一陽来復
──かけ──


2


 真太は目を見張った。
 今、目の前で繰り広げられている光景が信じられなかった。
 15人もの男たちに囲まれ、絶対に無事では済まないと思っていた。
 それなのに……。
 これはどういうことだろう?
 相手は柄の悪い、常識が通用しないことがひと目でわかる相手ばかりだった。
 対する少女は小柄で、どう考えてもこの人数に太刀打ちできるようには見えなかったのに。
 小さな綺麗な顔が切れて膨れて真っ赤になると思っていた。光を散らす腰まで伸びた黒髪も無残に 切られてしまうと思っていた。そんな彼女の姿をみたくなくて、奇声をあげ、攻撃を仕掛ける 彼らの姿を目をつぶって視界から追い払った。
 男たちのほとんどは素手ではなかったから、自分も生きては帰れないと本気で考えていた。
 しかし真太の予想はことごとく外れたのだ。
 いくら待っても、襲ってくるはずの痛みはない。恐る恐る瞼を上げた先に飛び込んできた光景に、 真太は我が目を疑った。
 一見優等生に見えるその少女は、拳が繰り出されるその下をかいくぐり、懐に入ると渾身の力を込 め、一撃のもとに男を沈めていた。崩れ落ちる男の巻き添えをくう前に素早く相手の懐から飛び退 く。間髪いれずに背中から襲いかかってくる別の青年の顔に振り向きざまに回し蹴りを放った。
 目で追うことが難しいほど、彼女の動きは速かった。その上、信じられないことに、どうもケンカ 慣れしているようだった。
 常盤色の膝丈のスカートの裾が翻る。同色の胸のリボンが動きに合わせて揺れた。
 倒れた男の向こうでは、次の男が、獲物を落ちていた木材に代え、めちゃくちゃに振り回し、少女 に向かって突進していた。
 が、息を整える間もなく襲ってきた彼の攻撃に、首を左右にほんの少しずらしただけで、彼女はそ れをなんなくかわした。図体の割には機敏な動きを見せる男は、かわされた次の瞬間には態勢を立て 直し、再び少女を襲う。猪のように突進してくるだけの攻撃に、少女は直前で避け、すれ違いざま 腕を取って背負い投げを仕掛ける。
 ゆっくりとした弧を描き、男の身体が剥き出しの地面に叩きつけられた。
 流れるような動きだった。無駄な動作がひとつもなく、一瞬の間に10人以上の男たちが地に沈めら れていた。
 華奢なその身体のどこに倍もある体格の男を投げられる力があるのだろう。
 瞬きすら出来ず、凝視している先で少女はまだ闘い続けていた。
 トンネルの壁を蹴って次の相手の肩を飛び越え、背中に回りこみ、太い首に細い腕を巻きつける。 真っ赤になってもがく男を窒息寸前まで締め上げてようやく解放する。泡を吹いて倒れる男を放り投 げ、今度はナイフを握り締めた少年に対峙した。
 10人以上の男を片づけたにも関わらず、驚いたことに彼女は息ひとつ乱していない。
 対して少年は、握り締めたナイフの刃先を小刻みに震わせていた。男たちの中で最も幼い顔立ちを した彼は、自分と同い年のように真太には思えた。
「なんだ。怖いのか」
 揶揄する笑みを浮かべ、彼女は少年を挑発する。少年の怯えていた顔に朱が上った。
「馬鹿にするな」
 叫んだ声は語尾が震えていた。精一杯の虚勢を張って、少年はしっかりとナイフを握り直すと、 少女に向かって駆け出す。
 彼女は苦もなく避け、黒のハイソックスでカバーされた足を少年の進行方向に突き出した。 彼は避けきれず前のめりに倒れ、庇う間もなく地面に顔面を強打する。
「うう……」
 苦しげに呻いて顔を上げた少年のその鼻から多量の血が流れた。剥き出しの地面に黒く染み込んで いく。顎から伝って地面に流れる雫を手で受け止め、少年は目を見張ったようだった。彼はそのまま 数秒もたたぬうちに卒倒してしまう。
「なんだ……情けない」
 ハスキーボイスが呆れたような言葉を紡ぎ、気絶した少年の傍らに屈みこむ。その手が少年の身体 に触れる。何をしているのかは真太からはみえなかった。
