晴天の昼下がり。オープンカフェやお洒落な店が軒を連ねる通りの一角を、
人込みを縫うように走るひとつの影があった。 小さな風を巻き起こしながら走る影は、いまどき珍しい漆黒のロングヘアー。 一度もいじったことがないだろう見事な艶のある黒髪をなびかせ、人の間を走り抜ける。 年の頃は14,5歳。長袖のポロシャツに藍色を基調としたチェックの膝丈の巻きスカートをなびかせ、 紺色のハイソックスで隠れたほっそりとした足を忙しなく動かし、駆けて行く。 時折、後ろを気にするように振り返りながらも、少女は足を止めることはしない。 まだ幼さの残る顔に不釣合いな眼光鋭い瞳が辺りを見回す。 焦りを含む殺気だった眼差しは、通行人には凶器となるのだろう。彼らは彼女と目を合わせようとせず、 黙って道を開けていた。 彼女から遅れること、数メートル。 少女が振り返った先に、もみくちゃにされながら、人込みから頭ひとつ飛び出た童顔の青年が、必死の形相で 通行人を掻き分けていた。 「君! ちょっと君! 待ちなさい!」 叫ぶような大声に、近くにいた若い女性が耳を抑えて顔をしかめる。 何人かは迷惑そうに青年に非難の目を向けるが、彼はそれには気づかない。 乱暴に、とまではいかないが、「すいません。通してください」と断りを入れるも、 半ば強引に人込みをかきわけ、前を行く少女を追いかけていた。 待つわけねーだろ。 「ばっかじゃねぇの」 平日の昼間にもかかわらず通行人で溢れる通りを逆走しながら、追いかけられている少女は 吐き出すように呟いた。 振り返る先では、あいかわらず青年が距離を広げつつもしぶとくついて来ている。 「君! 待つんだ! 待ちなさい!」 本来は柔らかい感じの声質なのだろうが、今、青年の声は掠れ、耳障りな音を奏でている。 騒音公害と呼べなくもない声となっていた。 うるさいなぁ。 ちらりっとまた振り返って、少女─結城朱蘭─は舌打ちする。 真昼の追いかけっこはけっこう人目を引いていた。このままだと、正義感に溢れたお節介が現れ、 進行方向を塞いでしまう事態が起こらないとも限らない。 早々にこの場から離れるべきなのだが、大通りに出るまではまだ少し距離があった。 路地裏に逃げ込める場所があれば、とも思ったが、選んだ場所が悪かったのか、逃げ込める場所も 隠れやすそうな場所も見当たらない。 大通りに出ればなんとかなると朱蘭自身、まだあまり焦ってはいなかった。 下り坂な上、通行人が道を空けてくれるので走るには楽だったし、まだそれほど疲れていない。 けれど、集中し始めた周囲の視線に焦りが生まれる。 今、目立つのはなるべくなら避けたかった。 せっかく奴らをまいたのに、この騒ぎでまた見つかってしつこく追いまわされる目にはあいたくなかった。 今日はまったくついていない。 勘違いした誘拐犯に拉致されかかり、面白そうだと乗ってやったら、その計画は子どもの自分から みてもお粗末なもので、興ざめして早々に逃げ出した。たぶん、今ごろ彼らは怒り狂い、 血眼になって自分を捜しているところだろう。 誘拐犯から逃げ出すことはそれほど苦にもならなかった。が、その直後、 補導中の童顔の青年刑事にばったりと出くわしてしまったことが運の尽き。 よけいなものに付きまとわれるのは、あとあとのことを思うと面倒。 そう思い、補導員をまこうとしたのだが……。 なおも追いかけてくる青年の声に、うんざりした表情のまま、朱蘭はさらに歩調を速めた。 うるさく追って来る青年に辟易していた。 一見、人の良さそうなボンボン風(朱蘭にとってはトロそう、と同義)に思えた補導員は、 ところがどっこい存外しぶとかった。まるでスッポンのようである──実際に朱蘭自身、 スッポンを目にしたことはなかったけれど。 簡単に撒けるだろう、とたかをくくっていた朱蘭の予想は裏切られ、かれこれ2時間、 真昼のおいかけっこは場所を移動しつつ続けられていた。 厄介ごとが嫌いではない彼女でも、ここまで続けば嫌になる。 最初は付き合ってやるか、と軽いノリで逃げ回っていたのだが、とうに楽しむピークは過ぎ、 今はもう厭き厭きしていた。 いち抜けたーと逃げ出そうにも、必死になって追いかけて来る青年には通用しそうにない。 頬に張り付く髪を乱暴に振り払って、朱蘭は青年との距離を確認するつもりで、もう一度振り返った。 表通りまであと数歩のところに差しかかっている。 距離に安心したわけではなかったが、振り返った瞬間に、 動きに合わせて暴れる髪の一部が目にかかり、視界を遮った。 髪の毛の先が目に入り、突き刺さるような痛みに、足が止まりかける。 「うわっ」 が、視界が遮られている為に足元が見えず、何かにつまずいた。 バランスを崩し、身体が前のめりに倒れかかる。 「ちょっ、うわっ」 やばっ! 体勢を立て直そうとしたが、痛みに意識を集中しすぎて、対処が遅れた。 焦って手をばたつかせるも、宙をかくばかり。 とりあえず顔を守ろうと、反射的に両手を前に突き出した瞬間。 「おっと」 心地よい柔らかなテノールが耳元で聞こえたかと思うと、ふわりっと抱きとめられた。 同時に甘いようですっきりとした不思議な香りが漂う。 「大丈夫ですか?」 何度も瞬きを繰り返す。涙の滲む視界の向こうでは、サングラスをかけた男性が、こちらを見下ろしていた。 