突如現れた手が少女の左腕を捕らえる。 車道に飛び出そうとした体が、逆方向の力を受け、容赦なく歩道に引き上げられた。 「危ないじゃないか!」 厳しい声が頭上から降る。いきなり怒鳴りつけられ、 朱蘭は表情を険しくして左腕から伸びる人物の身体へと目を移した。 腕から胸へと目をむける。 長身はとても地味なスーツを着ていた。 目をさらに上へと向ける。 記憶に新しい童顔は、昨日真昼の鬼ごっこをした相手だった。 くせのある色素の薄い髪が、太陽光を受け、柔らかな光を散らしていた。 彼を包む穏やかな気質──生来のものなのだろう──が、威厳を表そうとする青年自身の行為を無にしていた。 声と同じく、精一杯厳しい目を作って少女を見下ろすが、全然怖くはない。 逆に可愛らしさを誘うものだった為、気が立っていたはずの朱蘭の精神が静まる。 チッ。 舌打ちが癖になりそうだ、と思いながら、朱蘭は青年を見上げた。 「危ないだろ。飛び出しちゃ」 まったく。 メッ!と幼い子どもにするように、目で少女を叱るが、そんな仕草はよけい彼を実年齢より幼く見せていた。 姿を認めた瞬間に殴りかかってやろうかと構えていた朱蘭の右手が、相手に振るわれることなく下げられる。 「メ! じゃなくてなぁ」 毒気を抜かれた少女は、自由な右手で乱暴に長い髪をかきむしった。 見事な黒髪が絡まりあう。 どうやって切り抜けようっと頭をかかえる朱蘭にお構いなしに、青年は勝手に話を進め、少女を引っ張った。 「君を放っておいたら事故が多発しそうだ。こっちにおいで」 厳しい表情を崩さず、青年はしっかりと少女の腕を捕まえたまま、連れ出そうとする。 「待って、待った!」 その前に片付けなきゃならないんだよ! 背後で大きくなり始めた足音に、朱蘭が振り返ると、青年も同じく背後に目を向けた。 2人の視線の先では、追いついた誘拐犯が肩を上下させて飛び出してくるところだった。 「あんたさ。警官なんだよな」 ずいっと青年に顔を寄せて朱蘭は確認を取るように尋ねた。 「え、あ。ああ」 少女の勢いに押され、反射的に頷いた青年はなぜか身構える。 腰の引けた青年に一瞬不安を覚えたものの、朱蘭は全身汗だくでこちらを睨む2人組を顎で示した。 「警官ならあいつら捕まえてよ」 あいつら、誘拐犯なんだよ。 だから、さ、と早口にまくし立てて、少女は青年を彼らの方へと押し出した。 「え? ゆう、かい、はん?」 耳に飛び込んできた言葉に、青年がおうむ返しに答える。 言葉を切ったのは、信じられなかったからなのかもしれない。 「そう、誘拐犯。昨日のサボりは誘拐されそうになって逃げてたんだよ」 逃げてたらあんたにぶつかったんだ。おかげですっげー迷惑した。無駄な体力使わされてさ。 実際誘拐されて、途中まで一緒に行動していたことはあえて伏せる。 ほらほら、と自分の左腕から青年の手を無理やり引き剥がし、懐疑的な眼差しをこちらに向ける男を睨んだ。 「なんだよ。疑うのか?」 明らかに戸惑っている青年に、駄目押しとばかりにたたみかけた。 「いたいけな子どもの言うことを信じないのかよ。おれの言うことが嘘だって言いたいのか?」 本当のことなのに……。 ふんぞりかえって「いたいけ」も何もないのだが。 その上、「いたいけ」という年齢は越えているのでは、と 青年が首を傾げたとしても彼に罪はない。 しかし、傷ついた、と顔に大きく書く少女に、青年は表情を改め、即座にわびた。 「ごめん。すまない」 誘拐犯なんだね? 真剣な表情になって確認する青年に、朱蘭は気をよくして頷く。 「わかればいい」 態度がでかい朱蘭に、左頬を引きつらせながら、青年は近づいた柄の悪い2人組に対峙した。 なにもんだ? 互いに目で問いかける男たちに顔を向け、青年は警戒態勢に入った。 しかし思い出したように少女を顧み、なにやらおかしな動きをみせはじめた彼女に釘をさす。 「君はそこにいなさい。あとで詳しく事情を訊くから」 「えー。帰っちゃダメなのかよ」 おれ、忙しいんだけど。 口を尖らせて抗議するが、青年は断固たる態度で、首を横に振った。 