 やがて立ち上がると、少女は真太を振り返った。薄暗いトンネルの中、微かに乱れた少女の息遣い が耳に届く。彼女の他に立っている者はもう誰もいない。
 呻き声と嗚咽は怨念のように地を這い、忍び寄ってくる気がして、真太は身震いをした。
「ごめんな」
 近づく少女の気配に、身体を小さくさせ、真太はコンクリートの壁に背中を押しつける。
 綺麗な顔が、恐ろしい鬼のように思えて、怖かった。
 真太の反応に、少女は困ったように眉を下げた。薄暗くてはっきりとはわからなかったが、彼には そう見えたのだ。
「悪かった。巻き込むつもりじゃなかったんだ。けど、おまえ、不安そうな顔していたから、助け呼 びに行くんじゃないかって思って。邪魔されたくなかっただけなんだ」
 言い訳めいた言葉と同時に真太の前に手が差し出された。
 どうしていいか分からず、彼は鞄を胸に抱いたまま彼女の顔を見上げた。促されても彼女の手を掴 むことは出来ない。怖い。ひたすらこの少女が怖かった。
「何もしないって。ほら、立てよ」
 少女は苦い笑みを口元に浮かべ、有無を言わせず真太の腕を掴み、引き上げる。
 15人もの男たちを片づけた後なのにそれを感じさせない強い力だった。
「おまえ、名前は?」
 鞄を抱きしめたまま硬直する真太の制服の埃を軽く叩き、中腰の姿勢で少女は少年を振り仰いだ。
 触られたことでいっそう身体を強張らせた真太に、彼女は「わかった」と慌てて手を離す。 薄暗闇の中、真っ直ぐに真太に向けられた瞳は悲しげな光を宿していた。そんな気がした。
 罪悪感にかられ、慌てて声を絞り出す。
「し、真太」
 途端に少女の顔が明るくなった。真一文字に結ばれていた唇の両端が吊り上り、笑みが浮かぶ。
「おれは朱蘭」
 自身のことを「おれ」と呼ぶ少女に、真太は思わずまじまじと朱蘭を見つめた。
「ん? なんだ?」
 あまりにも少女らしい外見だけに、その口調は不釣合いに思えた。恐怖のために今まで考える余裕 はなかったのだが、よくよく考えると言葉使いだけでなく、乱闘自体、彼女の外見に合わないように 思う。
 しかし朱蘭はいっこうに気にする風もない。嬉しそうに大きな目を細め、彼女は真太を促した。
「真太、悪かったな。おれが声をかけたばかりに面倒に巻き込んじまって。ほら、どっか行くつもり だったんだろ、もういいよ。怖い思いさせてごめんな」
 ここに居たらまた同じようなのが来るだろ。これ以上相手するのはおれもごめんだからな。
 呼び捨てにされたのに、嫌な感じはしなかった。だからつい、叩かれた背中の勢いそのままに真太 は少女について行こうとした。
 ふと、男たちを跨いでトンネルの出口へと向かっていた朱蘭の足が止まる。怪訝な顔で問いかけよ うとした真太に、自身の唇の前に人差し指を立て、少女が制した。
 どこからか足音が聞こえる。パタパタと駆けて来る音に重なるように、人の声が聞こえた。
 本当にここでいいのか? と尋ねる男性の声。それに続いて太い声が続いた。
 耳をそばだてていた朱蘭の横顔がしかめられる。どうやら聞き覚えのある声だったらしい。徐々に 表情をしかめ、反射的に背後を振り返った。「やばい」と呟く唇が噛み締められる。
 嫌な予感がした。
 とっさに少女から飛び退こうとして、タイミングを外したことを知る。一瞬早く少女が真太の腕を 掴み、逆方向に引き摺られた。大股でトンネルを抜け出る。
 突然開けた視界に目を細め、真太は愕然とする。目前に広がる光景に絶句した。
「ここはなに?」
 頭を隠すほど長く伸びた雑草。その向こうには古タイヤの山にスプリングベッドの残骸。フロント ガラスがなく塗装のはげた乗用車。そのまた向こうに冷凍室のドアが外れた冷蔵庫。右手に投げ捨て られたと思われる画面の割れたテレビが一台。錆びた自転車の車輪が風で回り、不快な音を奏でてい た。
「あぁ、空き地」
 なんでもないことのように言いきって、朱蘭は素早く周囲に目を走らせる。その視線がひとつのゴ ミの山で止まった。
