一陽来復
──かけ──


6


 翌日の放課後。
 強張った顔にムリに笑みを浮かべたまりあは、職員室へと続く長い廊下を歩いていた。
 右手と右足を同時に出しているのではないかと思われるほど、コチコチに緊張している。すれ違う生 徒たちに奇異な目で見られたが、彼女は気にする余裕すらない。
 何度か大きく深呼吸し、ゆっくりとした足取りで職員室前にたどり着く。白いペンキがはがれ、部分 的に木の色に戻ったドアの前で立ち止まった。引きつった頬を軽く数度叩いて、固まった筋肉をほぐす。 大きく息を吸い込んで、3度ノックして扉を引いた。
 笑顔笑顔。
 普通に普通に。
 大丈夫、よし。
 暗示をかけるように自分に言い聞かせ、まりあは気合を入れる。
 一呼吸置いて室内に足を踏み入れた。
「失礼します」
 会釈し入室すると、一斉に室内の視線がこちらを向いた。視線たちを受け流し、ぐるりと見渡す。 一度通り過ぎ、ほんの少しだけ視線を戻して求める人影を見つける。大きな事務机の、2列目の最後尾 を目指し、まりあは歩を進めた。
 難しい顔をして湯気のたつカップを睨みつけていた担任は、近づく足音に我に返ったように顔を上 げた。揺れたカップからコーヒーの香ばしい香りが広がり、まりあの鼻をくすぐる。
「富樫か……どうした?」
 無理やり口元に笑みを張りつかせた担任は、近くにあった椅子を引き寄せ、まりあを招いた。 引きつった笑顔の中で、しかし目だけは笑っていない。
「お約束の件、確認に来ました」
 先ほどまでの緊張が嘘のように解け、自然に言葉が滑り出た。
   ここぞとばかりににっこり笑顔を満面に浮かべ、まりあは単刀直入にきりだす。
 途端に担任の左の瞼が痙攣したようにピクリと動いた。構わず軽く会釈をすると、まりあは勧 められるままに椅子に腰かけた。
「ああ……」
 気が乗らないといった返事に、まりあの表情が瞬時にして曇る。
「まさか先生、私との約束を破るつもりですか?」
 最初に言い出したのは先生の方なのに。
 非難めいた台詞を唇にのぼらせる。担任はいや、と反射的に答えはしたものの、言葉を濁した。
「彼女が1週間でも毎日登校できれば、留年の件は考え直してくれるって、先生そう約束してくれまし たよね」
「した。したが、しかしな、富樫……今日はほとんど授業に出ては……」
「条件は、登校すること、だったはずです」
 言葉を続けようとする担任の声を遮り、まりあはすかさず反論する。
 弱りきった顔で「でもな」と続ける担任に、今度は瞳を潤ませた。
「俺だけでは決められないことで……」
 まりあの攻撃に担任はうろたえる。
「それならなぜ、私に約束を持ちかけたんですか? 出来ないことを言うなんて詐欺です」
 まりあは語調を荒げ、手の中のタオルを握り締める。その瞳が傷つけられたと訴えていた。
 教師や生徒たちが怪訝な顔でこちらに視線を送ってくる。職員室内の意識がまりあと担任に集中し 始めていた。
 担任はポケットのハンカチを取り出し、しきりに額の汗を拭う。身振りで声のトーンを落とすように まりあに伝え、慎重に言葉を選び、再び口を開いた。
「まったく出来ないことを約束したわけじゃない」
「じゃあ、守ってもらえるんですか?」
 パッと顔を輝かせて上目遣いに担任を見やると、彼の声が一瞬詰まった。
「完全に守れるかどうかは……」
「それじゃあ……」
 歯切れの悪い台詞に、再びまりあは音量を上げる。
「彼女もやれば出来ることは今回の件でわかった。他の先生方の彼女への 見方も変わりそうだから……だから、善処しよう」
 なんとも頼りない返事に、まりあの薄桃色の頬が軽く膨らんだ。
「善処、ですか」
 顔にまだ不満だと書き、なおも詰め寄ろうとするまりあに、担任は唸った。
「わかった。進級できるようかけあおう。先生もやれるだけのことはやってみる」
 僕を信じろ。なっ。
「ありがとうございます」
 それまでの表情が嘘のように晴れやかな笑みを浮かべ、まりあは立ち上がって深々とお辞儀した。 その瞬間膝に触れた箱の感触に、思い出したように腕を持ち上げる。
「あの、そうだ。これ。お礼のしるしです。先生、甘いものお好きですか?」
 目前に差し出された白い箱を、まりあの勢いに押され、担任は思わずといった様子で受け取った。
「ありがとう」
 強張った顔が漂い始めたケーキの甘い匂いで緩んでいく。
「甘さ控えめですから、苦手な方でも食べられると思います」
 それでは失礼します。
 あっさりとしすぎる彼女の引き際に、しかし担任は疑問さえも抱いていない様子だった。
 逆に心底ほっとした表情を浮かべ、まりあを見送ってくれる。
 まりあは出入り口でもう一度丁寧に会釈し、職員室をあとにした。
 廊下を小走りに駆け抜け、扉が見えなくなったところでようやく歩調を緩める。胸に残った空気をす べて吐き出すと、握り締めたものを持ち上げ、広げる。姿を現したのは、フェイスタオルに包まれた 小型のテープレコーダー。
 しばらく無言で黒く光るそれに目を落とし、一呼吸置いて回しっぱなしだったテープの停止ボタン を押した。
 保険くらいには、なるわよね。
 まだ秒刻みの速さで心臓が鼓動を打っている。今さらながら額に汗が滲み出ていた。
 小さな機械を握り締める手が、まだ震えていた。
 何度も深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着くと、まりあはもう一度手の中のレコーダに目を落とす。
 本当はここまでやるつもりはなかった。思惑通り、親友が文句のつけようもないほど完璧に賭けに 勝利してくれていたら。
 掌にかいた汗を持っていたタオルで何度も拭う。
 おかしなところはなかっただろうか。
 先ほどの自分の演技を思い返してみた。
 芝居臭すぎたのではないかとは思う。が、相手に不信感を抱いた様子はなかったから、とりあえずは 成功だったのだろう。
「あとでそんな約束はしていないって言われてもね」
 言葉を引き出しても証拠に残さなければ、なんにもならない。大人が信用できないことは朱蘭のおか げで知っている。
 とんだ邪魔が入ったために、危うくこちらの賭けに負けるかとひやひやした。だがそれも無事に終わ り、どちらの賭けにも一応の決着はついたのだ。自分の勝ちという形で。
「朱蘭には三ヶ月の登校を約束させたし……」
 補講の準備も整いつつあった。協力してくれる教師への根回しも済ませてある。
 あとはどうやって受けさせるかよね。
 新たな課題に意識を向けつつ、まりあは胸に広がる安堵感を噛み締めた。
 今回の一件を親友に話す気は彼女にはまったくなかった。

   朱蘭が隠された真実を知ることになるのは、これより少しあとになる。


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