてんの? どっか痛い? 大丈夫?」
 視界のほぼすべてを占める顔が、心配に表情を曇らせる。
 誰のせいよ。誰の!
 思いっきり雷を落とそうとして、まりあは動きを止めた。自然、目が釘付けになる。
 彼女が動くたびに見え隠れする白い……。
「ゆ……しゅらん!」
 つい以前の癖で「結城さん」と出そうになる言葉を直前で飲み込んで、まりあは叫んだ。
 先ほどの怒りなど、ソレをみた時点ですっかり吹き飛んでいた。
 今にも卒倒しそうな顔と声に、朱蘭が怪訝そうな顔になる。
「なに?」
 まりあは答える代わりに羽織っていた薄手のカーディガンを乱暴に脱ぎ、少女に突きつけた。
「これ! 腰に巻いて!」
 早く!!
 押しつけられた上着に目を落とし、彼女は不思議そうにまりあに尋ねる。
「なんで?」
「なんでじゃないわよ! 恥ずかしいの!」
 早く!
 上着を取ろうとしない朱蘭の手に強引に押しつけ目をそむける。
 まりあのその姿に、得心がいった様に朱蘭はにやりとその頬を歪めた。
「あいつらには好評だったぞ」
 なかなか色っぽいだろ。
 深く切り込まれたドレスのスリット部分の布を軽くめくって、わざわざ友人の視界に映るように移動する。
「!」
 深緑のドレスの裾が翻り、太腿があらわになった。ストッキングなどではない。いわゆる生足というやつである。意外に白いその肌に目が吸い寄せられていく。
「しゅらん!」
 動揺してあげる悲鳴に、朱蘭の目がますます細められる。明らかに面白がっている。
「どう? 似合っているだろ?」
 にんまりと浮かべた笑顔は、悪ガキが好きな子を意地悪する時に浮かべるそれに似ていた。
 朱蘭はカーディガンを持ったまま、大股で歩くなどしてわざと肌が露出する動きをしてみせる。
「朱蘭! お願いだから!」
「やだ! まりあ、ちゃんと観てくれてないし、似合っているって言ってくれてないから」
 下を向きながらのまりあの懇願を朱蘭は撥ね退ける。
 頬を膨らませ、唇を尖らせるその姿はだだっ子さながら。けれどまりあにはその姿は見えない。
 だからって。だからって。
 とてもとても目に毒なのだ。今の朱蘭は。恥ずかしくてとても直視できないのに。
 それなのに彼女はちゃんと観て、感想を言ってくれなければ、まりあの要求に応えてはくれないという。
 このまま家に逃げ帰ろうかとちらりと思った。けれど朱蘭をこの格好のまま帰すわけにはいかないとすぐに思い直す。
 あまりにもはしたない。古い、と笑われそうだけれど、まりあには耐えられなかった。
 人前であんなに肌を露出させるなんて。
 あれじゃ、パ、パンツまで見えてしまう、と考えて、再び顔が赤くなった。
 身体中の血液がいっきに顔に集まったような気がする。
「観るから。だから、それ、ちゃんと巻いてよ!」
 約束だからね!
 悲鳴に似た声で言うと、朱蘭は足をとめ、頷いた。頷いた気配がした。
「わかった」
「いい。いくわよ」
 覚悟を決め、宣言すると、まりあは挑むような眼差しを友人に向ける。
 対して朱蘭は外灯の下、自身の姿が良く見える位置にちゃっかり移動し、ケンカ腰の友人の視線を苦笑気味に受け止めた。
 気合を入れて朱蘭に向き直ったまりあは、友人の姿をまじまじと見つめる。
 柔らかそうな羽の付いた扇子を左手に握り、優雅なしぐさであおいでいる少女。右手に持った上着がアンバランスではあるけれど。
 確かに、深い緑のチャイナドレスはこの上もなく彼女に似合っていた。深い深い光沢のある緑色の生地に身を包んだ彼女はとてもキレイで、とても色気があった。同い年とは思えないほどに。
 地面すれすれのドレスには、足下からウエストの近くまで金の昇り龍の刺繍が施されていた。
 深く切り込まれたスリット部分からは、先ほどからまりあの心臓を刺激する見事な曲線美が見え隠れしている。
 龍の瞳が向けられた腰の部分はキュッとくびれていて、スタイルの良さがうかがえた。
 右脇から上向きのふっくらとした胸もとを通ってハイネックの襟の部分までナナメにボタンが配置されている。
 艶やかな背の半ばほどもある黒髪は、両こめかみのひと房ずつを残し、今は左右に結い上げられている。耳の上辺りで団子状にまとめあげられた髪形は、よくみると細かい三つ編みをいくつも束ねたものだった。ドレスに合わせたとわかる髪型。出来上がるまでにかなりの時間を費やしただろう。
 やるなら徹底的にやるという凝り性の彼女らしい。小造りの顔に施された化粧もどこか中国風の雰囲気を漂わせていた。視界の中の濡れたような唇がまりあの鼓動を速め、動揺を誘う。
 顔もあまり直視できないかもしれない。
