青い空の下で──祈り──

   6月23日。私たちは戦場(ここ)にいた。


「みどり! はやく!」
 切羽詰ったさくらちゃんの声が爆撃に重なる。
 わかってる。
 熱のために朦朧とした意識の中で私は答える。
 わかっている。
 わかっているけれど、身体が動いてくれないのだ。だるさを訴える身体では、 思うように動けない。
 あっ。
 焦りだけが先走り、足がもつれる。泥濘にはまり、バランスを崩し、私は水たま りに頭から突っ込んだ。
 あたりに水が跳ねると同時に、耳を掠める銃弾。
 わずか数センチずれた地面の石が跳ね、頬に当たる。
 助かった、と思っても、生きた心地はしない。
 今助かっても、次の瞬間には死んでいるかもしれないのだ。
 攻撃がどこから降ってくるのか知ることもできない暗闇の中、私は顔を上げる。
 視界を遮る濡れた髪を払って、友がいるはずの方向に目を凝らした。
 さくらちゃんは壕代わりの墓に先に飛び込んでいるはずだった。
 けれど今、そこに彼女がいるのかさえわからない。確かめられない。
 声をかけようにも降ってくる砲弾にかき消され、届かない。
 自分自身の息づかいさえも聞こえない。
 真っ暗で先がみえない。彼女が無事なのか、知ることすらもできなかった。
 わずか数メートル先がずいぶん遠い。
 早く。はやく。
 焦りが全身を包む。
 はやく。ハヤク。
 焦る気持ちを必死に抑え、攻撃がやむのをひたすら待った。
 思うように動かせない身体がもどかしい。
 息をつく暇さえ与えず攻撃してくる米軍が憎かった。
「死にたくない。死にたくない」
 シニタクナイ。
 シンデタマルカ。カエルンダ。ワタシハカエルンダ。
 呪文のように何度も言葉を繰り返し、私は空を睨み上げる。
 瞬間、あたりが明るく照らし出された。
 あまりの眩しさに、暗闇に慣れた目が一瞬視力を失った。


 本当は、北部へ逃げるつもりだった。山原(ヤンバル)へ。
 北部は南部より戦闘は激しくなかったはずだったから。北へ行けばそれだけで生き 残る確率は高いはずだった。
 南部はもっとも過酷な戦場だった。沖縄で生まれ、育った私たちには常識ともいえ る事実。生きたければ避けなくてはならない場所。
 わかっていた。
 けれど結局、私たちは南に逃げることを決めた。
 どうしても3人で未来に、私たちの居るべき時代に戻りたかったから。
 はぐれた晶ちゃんを捜すために、私たちはあえて南へ逃げてきた。
 今をもう、どこをどう逃げているのかもわからなかった。ただがむしゃらに、米軍 の攻撃に追い立てられるように、南へ南へと逃げた。晶ちゃんを捜しながら。
 途中で身を寄せたいくつもの壕(ガマ)で、同じ年頃の、同じ背格好の女の子を見つける たびに、追いかけた。追いかけ、落胆した。
 葬られることのない無残な遺体を見るたびに、心臓が激しく脈打った。
 いくつもの、直視できない屍を飛び越え、私たちは南へと逃げる。
 晶ちゃんはみつからない。
 生きて帰れるのかもわからない。
 時間だけが過ぎていく。
 悲劇の瞬間が、刻々と近づいてきていた。


「みどり!」
 さくらちゃんの声が聞こえた気がした。
「隠れろ!」
 怒号が重なる。
 視力の戻った視線の先で、いくつもの照明弾に照らし出された人影が浮かび上がる。
 考えるより先に起き上がる。ふらつく身体を叱咤して、黒焦げの松の残骸の影に飛び込んだ。
 数秒後響き渡る轟音。一瞬で辺り一帯が真っ赤に染め上げられた。
 熱風が身体を包み、通り過ぎていく。
 次々と打ち上げられる光。
 降り注ぐ砲弾。
 逃げ場のない場所での容赦のない攻撃。
 近くで一発が破裂した。
 すぐ近く。
 気づいても逃げられない。遅い。
 shi。シ。し。死。
 言葉が脳裏に浮かぶより前に、私は爆風の直撃を受けた。
 身体が宙へと投げ出される。
 悲鳴をあげる間もなく、視界は暗転し、意識は闇へと引きずり込まれた。