「来い」
 なぜ? という問いかけは許されなかった。少女は少年を引っ張ると空き地を横切る。
 生長しすぎだと思わずにいられない草は根も頑丈にできていた。土の上に顔を出す太い根っこに何 度も躓きそうになる。
 草に隠れた空き缶に足を取られ、歩きにくいことこの上ない。だが、前を行く背中は足下の障害物 をなんなくかわしている。
 肌をちくちくと刺す雑草の波をいくらか泳ぎ、真太は古いタイヤの山に引きずり込まれた。
「あの」
 声を発しようとした少年の頭を朱蘭は押さえつけ、鋭い視線で黙らせた。間髪入れずに若い男の声 が響く。
「ひどい」
 裏返ったような声はトンネルの向こうから聞こえてきた。足音の主なのだろう。
「すご……」
 柔らかだった先ほどの声に別の太い声が重なった。倒れた男たちを見ての台詞だろうことは容易に 想像できる。
 どうしよう。
 2人の青年の声が途切れ途切れに聞こえる中、真太は戸惑いの目を傍らの少女に向けた。
「あの」
「黙ってろ」
「でも……僕」
「あいつは刑事だぞ。真太も見つかったらやばいんじゃないのか」
 学校、サボったんだろ。
 帰りたい、と続けようとした声に朱蘭の声が重なる。発せられた内容に、真太の瞳が大きく見開 いた。
「けいじって……」
 ひときわ大きくなった声に、恐る恐るタイヤの山から顔を出す。現れた人影を真太は覗きみた。 視線の向こうの青年はかなりの長身の持ち主だった。着せられているといった方がぴったりくるスー ツ姿。陽の光に照らされ、栗色の髪が明るく輝く。その柔らかそうな髪も持ち主たる青年の手によっ て鳥の巣と化していた。乱暴にかきむしっては、指に絡みつく髪に大きく舌打ちしている青年。辺り を見渡す顔は、学生でも充分通じるほどに幼かった。顔色は悪く、疲労の色が濃く影を落としている。
 青年の視線がこちらに向くより先に、朱蘭の手が真太の頭をタイヤの山に隠した。
「見つかりたくなかったら大人しくしてろ」
 タイヤの影から刑事を一度窺い見て、朱蘭は真太に密着するように腰を下ろした。
「参ったな」
 独白めいた呟きに、真太が少女を見る。不安そうな顔をしていたのだろう。朱蘭は真太の頭を軽く 叩いた。
「大丈夫だって、捕まらない」
 捕まったらおれも真太もやばいしな。
 ましてやおまえは初めてだろうし。
 すべてを見透かすような瞳でひとりごち、思い出したように表情を緩ませた。
 少女は唇の両端を引き上げて笑みを作ると、そのまま視線を途切れた道の向こう側へと向ける。
 まさか……。
 悪い予感が脳裏をよぎる。少女につられて視線を移動させた真太の目に、陽光に照らされ銀色に光 るフェンスが映った。
 まさかね。
 頬の筋肉が引きつった。まさかいくらなんでもあれを飛び越えろとは言わないだろう。
 フェンスの向こう側には地面がない。何もない。茶色の地面はフェンスの向こう数十センチでぶっ つりと切れている。
 強張った笑みが顔に張りついた。ふと視線を戻すと、少女がにんまり笑みを浮かべている。 こちらの考えを読み取ったらしい朱蘭の笑顔に確信する。させる気なのだ。
 いやだ。
 いっきに血の気が引いていくのがわかった。
 反射的に首を横に振る。
 いやだ。絶対にできない。
 目は相手に固定されたまま、真太は無意識に立ち上がろうとした。
「立つな」
 タイヤの山に頭が飛び出ようとした寸前で、強い力で下に引っ張られた。 腕が抜けると思うほどの力。
「出て来なさい」
 重なるようにかけられた声に身体が強張った。優しく呼びかける声音が大きくなっている気がした。
 茎が折れる音が確実にこちらに近づいて来ている。
「捕まりたくなかったら嫌でもなんでもおれの言うことをきくんだ」
 いいな。
 朱蘭は真太の顔を両手の間に挟み込み、むりやり視線を自分に向けさせた。 彼には頷くことしか許されていなかった。