「君は証人なんだから事情を聴く必要があるんだよ」 逃げたら僕は彼らを見逃すし、君のことも捜し出して、毎日サボらないように登下校時に送り迎えをしてあげるよ。 童顔をこれ以上にないほど明るい笑みに変えて、青年は朱蘭に釘を刺した。 言われた内容に、朱蘭の顔が顰められる。 神沼だけでも辟易しているのに、その上、この説教好きそうなお節介な警官に付きまとわれるなど 考えるだけで寒気がする。 絶対に嫌だった。 青年の言葉がムリなことだとは思わなかった。 この制服にこの容姿だと面が割れるのにそう時間はかからない。 朱蘭は自分がこの地域ではけっこうな有名人だということを知っていた。 おとなしく青年の言葉に従っていた方がよさそうだった。 「わかった」 不承不承といった体で頷いて、朱蘭は青年が動きやすいように下がる。 「あんちゃん。怪我したくなかったらどきな」 「そのお嬢さんをこっちに渡しな」 青年の気弱そうな外見に優位を確信しているらしい。 2人組は威嚇するように歯を剥き出しにしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。 柄の悪さを前面に押し出し、男たちは青年が少女を一人残し青ざめて逃げ出すことを信じて疑わない様子だった。 完全になめられていると判って、青年の横顔が歪む。軽く唇を尖らせ、 「強く見えないのはわかっているけど」 傷つくなぁ。 独りごちる。 幼い子どものような仕草が、余計に彼を気弱な若者に見せる。 困ったような笑顔が、なぜか子犬のようでかわいい。 「痛い思いしたくなかったらどきな」 悪党が使うお約束の台詞を吐く痩せた男に、青年はしっかりと背中に少女を庇ったまま、首を横に振った。 「君たちは誘拐犯なんだろう?」 だったら、彼女を渡すわけにはいかないし、 犯罪を見過ごすわけにはいかない。 「なにを!?」 青年の拒絶に、2人組は殺気立って彼に飛びかかる。 2人一斉の攻撃をすんなりとかわし、青年はまた思い出したように、朱蘭を振り返った。 「君、昨日の男性は知り合いだったのか?」 「は?」 2人組みを牽制しながら、目は少女をみやり、青年は続ける。 「昨日の車の男性は知り合いなのか?」 繰り返され、朱蘭は彼が何を差して言っているのか、ようやく思い至った。 その間にも、誘拐犯の攻撃は続けれられている。 少しずつギャラリーも増え始めていた。 「全然知らない人」 そうだ。あんたに礼をいわなくちゃな。追いかけられなかったら彼に出会わなかったし。 いいこともあったか。 とあっけらかんと答える朱蘭の正面で、突如、「このバカ!」と思いもかけない言葉が飛んだ。 「なんだよ」 なんであんたにバカ呼ばわりされなきゃなんないんだよ。 むっとなって睨み上げると、誘拐犯をかわした青年刑事が、表情を険しくして近づいてくるところだった。 「知らない人について行ったらだめだろ」 基本中の基本だろう。今じゃ幼稚園児だって知っているぞ、そんなこと。 幼稚園児以下と言われ、朱蘭の目が剣呑な光を帯び始めた。 手を伸ばせば触れる距離に近付いた童顔の青年は、少女の瞳に怯まない。 「あんたに言われるすじあいなんてないね! 彼を他の奴らと一緒にすんじゃねぇよ」 そんな下衆野郎とは違うよ。 それにおれは妙なコトする奴は皆ぶっ殺す。 怒りをぶつけるが、さっきまでとは違い、青年は怯むことなく表情を一層険しくさせた。 「今までができたからっていって、これからもできるとは限らないんだぞ」 祖母のようなことを言う。 「うるさいな。あんたにどうこう言われるすじあいはないって言ってるだろ」 噛み付くと、青年は首を横に振った。 瞳に揺ぎない決意が見え隠れしている。何の決意か知らないけれど。 「君にはやっぱり署に来てもらうよ」 もう誘拐犯など眼中にないらしい。青年は朱蘭の右手を取ると、そのまま歩き出そうとする。 これは2人組に火に油を注ぐ結果となった。 何やら自分たちを置き去りにし、勝手に痴話げんかめいたことを始めた2人が、自分たちのことを無視し、 どこかに行こうとしている。 「ふざけるな!」 