 遠くで聴こえるサンシン(三味線)の音。
 ティントゥンテェン。
 子守唄代わりに聴いたラジオの、古典音楽。

 ティトゥティントゥンテェン。
 独特のテンポと音階の歌声。
 高く低く滑らかに紡がれる歌声に、重なるサンシンと潮騒の音。
 胸を熱く、切なくさせる潮の香り。

 ティントゥンテェントゥンティントゥンテェン。
 波間に漂う錯覚。

 ティントゥンテェントゥン。
 心地よい流れに身を任せ、漂う。

 ティントゥンテェン。
 私を呼ぶ声に、耳を塞ぎながら。



 浮かび上がる、梅雨入り前の夜の学校。
 少しばかり肌寒く感じる風が、管理棟(図書館、職員室、事務室、音楽室等の入った校舎) を出た私の頬を撫でていった。
 濃紺のひだスカートが、風に揺れる。
 夢中になりすぎたせいで帰りが遅くなってしまった。太陽はその片鱗さえなく、 西の海に完全に沈み、今は制服と同じ色の空が広がっていた。
 眼前に広がるグランドには生徒の姿はなく、リリリリと涼しげな虫の鳴き声が辺りを包んでいる。
 反対に、月明かりの下、背後にそびえる校舎はどこか不気味な雰囲気さえ漂わせ、 体感気温をさらに下げてくれていた。
「寒い……上着、持って来ればよかった……」
 まだ真新しい白いセーラー服から覗く腕は、うっすらと鳥肌が立っている。
 剥き出しの腕を擦りながら、私は正門へと足を向ける。
 歩けば少しは楽になるかもしれない。
「うーー寒い。寒い」
 独り言として呟いた言葉は、しかし風に溶けずに、しっかりと辺りに響き渡った。
「風邪ひいちゃうから、貸してあげようか?」
 誰もいないと思っていたのに、ふわりとした声が背後から風に乗って流れてきた。
 一瞬ドキリとして振り返った私の視線の先に、同じく真新しい制服に身を包んだ長身の少女の姿がうつった。
 カーディガンを手に持って、晶ちゃんは私に歩み寄って来る。
「晶ちゃんも今、帰りなんだ」
「後片付けしていたら遅くなっちゃって。はい。私は暑いから、前田さんが着ちゃっていいよ」
 私の返事を聞かないうちに、晶ちゃんはカーディガンを肩にかけてくれる。
 声と同じふわりとした温かさが、私の身体を包んだ。
「ありがとう」
 よく気がつく晶ちゃんは、どういたしまして、と照れたようにふふふと笑い、私を促し、 門へと向かう。
 ふとその脚が、門手前で前触れもなくぴたりと止まった。
 突然消えてしまった友の姿を探すため、私は背後を振り返る。
「晶ちゃん、どうしたの?」
 私の問いに答えずに、晶ちゃんはただ一点を見つめたまま、動かない。
 彼女の視線は私の肩を通り越し、その背後を見ていた。
「待って」
 目を細めてじっと一点を見つめていた瞳が、一瞬後には緩められる。
 こちらまで幸せになるような、温かな笑みが晶ちゃんの顔に広がった。
  「前田さん、後ろ見て」
 囁くように落とされた声が、私の耳を優しく撫でた。
 何がなんだかわからず、ただ言われるままに振り向いた私は、そこにあった光景に思わず声をあげていた。
「きれい」
 門に行く手前の大きな樹の下に、小さく儚げに光るホタルを見つけた。
 思わず零れた感激が、辺りを響かせる。けれどすぐに風にさらわれ、表を通る自動車の音にかき消された。
 いつもは不気味な影を落とすだけの大木が、今は2匹のホタルで幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 表の道路の外灯からの光が、濃紺の闇を薄めてはいたけれど。
 何時の間にか、大木の傍にふたりとも座り込んで、小さな光を見つめていた。
「どこから飛んでくるんだろうね」
 ふんわりとした綿のような笑顔を浮かべて、隣で膝を抱え、晶ちゃんがいう。
 ホタルに向けた慈しむような眼差しが、誰かに似ていると私は思った。
 包み込む温かな、そして懐かしい眼差し。この目を私は知っている気がした。
 前にも見たことがあるような……。
 ふとした拍子に現れる既視感。
 けれど、今はそれよりも。
「遅くなって得したね」
 チカチカと瞬くホタル。冷たいけれど、どこか温かい光。
 どこから飛んで来るのか、分からないけれど。
 小さく儚げな光が、小さな灯りを胸に灯した。