 少年は顔を挟まれたまま、こくこくと顔を縦に振る。
「よし」
 少女の手が両頬から離れた。視界から彼女の顔が消える。手が握られた。少女の黒髪が視界を覆い 尽くす。
 一呼吸置いて黒髪が揺れた。
 強い力で引っ張られる。体勢を整える間も与えられず、引きずられるまま真太は走り出した。
 ふたつの陰が黒い山を飛び出す。
 雑草に覆い被された景色が流れた。冷蔵庫も洗濯機も木材の山もみんな後ろに消えていく。
「結城!」
 焦る声が空間を切り裂いた。呼ばれたのは自分のものではない名前。真太ではない誰か別の。
「待ちなさい! 結城」
 茎を踏み折る音が遅れて続いた。振り向く少女が、あっかんべーと舌を突き出す。動物的なカンが 備わっているのか、よそ見をしても障害物に足を取られることはない。ひらりと跳び、かわす。時お り躓き倒れそうになる真太を腕の力だけで支え、少女は駆けた。
「結城!」
 悲鳴に似た何度目かの呼び声に、少女の足が止まった。
 緩んだ力に、真太の足も止まる。頬を切る風がやんだ。
 少女の肩越しに銀色のフェンスが映る。
 高さが二メートルほどある柵に手を伸ばせば届く距離まで二人は近づいていた。
 朱蘭の目が真太を見、次に金網を見た。登れとその瞳が言っていた。
 促されるままに手をかけ、足をかける。足をかけるごとに目前の景色が広がっていく。
 登りきったところで、真太は動けなくなった。あまりの高さに手が金網から離れない。
 唾を何度も飲み込む。深呼吸をしようとするが、意思に反して呼吸が荒く浅くなる。 堪らず目を瞑った。
 ダメだ。飛べない。とべない。
「おれが先に飛ぶ。真太は後から飛べ」
「え?」
 真下から聞こえてきた声に、真太は目を開けた。見下ろす先で少女はいっきに金網を駆け上り近づ いて来る。あっという間に隣に並んだ。
「大丈夫。おれが下でちゃんと受け止めてやる」
 小さな子に言い聞かせるような口調で真太の耳元に囁くと、少女は勝ち誇った笑みを浮かべ、背後 の青年を振り返った。
「じゃあね。まさみちゃん」
 フェンスから両手を離し、軽く振り上げると空中に身を躍らせる。
 一瞬の出来事だった。
「まっ」
 青年刑事に制止する間も与えず、その身体が躊躇することもなくフェンスから離れる。
 黒髪が真太の頬に軽く触れ、風を受けて離れた。すぐにその姿が小さくなる。少女の後を追うよう に、ひらひらゆっくりと緑の布切れが落下していった。右に左に風に乗り、揺れるスカーフ。少女の ものだと気づくのにかなりの時間を要した。
「真太。早く来い」
 急かす声が聞こえたのは二呼吸ほど置いた後のこと。無事に着地した少女がこちらを見上げ、手を 広げて待っている。
「君、動かないで」
 まさみちゃんと呼ばれた青年刑事の声が少女の声に重なる。
 振り向くと、彼は慎重な足取りで真太に近づくところだった。
「君まで結城の真似をすることはない」
 怪我をするぞ。やめるんだ。
 真剣な眼差しが語っている。
 金網にかけた指が離れかけた。
「そいつの言葉に耳を貸すな!」
 融通がきかない真面目人間なんだぞ。
 真下で少女が怒鳴る。
「捕まったら学校にも親にも今日のことバラされるぞ」
 それでいいのか!
 その一言で心は決まった。
 無断欠席の上、補導なんて、母親に知られたらと考えるだけで恐ろしかった。
 泥だらけのスニーカーが金網を蹴る。
 腕を広げた朱蘭の姿が大きくなった。
 息をする間もない短い時間の後、少女をクッション代わりに真太は無事着地した。 けれど、安堵の息を吐き出せぬままに、強い力で引っ張り起こされる。
「やべ、降りる気だ」
 行くぞ。
 頭上を見上げる暇さえも与えない。切羽詰った少女の声で真太は再び走り出した。
 降ってくる青年の声から逃れるように。
 背後で何かが落下した音が聞こえた。


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