一陽来復
──かけ──


1


 来ない。
 親の敵とばかりに掌の時計を睨みつけ、富樫まりあは小さな溜息を吐いた。 控えめに抑えたのは、教壇の教師への配慮であったのだが、気づいた様子も なく淡々と授業は進められている。
 来ない。
 いまだ空席のままの窓際最後尾の席を思って、再び溜息がこぼれた。
 今日は朝からひとつも授業を聞いてはいなかった。ノートをとることだけは しっかりとするものの、教師の説明も授業の内容もさっぱり耳に届かない。
 授業も手につかず、朝から10分おきに時計と睨めっこをし、落ち着かないこ の状況を彼女が続けているのには理由わけがあった。
 親友結城朱蘭の無断欠席。
 普段から真面目とは言いがたく、どちらかと言えば校内一の問題児である親友が 無断欠席をすることは別段珍しいことではなかった。朱蘭の不在に教師もクラスメ イトも気にする様子もなく、普段どおりにカリキュラムをこなしている。むしろ ここ数日続けられていた登校が職員会議の議題に持ち上がるほど異常な事態とさ れていたのだ。
 まぁ、登校してもめったに教室に姿を現さない人物が、わずか数日間とはいえ連日 登校し、真面目にすべての授業に出席しているのだ。確かに日ごろの行いの悪さから 何か良からぬことを企んでいると警戒されても仕方のないことなのかもしれない。
 ここ数日の周囲の精神的緊張を強いるきっかけを作った元凶たる少女は、しかし ながら彼らの心情を思いやる余裕などなかった。
 昨日までの緊張感が嘘のような和やかともとれる教室の雰囲気の中で、ただひとり 仏頂面を通している。そこに親友の無断欠席をいつものことだと笑い飛ばす普段の 彼女はいない。周りが首を傾げるほどに今日は親友の不在に神経質になっていた。
 約束したのに。
 小さな呟きは誰の耳にも届かない。
 真面目にノートをとる者、寝ている者、教師の目をかすめて携帯電話でメールの やりとりをする者。級友たちを横目で見やって、ずれかけた眼鏡を押し上げる。
 頬杖をつく。
 中途半端に開けられた窓から流れてくる風が、教室を横切りまりあの色素の薄い 柔らかな髪を揺らし、溜息をさらっていった。
 クラスメイトのたどたどしい英語を聞き流し、まりあは憤りと不安の入り混じった瞳を閉じる。
 脳裏に蘇るのは、ほんの一週間前の出来事。


 『朱蘭、カケをしない?』
 『カケ?』
 唐突に切り出した言葉に面食らった顔をした親友。むちゃくちゃな内容に呆れながらも、 拒むことはしなかった。
 『おれが勝ったら何くれんの?』
 鳶色の瞳が楽しげに輝いている。強烈な生命力をふりまくその双眸は、期待の色に染まっていた。
 『朱蘭の望みをひとつ、きいてあげる』
 こちらの提示に瞳の輝きが増した。負けることなど、はなから考えていない。
 『その代わり、私が勝ったら私の言うこと絶対にきいてよね』
 『わかった。その賭け、のる』
 自分の勝利を信じて疑わず、彼女にとっては不利な条件だというのに、朱蘭はカケにのった。
 その裏にあるまりあの思惑にも気づかずに。


 ようするに、単純なのよね……。
 目の前にえさを置かれると、躊躇することもなく喰らいつく。
 そこが問題といえば、問題なのだけれど。
 今はいない問題児のことを思う。
 まぁ、そのおかげで勘ぐられることもなく、すんなりとカケの成立となったわ けだから、彼女の性格のありように感謝しなければならない。
 ほんと、たんじゅんなんだから。
 無意識に薄い唇が笑みを刻む。つり上げられていた三日月形の眉が緩んだ。が、それも一瞬だけで、 すぐにまりあはもとの小難しい顔に戻る。
 壇上の教師がそでを軽くまくりあげ、腕時計で残り時間を確認する。つられてまりあも握り締めていた 時計に目を落とす。
 針の示す時間に、また溜息が洩れる。
 この授業の残り時間はあとわずか。再びチョークを走らせる教師に合わせて、まりあも転が っていたシャープペンシルを握りなおす。
 残された授業はあと2つ。
 勝利を目前にしながら、朱蘭がカケを放棄するとは思えないけれど。
 残り時間の少なさに半ば自分の勝利を確信しながらも、まりあの表情は暗かった。握り締めた時計に 再び目を落としたところで、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
 授業を終え立ち去る教師を見送り、まりあはページをめくることもしなかった教科書を鞄の中に 放り込んだ。転がる消しゴムやペン類をケースにしまいこみ、教室移動の準備のため重い腰をあげる。
 ふと、動きが止まる。
 一瞬躊躇する。が、結局まりあは身体を回転させた。
 いないことは解っている。解っているのについ目を走らせてしまう。 振り返るのはこれで何度目になるのだろう。落胆するだけと解りきっているのに。
 振り向いて、肩を落とす。
 予想通り、今回も求める人影を見出すことは出来なかった。
 唇から盛大な溜息が洩れる。
 なにしてるのよ。
 窓の外、眼下に広がる町並みを恨めしげに見やって毒つく。誰もいなくなった室内で吐き出した 溜息は、思いのほか大きく響いた。
 早く来なさいよ。
 人工の灯りに照らされ、鈍く光る茶色の机。
 カケはまだ終わりじゃないんだから。
 もう一度大きく息を吐き出すと、まりあは重い足取りで教室を後にした。


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