一陽来復
──かけ──


4


 青陵高校西門脇に大きな桜の木がある。樹齢数十年のその桜は大振りの枝を向こう側の柱まで伸ばし、 自然のアーチを形成していた。夏には濃い緑の葉で生徒たちの頭上に影を作る大木も、今はむきだしの 枝だけが風に揺れ、時おり寂しげな音を奏でるのみ。その枝の上。
「おー来た来た」
 バランスの取り辛い細い枝の上で、猿よろしく器用に座る比嘉篤志の姿があった。 右手をおでこの前にかざし、腰を軽く浮かせた姿勢で口笛を吹いている。頭上の枝を掴む左手と、両足 のつま先だけで身体を支えていられるのは運動神経のたまもの。バランスを崩せばその下の十数段もある 石段にまっさかさまなのだが、それを気にする風もない。彼の関心は今、数百メートル先に向けられて いた。
 視線の先には猛スピードで迫ってくる影。やや遅れて大きな塊が地響きをたててその影に続く。
「うわぁ。すげー」
 それはいつかテレビでやっていた外国の牛追い祭りを連想させた。あまりの迫力に口笛が途切れる。
 近づく先頭はかご付きママチャリ。それは上り坂にもかかわらず、スピードをあげてやってくる。腰 を浮かせ、死に物狂いでペダルをこぐのは少年。その後ろから同じような姿勢で長身のスーツ姿の青年 が追ってくる。
 ん?
 見覚えのまったくない人物と見慣れた青年の組み合わせに、篤志は首をかしげた。その拍子にバラン スが崩れて枝から滑り落ちそうになる。首から下げた携帯が激しく左右に揺れ、
「うわわわわ」
 ぐらぐらと揺れる視界に反射的に頭上の枝にしがみつく。身体が反転しただけでなんとか落下は免れ たが、代わりにポケットのライターが硬い音をたてて真下の石段に転がった。
「……びびった……」
 かすれた呟きが洩れたその時、耳をつんざく金属製の高い音が辺りに響いた。めいっぱい音の方向に 首をねじる。
「へたくそ!」
 間をあけずにハスキーボイスの怒鳴り声が響いた。
 声の主は、いたたたた、と腰に手をやり立ち上がるところ。
 どうやら倒れた瞬間に投げ出されたらしい。自転車の下敷きになっている少年に叩きつけるような視 線を投げている。
「だって……」
 ブレーキがきかないんです。
 嗚咽の混じった少年の声がか細く聞こえた。涙で濡れた顔を隠そうともしない。
朱蘭は少年に向けていた顔をしかめ、長い髪を乱暴にかきむしっている。その行動で、悪友が少年の扱 いに困っているのだと一目でわかった。
 また、変なものを拾ってきやがって……。
「来い、真太。まさみちゃんに捕まるぞ」
 とりあえず面白そうなのでしばらく様子をみることにした。
 長い間のあと、ぶっきらぼうな台詞だけを放ち、朱蘭は自転車と彼を置き去りにする。
「待って下さい」
 地響きをたててやって来る後方集団に怯えるように、少年はのしかかる自転車を慌てて跳ね除ける。 置いていかれる恐怖が躊躇する心を押さえつけたのか、少年は朱蘭を小走りに追いかけてくる。
 すぐ後から追いついた神崎まさみも自転車を乗り捨て駆けて来る。遠目からでもわかるほどにその顔 には疲労が色濃く影を落としていた。少年と同様、後方集団に怯えるように歩調を速めている。
 一部始終を目撃して、篤志は見開いた目をさらに大きくさせた。ねじりすぎた首筋が痛みを訴えるが 構っていられない。
 視界に入った二人の姿は凄絶だった。少年ただ一人が何の被害にもあっていないらしく、着ている服 に乱れはない。だからこそ余計に他の二人の姿が目を引いた。
 悪友と青年の上着はところどころボタンが取れ、肌が見え隠れしている。神崎のズボンは刃物でやら れたのか所々切り裂かれ、そこから血のにじむ膝小僧が見え隠れしていた。朱蘭も左の肘から下の袖が なく、細く白い腕があらわになっていた。目立たないが、よくみると右足を引きずって歩いている。
 悪友の全身から放たれる異様なオーラに「すげー」と声を上擦らせて篤志が呟く。 その声が耳に届いたらしい悪友の殺気立った眼差しがこちらを見上げた。 瞳の中に見え隠れする赤い炎。
「何やってんだ。お前」
 階段手前から投げられる機嫌の悪さを表す、尖った声。
「みてわかんねぇ?」
 しかしそれに怯むことなく篤志は軽い調子で返した。
「知るか」
 対して朱蘭はひたっとこちらに眼を固定し、言葉を吐き捨てる。 門へ続く石段を登って来る悪友は爆弾を破裂させる一歩手前の雰囲気を漂わせていた。 その後ろを少年が、遅れて童顔の青年が追いつく。
 神崎は篤志に気づき、涙と汗でべとべとの顔をこちらに向けた。 毛並みのいい茶色の大きな犬がミミとシッポを垂れ下げた、という形容がぴったり当てはまるその姿。
「なんて顔してんだよ。まさみちゃん」
 からかい半分、呆れ半分が宿った篤志の声に青年刑事は慌てて右手の袖で乱暴に顔をこする。 キッと目をあげ、口を半ば開きかけた。
 しかし声を発する前に彼のシャツのシッポを、追いついた一人が力任せに引っ掴む。
「うわっ」
 反論するはずだった唇が短い悲鳴をあげる。長身の身体が後方に傾いた。
 前を行く少年が、反射的に青年から離れる。
「まさみちゃん」
 あぶない!
