一陽来復
──かけ──


3


 くっくっくっ。
 突如室内に響き渡った不気味な声に、読んでいた書物から顔を上げ、鳴神源也は振り返った。
 五十代も半ばにさしかかった地肌の見え始めたダークグレイの頭髪のてっぺんがこちらを向いている。 毛織のセーターの上に丹前を羽織、首にはフリースのマフラーという完全防備な格好。机の表面に目を落としたまま、 その人物は地の底から響くような不気味な声を発し続けていた。
 その人物の周囲を砦のように無線機やらパソコンやらが八畳の部屋半分を占拠していた。 夜明けと同時に運び込まれたそれらを男は時折いじる。その合間に熱心に卓上に広げられた地図に何かを書き込んで いった。
 男の背後には揺れるカーテン。軽く身震いするほどの風が申し訳程度に開かれた窓から入り込む。 風が通り抜けるたびに緑の布地が揺れ、青い畳を朱色に染めた。
 鳴神は朱色に染まる主人をしばらく黙ってみていた。地の底から響く笑い声が徐々に大きくなる。 呼んでいるのだと判断し、鳴神は手にしていた単行本を閉じた。邪魔にならぬよう脇に寄せられた将棋盤の上に本を 置いて立ち上がる。ゆっくりとした足取りで機械に埋もれた主人、工藤組元十二代目総長久遠義仲その人へと近づく。
「なんです?」
 空間に響く柔らかなテノール。耳に心地よい、女性ならばうっとりと聞き惚れているであろう声。 しかし主人は不気味な笑いを返すのみである。
 答えない主人の後ろに回りこんで、鳴神はその肩越しに広げられた地図を覗き込んだ。
 赤いピンが地図の中央から少し右に寄った位置に刺さっている。ピンの刺さったすぐ下に数字が赤と黒のインクで 書き分けられていた。それは地図の上部から始まっており、だんだんと下方に移っている。
「ここで80人目」
 刺さったピンの横を節くれだった人差し指が軽く叩く。腹に響く低い声が短い言葉を発した。 義仲の示した場所には黒で15、赤で8と記されている。
 今までのことから察するに、黒は倒した数、赤は病院送りになった数、といったところか。
 そう判断して、鳴神は主人の細かい説明を省いた台詞に軽く頷いた。
 頷いて、おやっと首を傾げる。赤いピンの近くに寄り添うように刺さる二つのピン。 赤より一回り小さな黄色の。
「これはなんです?」
「ああ、あれの子分だ」
 良くぞ聞いてくれたと言わんばかりに笑みを浮かべた顔が得意げに語った。
「子分?」
 事実をだいぶ歪曲して教えるつもりであろう主人に、鳴神は疑いの眼差しを向ける。
「子分だ。子分」
 文句があるのか、と挑むような眼差しを向けてくる主人に、鳴神は首を振った。 主人に逆らえるわけがない。今回のところは彼の言葉を認めることにして、鳴神は話の先を促した。
「子分ですね。で、このあとの足跡は?」
 まったく信じていない鳴神の口調に拗ねた表情を一瞬みせるも、義仲は促されるままに説明を続ける。
「ここで85人目」
 ほんの少し指を滑らせ、ピンの位置を左にずらし、新たな数字を書き込む。
 今回は5。その隣にカッコつきで2が加えられた。
「ただし2人はアレが手を下してないから正確には83」
 重たげな厚みのある瞼の下の目が笑んだ。 もたらされる情報は予想をはるかに裏切る期待以上のものであるらしい。
「誰です?」
「子分その一の刑事だ。カンザキマサミとかいう」
 知っているか? と問いかけてくる眼差しに、鳴神は数秒、間を置く。
「少年課の警官だときいたことはありますが」
「アレのオモチャだと言っていたぞ」
 ややあって返した答えに、義仲は別の台詞を投げてよこした。 子分にオモチャとは言われ放題である。誰によってもたらされた情報なのか、当の本人が聞いたら間違い なく猛然と抗議に出る内容だ。
 外れてはいないが、正解ともいえない言葉に、鳴神は微苦笑を浮かべるだけで答えとする。 彼お得意の感情の読めない笑顔に、途端に義仲の顔が不機嫌に歪む。つまらなさそうな視線を一瞬だけ 鳴神に向け、あとは情報収集に意識を集中してしまった。
 どうやら失敗してしまったらしい。主人はすっかりへそを曲げてしまった。
 黙りこんだ主人の傍に人ひとり分座れるスペースを確保し、鳴神は遠慮なく腰を下ろす。
「子分その二の働きがないですね」
 地図に書き込まれた数字に目を落とす。小さなカッコは神崎まさみの戦績しかない。
「ああ、子分その二は単なるおまけらしいからな」
「おまけ、ですか」
 あまりの言われようにコメントのしようがない。
「素性は分からないんですか?」
「さあな。気の小さそうな少年だという報告だ」
 興味なさげに言葉を放って、義仲はまた機械をいじり始めた。
「それにしても83人ですか」
「今回もお前の負けだな」
「まだ判りませんよ」
「このペースなら100人は軽い」