 でも、やっぱり。
 ついつい視線が向いてしまう太腿部分が気になって仕方がない。心臓に悪すぎる。どうにかなってしまう前に視界からアレは取り除かなければ。
「似合ってる。とっても似合ってる」
 頬を再び赤く染めて、早口に友人が求める言葉を口にすると、まりあは背を向けた。
 早く早くと手だけで急かす。
「気持ちが入ってない」
 返った声は不満に満ちたものではあったけれど───。
 短い沈黙が横たわった。続く微かな衣擦れの音。
「もういいよ」
 かけられた声に、まりあは恐る恐る目を少女に戻した。
 軽く唇を尖らせながら、それでも朱蘭はまりあとの約束は守ってくれていた。
 くびれたウエストにカーディガンの袖がしっかり巻きついている。心臓に悪かった太腿も上着の向こうにすっかり隠れていた。
 ほっとする。ようやく安心して朱蘭をみることができるのだ。
 胸に手をあて深呼吸を何度か繰り返し、なんとか平常心を取り戻すと、まりあは朱蘭に向き直った。
 落ち着いてみる彼女の姿は、やっぱりキレイだった。
 深緑のドレスは外灯の下、彼女の身体のラインをはっきりと浮かび上がらせていた。
 常に過剰に熱量を消費する彼女の身体には、無駄な脂肪はついていない。ほどよく引き締まった身体は、成長途中のわりには女性らしい曲線を描いていた。
 今までそれほど意識したことはなかったけれど。
 実は朱蘭ってスタイル良かったのね。
 胸の内で抱いた感想はほんの少しばかり拗ねたもので。
 なんだか面白くない。
 見たくなくて目をそらした。途端、後悔する。
 逸らした先に自分の姿が飛び込んできた。車の窓ガラスに映る自分の姿によけいに落ち込んでしまった。
 制服で身体のラインが隠れているとはいえ、自分には朱蘭のような腰のくびれはない。唯一胸の大きさだけが朱蘭より勝ってはいるものの、色気など皆無なのだ。
 コンプレックスを思いっきり刺激されて落ち込む。
 知らず重い溜息が唇から洩れた。
 それを朱蘭はなにやら誤解したらしい。不機嫌ながらもどこか人をオモチャにしていた節のある態度が消えた。変わりにひどく真剣で真っ直ぐな眼差しがまりあに向けられる。
「やっぱりまだ怒ってるのか?」
 唐突な話の切り出し方に、まりあはついていけなかった。反射的に視線を友人に戻し、瞬きだけを繰り返す。
「当然だよな。死にそうな目にあったんだもんな」
 朱蘭の言葉で、ああそうか、と気付く。気付いたその瞬間、ほとんど無意識に言葉を返していた。
「何が?」
 解っていた、本当は。朱蘭が言いたいことも含めて。けれど口をついて出たのは針よりも尖った一言。
 一瞬、朱蘭の顔に悲しげな表情が浮かぶ。伏せられた眼差し。
「ごめん」
 硬い声が震えていた。泣いているのかと思った。
「ごめん」
 繰り返される言葉。彼女にしては珍しく深く頭を下げて───。
「許さない」
 本当はもう怒ってなどいなかった。彼女の衣装のおかげで、怒る気力も失せていた。根こそぎ奪われてしまったといってもいい。ついさっきまで考えていたことも忘れていたはずだった。しかし──。
「許さない。絶交」
 口をついて出た言葉に、自分自身も絶句する。自分が何を言ったのか、一瞬わからなかった。
 しかしそれ以上に驚いたのは、友人の示した反応。
 顔を上げた朱蘭の眼差しが驚愕の色を宿していた。零れ落ちそうなほどに大きく見開いた瞳が徐々に潤む。濡れたような唇が白くなるほど噛み締められ、今にも瞳から流れ落ちそうな雫を必死に食い止めていた。
 首を左右に激しく振って、まりあの言葉を全身で拒絶する。
 あまりの変化にどう接すればいいのかわからず、まりあはただ呆然と朱蘭を見詰めた。
 演技か本気か困ったことに区別がつかない。
 真っ直ぐに向けられる視線が、訴えている。捨てるな、離れていくな、と。
 そんなのは男の人に対してするものではないか。なぜ自分に対し、それをするのだろう。
 辛そうに歪められた表情。揺れる瞳。ついさっきまでの少女と同一人物とは思えない。
 胸のうち、罪悪感がどんどんと広がっていく。なぜ、自分が罪悪感を覚えなければいけないのか。理不尽すぎる。
 誰に対しても強気の姿勢を崩さないくせに、なぜ自分にはこうなのか。
 計算なのか、本気なのか。
 今にも泣きついて足下にすがってきそうな勢いの少女に、結局まりあは白旗をあげた。あげるしかなかった。
 泣いてすがっても絶対に縁を切ってやる! と思っていたのに。
「あーもう! わかったわよ。わかったからそんな顔しないでよ。絶交なんてしないから。しないからそんな顔するのは止めてよ」
 許すから!