 宙をかいた青年の手が目前の常盤色の布地を掴む。 警告を発しようとした篤志の鋭い声がそれに覆い被さった。とっさの自身の行動に、青年は驚いたよう に手の中の布地を見つめた。けれど掴んだそれを彼は放さなかった。その結果。
 突然の事態に華奢な彼女が支えられずはずもない。 一番乗りで最上段にたどり着いたはずの朱蘭の身体がぐらりと傾いた。
「しゅらん!」
 スローモーションのようにゆっくりと階段を落ちかける悪友の姿に、くるりと態勢を立て直し、 篤志は堅い樹肌を蹴った。背中から落ちること必至の悪友と青年の間に降り立つ。
 計算が少々狂い、落下地点がバランスを崩した神崎の左足の上。
「ぐぎゃぁー」
 妙な悲鳴をあげる青年の手が掴んでいた布を放した。
「あ、わるい」
 ものすごい形相に篤志が反射的に足を退ける。
 支えを失った青年刑事の身体は後ろに仰け反った。
 慌てて手を伸ばすが篤志の手は彼に届かない。背中にかかる悪友の体重を支えつつ、仕方なく篤志は 転がっていく青年を見送ることにした。
 重力に逆らうことなく落ちていった彼は追ってきた集団を下敷きにし、痛みに顔を歪めたままの表情 で気絶した。
「あーあ……」
 伸ばしかけた手と落ちた青年を交互に目で追いかけ、大きな溜息をひとつ。
「ほっとけ」
 行くぞ。
 かすれた声に振り向くと、すでに朱蘭はのびている青年に目を向けることなく、校舎に向かって歩き 出していた。2、3歩進んで思い出したようにその背中が振り返る。
 つられて篤志も悪友の視線を追った。
 目を走らせた先には、とっさに壁際に避難し、難を逃れた少年の姿があった。 難を逃れたものの恐怖で立ち尽くしている、いかにも気の弱そうな少年。
「そういえば、あれ、誰?」
 雰囲気がどこか気絶した青年に似ている。
「成り行きで拾った」
 イヌじゃないぞ、と突っ込みを入れたくなったが、少年の全体の雰囲気がまさにそれだったので控え た。捨てられ、途方にくれた子犬。誰かさんとまったく同じ形容が当てはまる。
 まあいいけどね。
 拾った、というには語弊があるが、その第一号と言えなくもない神崎と第二号たる少年を見比べて、 篤志は呟く。
「そこにいるとお前もまさみちゃんと同じになるぞ」
 硬直したまま動く気配のない少年に、朱蘭は溜息を吐き出すと手招きをする。
 少年の怯えた眼差しが朱蘭と気絶した青年を何度も行き来した。
「置いてけば」
 軽い口調の篤志の言葉に、朱蘭が顔をしかめる。
「そうもいかないだろう」
「だってよ。もう誰もいないんだぜ」
 追っ手は神崎がいっきに片づけてしまった。少年の身に危険が及ぶことは今のところ、ない。
「それもそうだな」
「それよりあっちはいいのか?」
 気絶した第一号を親指で指し示すが、悪友は一瞥しただけだった。少年に対するものとは正反対の態 度である。
 いいのね。
 小さく口の中で呟き、同情の眼差しを刑事に注いだ。
「真太」
 来ないなら置いてくぞ。
 焦れた朱蘭は言葉を投げ捨て、立ち去ろうとする。
 離れていく背に、少年が動いた。
 近づく足音に篤志が振り返る。鞄を抱いて、半べそ状態で階段を駆け上がって来る少年の姿が見えた。
「来たぞ」
「わかってる」
「どうすんだよ」
 ひそひそ声で交わす言葉の背後で、足音が止まった。
 振り返ると、少年が肩で息をしたまま濡れた目でこちらを見上げていた。 遠目では気づかなかったが、服に隠れていない手や顔にかすり傷が見え隠れしている。 朱蘭ほどではないにしても渇いて赤黒くなっている傷口が痛々しい。
 篤志のそばで、朱蘭が軽く屈み込んで少年に視線を合わせる。
「あの校舎の右端にカーテンがかかっている窓があるのがみえるか?」
「……はい……」
 朱蘭が指差した先にはベージュ色のカーテンのかかった半分ほど開いた窓があった。 彼女の指先を辿って目を向けた少年が頷く。
「あそこは保健室になっているから、真太はそこで傷の手当てしてもらえ」
「でも……」
「おれのつれだっていえば大丈夫。帰りはこいつに送らせるから」
 朱蘭の親指がこちらを向いた。
「なんでオレ……」
 勝手に話をすすめられ、篤志は慌てて割って入る。が、びくりと全身を震わせた少年の過剰とも言え る反応に、中途半端に言葉を飲み込んだ。
「分かった。連れて行く。連れて行くから怯えんな」
 気分悪い。
 最後の一言に、ますます少年の顔が歪められる。
「篤志」
 朱蘭のたしなめる声に、頭をかきむしりたい衝動にかられた。