 会話の合間に、沈黙していた右側の機械から疲労のにじむ中年男性の声が響いた。 通報に応じて救急車の出動命令を下すその声に重なるように、左の機械も沈黙を破る。 パトカー出動を要請する声に、主人の顔に笑みが戻った。
 新たな乱闘騒ぎを伝える内容に、不気味な笑いが重なる。
 地面が揺れたのかと錯覚するほどの声に、 鳴神は思わず傍らの機械を身体で支え、そして苦笑する。
 警察と救命(救急?)指令センターからもたらされる情報によると、どうやら問題の人物たちはまた7 名ほどの青少年をのしたらしかった。
 さっそく義仲は地図の赤いピンを左下に移動させた。再び黒で7の数字と赤で5の数字を書き込み、右脇 にかっこ付きで2を加えた。
 それにしても。
 主人が情報を盗みとり追いかけている話題の人物の足跡を、鳴神は目でなぞりながら首をひねった。 赤いピンのその先には私立青陵高校がある。目的地はたぶんそこなのだろうが……。
「学校、ですか」
『うるさいし、面倒だから嫌いだ』
 たしか自らの通う高校にそんな感想を洩らしていた。サボることはあっても真面目に授業受けることは皆無 だったはずの少女。
「気になるだろう?」
「確かに。今日でまる一週間ですからね」
 それなのにここ数日は真面目に通い、あろうことか授業にも出席しているという。どういう風の吹き回しかと、 誰もが思っていた。
 理由は父親である義仲すら知らない。おかげで最近機嫌がすこぶる悪いとは殿付きになってまだ日の浅い服部の弁。
「いくら聞いても教えてくれんからな」
 宥めてもすかしても頑として口を割らず、何も引き出せない。 結局判ったのは一週間の期限付き登校ということだけだった。
 その時の朱蘭の様子を若い衆はこう表現していた。
『口をこんな形にして、ときどき思い出したように変な笑い声を立てるんすよ。 マジで三代目が狂っちまったかと……』
 唇を左右にめいっぱい持ち上げて、気味が悪かったという笑い声まで再現してくれた彼らのことを思い出し、 鳴神は薄い唇に笑みを浮かべる。
 誰にも話したくないとっておきの隠しごとを彼女が抱えているのは明らかだ。 それを隠そうともしないところ(彼女の性格では「隠せない」が妥当なセンだろう)が、よけいに父親の好奇心 を刺激しているらしい。
 直感的に娘の隠しごとを嗅ぎとって探りを入れるも、相手は面白そうな匂いだけを振りまくだけ。 匂いは嗅ぎとれるがそれがなんなのかわからない。しかも相手は絶対にちょっかいは出すなと自分たちに強く 釘をさし、この一週間連絡も完全に絶っている。
 こうまでされると、人一倍好奇心の強い主人でなくとも、知りたいと思うだろう。
 実際、鳴神自身も知りたいと思った。怒りの矛先が自分自身にも向けられることを覚悟の上で今も主人に 手を貸している。
「お前も知らないというし」
 義仲はわざとらしく肩を落とし、首をねじってこちらへ向けた。
 知りたいのに誰も教えてくれない。不満が浮かぶその眼差しに、鳴神は苦笑する。 知らないというこちらの言葉をまったく信じていない目だった。
「私にだって知らないことはあります」
「アレのことはお前に一任していたはずだ」
 主人の言葉に肩をすくめてやり過ごす。
「私も万能ではないですから。神沼なら知っているんじゃないですか?」
「あれも知らんといっている」
 役に立たんやつらばかりだ。
 義仲は毒つくと今度は意識をモニターへと移した。
 メール受信を知らせる点滅に、老人班の目立ってきた手がマウスを動かし、クリックを繰り返す。 いくつものしわが刻まれた横顔の、窪んだ眼が現れた文章を追っていく。 が、期待した収穫は得られなかったのか、すぐにウインドウを閉じてしまった。
「気になるな」
 解答が得られず、大きな熊のような図体が唸る。
 どんなに阻まれてもひたすら学校を目指すわけをなんとか掴みたい。 半ば意地になっているようにみえるその行動の先に何があるのか。
 身体全体から放出される異様なオーラに、鳴神は同意するように頷いた。
「もうすぐわかるな」
「そうですね」
「その時は覚悟しておけ」
 楽しげに笑んで、義仲は傍らの懐刀を見やる。
「なんの覚悟です?」
「この勝負、お前の負けだ」
 答える代わりの自信に満ちた勝利宣言。
「忘れたわけではあるまい?」
「まだ早いですよ」
 まだ条件は達成クリアされていない。しかし、
「いや、お前の負けだ」
 言い切って、義仲はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「覚悟しておくのだな」
 あの娘がここまでやられて黙ってはいない。
 答えを引き出す代わりの人身御供にあてられて、それでも鳴神は口元の笑みを崩すことはなかった。
  

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