 やけくそ気味にいっきに言葉をはきだすと、とたんに目前の少女の瞳から涙が嘘のように引いていった。
 顔に笑みが戻る。なにかを含んだような瞳の色。唇がにっとつりあがった。
 だ……だまされた。
 気付いた時には遅かった。
「ありがとうー! だからまりあ大好きなんだ!」
 飛びついてきた腕が、まりあの頭を抱える。
 熱烈な抱擁に再び窒息しそうになって、夢中で宙をかいた。
 面白そうに、朱蘭の腕が力を増す。クスクスととても楽しそうに耳に届く笑い声。
「やめてったら」
 もがいてもがいて、友人の腕からの脱出を試みる。が、朱蘭は引かない。嫌がっていることがわかるくせに、からかって、その反応で楽しんでいる。
「やっぱり絶交する!」
「もうきかないよー」
 切り札は一度きり。もうその一言には効果はなかった。余計に力が増す。窒息するーと思ったその瞬間。
 リリリリリ。
 昔なつかしい黒電話の音が聴こえた。
「チッ」
 舌打ちして、ようやく朱蘭はまりあを解放する。その手にはどこから取り出したのか、携帯電話が握られている。
「はい。おれ。うるさいな。わかってるよ。今戻る。今戻るよ」
 不機嫌そうに電話の向こうの相手に言葉を返し、朱蘭は早々に電話を切った。
「時間切れ」
 残念そうに告げる声が、まりあから離れた。
「もうちょっといられると思ったんだけどな」
 独り言のように呟く。名残惜しそうにぽんぽんとまりあの頭を叩いて、身体を離した。
「どうしたの?」
「うん? ああ、宴会から抜けてきたからさ、早く戻って来いって催促」
 主役がいないと場がもたないんだと。
 宴会? 主役?
 クエスチョンマークを顔中に貼り付けていたのだろう。朱蘭が苦笑する。
「急いでるから詳しくは話せないんだけど、おれ、継いだんだ。親父のあとを」
 は?
 ガーンと思いきり拳で頭を殴られたような衝撃が襲った。何をいっているのか、理解できない。
 親父のあと? 継ぐ? 継ぐってそれ……。
「ちょっと、継ぐってそれ、どういうこと? 聞いてないわよ! そんなこと。いつそういうことになったのよ? なんでそうなるわけ?」
 矢継ぎ早の問いに、朱蘭の顔が苦笑に歪む。慌てるまりあと対照的になんでもないことのようにいう。
「組を継ぐんだよ。くれるっていうからさ。もらっておこうかと思って。言ったら止めると思って言わなかったんだ」
「当り前じゃない! 何考えてるのよ。むちゃくちゃじゃないの」
「だってくれるっていうんだよ。もったいないだろ」
 そんな問題じゃないでしょう。
 叫びそうになるまりあを朱蘭が目で制した。声のトーンを落として続ける。
「ひかなかったんだから、しかたないだろ。それに」
 まりあが危険な目に合うことはないから大丈夫だよ。
 えもいわれぬ優しい笑みを浮かべ、同じく優しい口調で囁くように紡ぎだされた台詞。
 ちがう。そうじゃなくて。
 反論しようとした言葉は口に上る前に遮られた。
「ちゃんとしっかりお仕置きはしてきたからさ」
 お仕置きって……お仕置きって。
 意味を掴む前に、朱蘭の言葉が降って来る。
「だから、大丈夫だよ」
 何が大丈夫なのか、どうして大丈夫なのか、その自信はどこから来るのか。
 すべての疑問は鳶色の瞳の力強い笑みに遮られる。不敵で強気ないつもの笑顔に、まりあは頭を抱えたまま、もうなにも言えなかった。
「何かあっても守るから」
 約束だから。
 そう言って、彼女は離れた。深緑のドレスの裾が翻る。
 薄闇の中に消えていきそうなその身体が、思い出したように振りかえる。
「これ、借りとくな」
 腰に巻かれた上着を指差しての言葉に、まりあは反射的に頷く。
「今度のことは、ほんとにごめんな」
 許してくれてありがとう!
 月光に照らされた極上の笑顔を最後に、走り出す。鈍い輝きを放つブランコを通り過ぎ、垣根の向こうに停めてある一台の車へと。
   遠ざかる背中を見送り、まりあはその場にいつまでも立ち尽くしていた。
 月光が彼女を照らし、愛犬を照らす。
 サスケの寂しげな鳴き声が銀色に染まる静かな住宅街を駆け抜けていった。

 


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