「あー分かった。悪かった。送ってく。行きます。だからさっさと向こう行って傷の手当てしてもらえ。 で、オレが来るまで待ってろ」
 しっし。
 半ば投げやりで追い払うように少年を急かす。
 追い立てられて無理やり保健室へと行かされることとなった少年は、怯えたままで足早に校舎の中に 消えていった。
 その背中を見送って、篤志はじろりと隣の悪友を睨みつける。
「おまえが連れてきたんだろう?」
 なんでオレが連れて帰らなきゃいけねえんだよ。
「おれは賭けの途中だから……ってやべ、もう時間ないじゃないか」
 当然のことのように言い放ち、腕の時計を見やって、悪友は慌てて駆け出した。
 うそをつけ。うそを。手にあまるから押しつけたのだ。そうに決まっている。 中学からの付き合いだ。性格は知っている。
「そういえば、なにしてた?」
 一言いってやらねば、と悪友を追いかけ隣に並んだ篤志に、相手は先手をとって違う話題を放って寄 越した。
 チッと舌打ちしつつ、後が怖いので無視することも出来ず、答えを返してやる。
「みてわかんなかったのか? 見物だよ。見物」
「見物? 誰を?」
 篤志の返事に悪友の形の良い眉があがる。 疑問符だらけの顔が説明を求めるように篤志に向けられた。
「おまえを」
「おれ? なんで?」
 自分の身に何が起こっているのかわからないらしい朱蘭は、何度も首を捻るばかりである。 どうやら自分の身に降りかかっている火の粉の正体を知らないらしい。 彼女らしいともいえる反応に、篤志は内心苦笑気味に説明してやった。
 今朝、携帯電話にWANTEDの赤い文字と百万円と金額が表示された朱蘭の顔写真付きメールが届いたこ と。送り主にまったく心当たりがないこと。どうやら自分ひとりにではなく、複数の人間にこのメール がばら撒かれていること。朱蘭が動くたびに居場所を知らせるメールが送られてくること。ご丁寧に挑 戦者の人数と倒した数を報告してくること。
 受信したメールひとつひとつを液晶画面に実際に表示させ、悪友にみせてやる。
 すべての説明の後、なんともいえない沈黙が空間を支配した。
「で? 誰だ? こんな馬鹿げたことをしくんだのは」
 完全に目が据わっている。陽炎のようなゆらゆらとしたものが彼女の全身を包み始めていた。
「おまえ。オレの話聞いてなかったのか?」
 送り主に心当たりはないと言ったはずだった。判るはずがない。
「心当たりがあるとすれば、おまえだろう」
「ありすぎて絞れない」
 即答である。解ってはいたことだが、威張って言うことでもないと思うのは気のせいか。
 はぁ、とひとつ大きな息を吐き出して、ヒントになりそうなものを与えてやることにした。 まあ、これは推測でしかないのだけれど。
「今回の彼女とのカケのこと、知ってる奴の仕業じゃねえのか?」
 朱蘭の長い睫毛が2、3度擦れあう。怪訝な顔をこちらに向ける悪友に表題タイトルが追伸と書かれ たメールの中身を告げた。有効期限は本日の日暮れ。偶然かもしれないが、悪友が女友達と交わしたカ ケの最終期限と重なっている。
 低い獣の唸り声に似た音が向かい合った悪友から発せられた。 どうやら心当たりを探し当てたらしい。
「あのくそ親父が」
 吐き捨てた言葉に、携帯電話のメール受信を知らせるメロディーが被った。
 開けてみると、明らかに自分当てではないメール。内容からして、きっと目の前の悪友に対しての。
 果たして読ませていいものか。
 悩んだ末に結局、携帯を手渡す。液晶画面を覗き込んだ悪友の目がキラリと光った。
「ぶっ殺してやる」
 物騒な言葉を吐き捨て、そのまま回れ右で来た道を引き返す悪友を、篤志は慌てて止めに入った。
「こっちのカケはまだ終わってないだろ。どこ行くよ」
「今回はまりあに勝ちを譲ってやる」
 だから放せ!
 自由な右手が篤志の左手に伸びてくる。 あれだけ暴れてまだ力が発揮できる化け物じみた体力に驚愕した。その力の強さに思わず顔が引きつる。
「いてっ。おまえなぁ」
「おとなしく放せよ」
「そういうわけにもいかなくてな。見物と迎えはセットなんだよ。おまえはオレにお荷物預けんだし、 こっちの言うことも聞きやがれ」
 ほら、行くぞ。
 最後の抵抗を試みる悪友の腕を問答無用でねじあげる。そのまま掴んだ腕を朱蘭の背中に回し、 暴れ続ける悪友を小脇に抱えた。


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