怒りに顔を赤黒く染め、鋭い目をした痩せた男が、青年刑事に拳を繰り出した。 先ほどまでとは違う怒りでスピードの増した攻撃が、青年刑事を襲う。 傍観者の立場を決めていた朱蘭は、これ幸いと逃げ出そうとしたが、もうひとりに阻まれる。 ちっと舌打ちをした脇では青年が少女を横目で監視しながら男に対峙していた 青年は男の攻撃をすれすれで交わすと、繰り出された拳を流し、手首をとった。 くるりっと姿勢を変え、男の懐に入り込み、鮮やかな背負い投げを決める。 その間、わずか数秒。 お見事! あまりの素早さと、柔道のお手本のような投げ技に、不機嫌だったはずの朱蘭の唇から口笛が飛び出す。 「やるじゃん、あんた。見かけによらず強いねぇ」 「見かけによらずはよけいだ。しりがる女」 最初のイメージとはまったく正反対の言葉は、青年の感情レベルが最低であることをしめしていた。 どうやらキレてくると言葉使いが変わるらしい。 「しりがる女ってなんだよ!」 何がなんだかわからないうちに悪口の言い合いに発展していた。 「しりがるだからしりがるって言っているんだ。あっちにもこっちにも簡単についていって」 「あんた、失礼だな。会ったばかりのくせしておれの何をみてそう言うんだよ」 この童顔刑事! おこちゃま! 低レベルの言い争いへ転げ落ちていく。 思わず大きくなった声に、残った太った男の顔が言葉の一つに反応し、青ざめる。 「けいさつ」 まずいっと顔に書き、相棒──どうやら兄貴分らしいのだが──を置いて脱兎の如く逃げ出そうとする。 「おこちゃま警官! 逃げるよ!」 いち早く気づいた朱蘭が声をあげると、青年は「うるさい。わかっている」と男の背中に怒りに任せ、タックルをかけた。 背中からの攻撃に、男は避けることも受け流すこともできない。 押されるまま倒され、盲人用誘導ブロックに顔面を強く打ち付けた。 気絶したのか、ぴくりとも動かない。 青年は、しまったっという顔をして慌てて肥満体形の男に近寄った。 「大丈夫か? すまん。大丈夫か?」 必死になって呼びかけ、仰向けにさせると、男は鼻から多量の血を流している。 どくどくと脈にあわせて流れる血の量は思った以上に多い。 「うわっ。すまん。すまん。わざとじゃないんだ」 ちょっと我を忘れただけなんだ。 どうしよう。どうしよう。 さっきまでのかっこよさはどこへ行ったのか、青年はすっかり気を動転させ、立って座ってを繰り返す。 「あーもう、みてらんねー。どけよ」 どうしようどうしようと繰り返す頼りない青年警官を脇にどかせ、朱蘭は男のそばに座った。 頭に来ていた。本当は彼らを見捨て、さっさとこの場から立ち去るつもりだったのだが。 青年の動揺が呼んだ野次馬がぐるりと彼らを囲む。 このギャラリーの多さだと逃げ出せない。第一、男の出血量も気になった。 自分はけっこうなお人よしかもしれない。 そんなことを思って、朱蘭はポケットからハンカチを取り出す。 頼りなくなった青年を放っておいて、男の身体に触れた。 男の上体を起こし、とりあえずは鼻にハンカチを詰め、その上を強めにつまんで止血した。 てきぱきと応急処置を施す少女の傍で、青年は青ざめた顔をしたまま、立ち尽くしている。 妙なことになったと腕の中の男と、顔色の悪い青年を交互に見やって、朱蘭は眉を寄せた。 青年の顔色が悪い。瞬きする間に彼の顔は青から白へと変化していく。すでに色がない。 倒れないだろうな……。 ちらりっとよぎった考えが、突如、現実のものとなった。 青年の身体がふらりっと揺れたかと思うと、朱蘭に向けて倒れてくる。 まじかよ。 「げっ」 倒れ込んできた青年を何とか空いていた右腕で支え、朱蘭は叫ぶ。 なかばやけ気味なハスキーヴォイスが辺りに響き渡った。 「誰でもいいから、救急車と警察呼んでくれ!」 果たして、数分ののち、少女は2つの重い荷物から解放されることになったのだが。 こんな奴に補導されるなんて、一生の不覚なんじゃないだろうか。 重要参考人として気絶した青年とともにパトカーへと乗せられながら、 朱蘭は頭痛を訴え始める頭を抱え込んだ。 |