 ホタルがくれた小さな奇跡。小さな命の描く軌跡。

 ほんの少し前の、まだ新しい記憶。



 ティントゥンテェン。
 押し寄せては引いていく波のように。

 ティトゥティントゥンテェントゥンティントゥンテェン。
 緩やかに流れる雲のように。

 ティトゥティントゥンテェン。
 胸を切なくさせる音律とともに。

 ティントゥンテェントゥンティントゥンテェン。
 映像(ヴィジョン)が遠く離れていく。

 薄闇の向こうに、私は流されていく。

 呼ぶ声に、背を向けながら。



「みどり、次、晶」
 隣に座っていたさくらちゃんが、立ち上がって私の膝をたたく。
 あまりに強いその力に、思わず「あがっ」と小さく叫ぶ。けれど彼女は気づかない。
 むせ返るような土と草木の匂いが、私の鼻をくすぐった。
 会話をさえぎるほどの蝉の声が、短いさくらちゃんの言葉に続く。
 強烈な真夏とも思える日差しの真下で、私は芝生に座っていた。かすかな木陰に隠 れるように。片手に日傘を持って。
 奥武山(おうのやま)公園のはずれにある弓道場。
 目の前で繰り広げられている弓道の試合。
「みどり。見てる?」
 さくらちゃんは、柵の向こうの袴姿の晶ちゃんにレンズを向けたまま、言う。
「うん。前から3番目が晶ちゃんだよね」
 少しひりひりする膝をさすりながら、私も同じく射場に現れた人影を目で追った。
 高校に入って友だちになった松田さくらちゃん。おさるさんのように短い茶色の髪に、 日に焼けた浅黒い肌。Tシャツにジーンズ姿の彼女は、こちらを見ずに頷いた。友人の 晴れ姿をカメラにおさめようと必死になっている。
「でもすごいよね、晶ちゃんって」
「弓道部初らしいよ」
 鳴き声がやんだ一瞬の間の、私の言葉に、こちらを見ないままでさくらちゃんが返事をした。
 入部して日の浅い1年生がインターハイ予選に出場するのは、 首里高弓道部始まって以来のことだという。
「すごいよね」
 見つめる先には、長い髪をひとまとめにして背中に流し、的を見据えている友人。
 誰よりも輝いていて、誰よりも凛々しい少女。幼い頃からやっているだけあって堂に入っていた。
 3番目の晶ちゃんが、弓を構え、静かに引き絞る。
 張り詰めた空気が辺りを支配する。
 日傘を掴む指に、無意識に力が入った。
 轟音を響かせ上空を通過した戦闘機が、空の向こうに溶けていく。
 生暖かい風が、一瞬やんだ。
 蝉の声がぴたりと止まる。
 晶ちゃんの手から矢が放たれた。
 一瞬の静寂。
 パン。
 小気味良い音ともに、矢が的を射抜いた。
 風が生まれる。
 蝉がやかましく鳴き始めた。
 いくつもの拍手の向こう側で、晶ちゃんがこちらを見て、笑った気がした。
 包み込むようなあの笑顔で。
 さくらちゃんが白い歯を見せて、こちらを振り返る。
「ばっちり撮れたよ」
 笑ったさくらちゃんの顔が眩しかった。