「あ、ありがとう」 まだ痛みのひかない目を必死に見開くようにして男性を見上げながら、朱蘭は支えられていた腕から 体重を引き取った。 「そこの方! その子、捕まえてください!」 間髪いれずに悲鳴に近い叫び声をあげて、遥か後方から青年が迫ってくる。 ちっ、しぶとい。 なかなか脱落してくれない青年を振り返って、朱蘭はこれ以上にないほどに顔をしかめる。 頬を流れた涙を手のひらで拭い、再び男へと顔を戻す。 丁寧に磨かれた革靴。が、視線を上にもっていくほどに朱蘭の目が点になる。 目の前の男性の格好は、改めて見ると深い青のジャケットに 黄色のネクタイというセンスを疑う出で立ちをしていた。 極めつけは中に着ているシャツ。派手な柄シャツはセンス云々という前に、男がどの筋の人間か一発で 判ってしまう類のものだった。まず普通の人間なら近づこうとも思わないだろう。 その証拠に通行人は誰も男に近づくことはおろか目を合わせようともしない。 しかし彼らは目を合わせないように注意を払いながらも、ちらちらと様子を伺うことを忘れてはいなかった。 いくつもの視線を受けながらも、男は気にする風もなく、人込みの向こうの青年と 目の前の少女を見比べていた。 薄い唇は笑みの形に引き上げられ、サングラスの向こうの眼差しは、静かに朱蘭の出方を待っているようにも見える。 格好もその身を包む雰囲気も怪しさ全開だったが、朱蘭は幸運の女神が寄越したこの男にかけてみることにした。 何よりも同じ匂いのする男を知っている。 直感は危険を感じてはいなかった。 自分の勘に絶対の自信を持つ朱蘭であるからこそ、今回ももちろん直感を信じた。 「おじさん! 車持ってる?」 ずいっと男の腕に自身の腕を絡ませて、朱蘭はサングラスを隔てた瞳に近づく。 「一応、持っていますが」 それが、なにか? 面白がるような口調に、朱蘭はにんまりと微笑む。 当たりだ。 直感が正しいことを朱蘭は知る。この男性は自分に付き合ってくれる。そのはずだ。 「それってどこにあんの?」 「向こうに」 男が指差した先はこの道の突き当たり。 彼の背中越しに背伸びする。 なるほどここから見える表通りに路上駐車された一台の乗用車がみえた。 「あれ、おじさんの?」 身を乗り出して尋ねた朱蘭に、男は頷く。 右手には車のキー。 「捕まえてくれ!」 後方から近づいてくる必死のだみ声を無視して、少女は腕を組んだまま男を車へと引っ張った。 「いいんですか?」 娘ほどに年の離れた少女に半ば引きずられるように誘われて、男は苦笑気味に尋ねてくる。 ああ、あれはほっといていいのいいの。 「変なのに付きまとわれてさ、困ってたんだ」 振り返りもせずに言い置いて、朱蘭は駐車禁止区域に停めてあった男の車に近づいた。 ん?? 近づいて、首をかしげる。 さきほどは街路樹に阻まれ、よく見えなかったが、この車は。 「これ、本当におじさんの?」 腕にぶら下がるような格好のまま、朱蘭は男を仰いだ。見上げる彼の口元が微妙にほころぶ。 「ええ」 どうかしましたか? 朱蘭が絶句したのには理由があった。目の前に停めてある車は、軽乗用車で、しかも若い女性が乗るような 類のものだったからである。この男には不釣合いだと思った。 「おじさんの趣味?」 疑わしげな眼差しを寄越す少女に、男はピントの外れた答えを返す。 「さぁ。深く考えたことはないもので」 ワイン色の可愛いクラッシックカーを呆然と見下ろす朱蘭とは対照的に、 男は少女の反応を楽しむように眺めている。 しかしそれもほんの数秒のこと。 「どいてください。お願いします。道を空けて下さい」 気の毒な青年の叫び声が思ったよりも近い距離で聴こえ、その声に男が反応した。 「おや、来ましたね」 陽だまりの中で日向ぼっこをしているようなのんびりとした口調に、我に帰った朱蘭が 動いた。 「カギ、借りるよ」 男の右の人差し指に絡まっていたキーを掠め取り、それを助手席側に差し込む。 「おじさんも早く乗って!」 背中のカバンを降ろし、後部座席に放り投げると、男に断りも入れず、 さっさとドアを開け、助手席に座った。 シートベルトを締め、窓を全開にし、朱蘭は身を乗り出して男を仰ぐ。 奪い取ったキーホルダー付きのカギを男に差し出して。 「何やってんの? 来ちゃうだろ。早く」 無礼ともいえる態度に、しかし男は唇に浮かぶ笑みを深くするのみ。 通りの向こうでまだ吼えている青年に目を向けて、少女は苛立たしげに、ドアを叩いた。 「おじさん! 早くっ!」 焦りの滲む声に「やれやれ」と肩をすくめ、男は差し出されたカギを受け取ると、運転席へと回り込む。 「ではどちらに行かれますか? お姫様」 柔らかなテノールが発するからかう口調に、焦りを帯びていた少女の瞳に笑みが戻った。 「ドライブ」 適当にあいつを撒いたら、降ろしてくれて構わないから。 それまでは付き合ってくれんだろ? 問いかけるような少女の眼差しに、男の、サングラスの奥の瞳が緩んだ。 強引に巻き込んだにしては素っ気無い、またこの上もなく傲慢な言葉だったが、 彼は怒るでもなくさらりと受け流す。 キーが刺し込まれ、流れるように動き出した車のバックミラー越しに、 童顔の青年の途方にくれた顔が映り、消えた。 |