 梅雨明け間近のどこまでも突き抜ける青い青い空の下。
 それが私とさくらちゃんと晶ちゃんの、最近の記憶。

 まだ真新しい記憶。



 潮が引く。
 もうしばらくこのままで。

 ティントゥンテェントゥン。
 けれど、私の願いもむなしく、

 ティントゥンテェン。
 色あせていく映像(ヴィジョン)。

 トゥンテェン。
 遠ざかる音楽。
 待って。もう少し。もう少しこのままで。

 ティントゥンテェン。
 目覚めたくないのに。
 まだ……。まだ、このまま。
 追いすがる私の声が、こだまする。

 トゥン……テェン……。



「みどり、みどり」
 起きて。起きてよぉ。
 泣き声が間近で聞こえた。
 懇願するように。必死の声。
「お願いだから」
 泣きじゃくるかすれた声が、また、耳に届いた。
 すぐ近く。耳元で。
「さくらちゃん?」
 何があったのか、理解できないまま、私は泣いている友の名前を呼んだ。
 瞼を開ける。
 闇に浮かんだ友の顔は、汗と血と涙と鼻水で、ひどく汚れていた。
「み……ど……り……?」
 ひどくかすれた声。
 続けて深い深い安堵の息が吐き出された。
「よかったぁ」
 泣き顔に、花が咲いたような笑みをよみがえらせて、 さくらちゃんは真っ赤な目で私の顔を覗き込む。
「ここ……?」
 どこ? と問いかけようとした瞬間、腐臭が鼻をかすめた。
 強いアンモニア臭。続いて激しい血臭や何かが腐ったような臭いがいっきに押し寄せる。 胸がむかつくほどの悪臭に、取り戻した意識がまた遠退きそうになった。
 熱をもった目に映る、さくらちゃんの顔越しに見える天井は、ごつごつとした岩肌。 自然の石灰岩の洞窟を使った壕(ガマ)。
 遠くから聞こえる雷鳴のような音と伝わる大地を揺るがす衝撃。
 覚えがある臭い。覚えのある景色。覚えのある感覚。
 戻ってきてしまったんだ。
 認識したとたんこみ上げてきた吐き気を、とっさに手のひらで抑える。
 それだけで、その行為だけで、全身に激痛が走った。
 けれど、身体を走る痛みより強く、衝撃が胸を貫く。
 戻ってきてしまった。
 身体を貫いた衝撃。
 覗きこんでくるさくらちゃんが、泣き顔に戻って両手を広げる。
「吐いてしまえば楽だよ。気にしないで吐いて」
 違う! そんなんじゃない!
 第一、何も食べていないのに、吐けるわけがない。
 吐いたって苦しいだけ。
 違うのだ。これは。この吐き気は。そういうものとは違う。
 こみ上げてくるのはそんなものなんかじゃない。
 吐いたって楽になんかならない!
 戻れない。戻れないんだ。
「みどり、吐いちゃっていいから。私は大丈夫だから」
 誤解したままのさくらちゃんの声に、私はただ首を左右に振るしかなかった。
 全身を走る痛み以上の苦痛を胸に抱えて。
 モドリタイ。戻りたい。あの頃に。アノジダイニ。
 私たちがいるべき場所に。ワタシタチガイルベキジダイニ。
 記憶の中の世界に。
 心が叫ぶ。意識が叫ぶ。
 ここじゃない時代に。
 私とさくらちゃんと晶ちゃんで。
 帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
「帰ろう。さくらちゃん。帰ろう」
 あの日に。3人で。あの幸せな世界に。
「晶ちゃんとさくらちゃんと私で」
 帰ろう。
 熱のせいで痛みを訴える目を友に向けて。 さくらちゃんを凝視して私は繰り返した。ただそれだけを。
 引き出せるだけの力をこめた、けれどか細い声が私自身の耳をうつ。
 帰ろう。
 何度も繰り返す言葉に、さくらちゃんは私の手を握り締め、無言で頷いていた。


 カエリタイ。
 祈るように口をついて出た言葉。
 カエロウ。
 呪文のように。
 カエルンダ。
 決意。
 ゼッタイニカエルンダ。
 いつ終わるともしれない悪夢の中で、私は何度も繰り返す。
 サンニンデ。
 現実となるように。
 カエルンダ。アソコヘ。アノジダイヘ。
 強く、強く、思い続けた。
Fin

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キリ番100のリクエスト「地元が舞台の小説」
沖縄戦がテーマとなっています。本編は書く予定ではありますが、現在未定です。
6月23日についてはこちらで紹介しています。
参考文献 「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」「首里の町が消える日」「対馬丸─さようなら沖縄」 「鉄の暴風」「沖縄県史」「写真でみる沖縄戦」