「ばあちゃん。行って来るよー」
 ひんやりとした朝の空気が耳障りな金属音に引き裂かれる。
 錆びかかった鉄の門を押し開いて、朱蘭は家の奥へと声を投げた。
 今日もすっきりとした秋晴れが広がっている。
 澄んだ青い空に一本、定規でひいたような綺麗な直線が伸びていた。雲の白さが眩しい。
 大きく深呼吸し、朝の新鮮な空気を吸い込む。
 そのまま歩き出そうとした彼女の背中に、焦った厚みのある女性の声が飛んだ。
「朱蘭。お待ち!」
 床を叩くようなスリッパの音が激しく聞こえたかと思うと、間を置かず年配の女性が姿を現した。
 白髪が混じる髪を後頭部の高い位置できっちりと留め、薄い紅を刷いたふくよかな女性。
「まだ神沼さんが来ていないじゃないの。時間はあるんだから待ちなさい」
 背筋をピンと伸ばし、若草色の割ぽう着の裾で手を拭きながら、女性は顔を顰めて少女を引きとめた。
「えー、嫌だよ。また説教されんの目に見えてるし」
 朝くらい気持ち良くさせてよ。
 唇を尖らせて抗議する孫に、しかし祖母は眼差しを一層険しくさせた。
「昨日のことを忘れたわけじゃないだろうね」
 また迷惑をかける気かい?
「大丈夫だよ。おれは無事だったわけだし。それに昨日の今日だよ。まさかまた同じことにはならないよ」
「何を根拠にそう言うんだい、あんたは。昨日は無事でも今度はどうなるか判らないじゃないか」
 相手は諦めていないかもしれないよ。
 あまりにも楽観的な孫に、少しきつい口調でしかりつける。
 が、朱蘭はそれで堪えるような性格ではない。
 肩を竦めて続く祖母の小言をやり過ごすと、にっこりと笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ」
 そのまま駆け出していく。
「こら! 朱蘭」
 怒気を孕んだ声に耳を貸すことなく、元気よく「いってきま〜す」と手を振ると、本格的に駆けだした。
 祖母には悪いが、神沼を待つ気にはなれなかった。彼の小言を聞くつもりもない。
 はぁーと盛大な溜息を吐き出す祖母を背中に感じながら、朱蘭は通学路を行く。
 10メートルほど離れたところで様子を伺うため振り返ると、祖母は諦めて家の中へと戻るところだった。
 消えていく背中を見送って、再びポニーテールを乱暴に左右に揺すって走る。
 しばらく行くと集団登校をする学生の姿がみえた。 固まりはいくつかのグループに分かれており、それぞれに距離をおいて進んでいる。
 2,3人のグループもあれば、10人近い集団もあった。
 朱蘭は歩調を落とし、その中のひとつの後ろにつく。
 昨夜のドラマや、好きな人の話題で盛り上がっている集団の後ろを歩きながらも、 朱蘭の目は周囲に向けられていた。
 自転車の生徒たちが数人、集団を追い越していく。
 乗用車がようやくすれ違えるていどの道には、いつも通りの光景が広がっていた。
 会社へ急ぐサラリーマンの姿や通学途中の児童、生徒の背中が前を行く。
 怪しい影などどこにも見当たらない。
「お祖母ちゃん、心配しすぎだって」
 小さく笑い、角を曲がって少し大きな通りへの道を抜けようとしたところで……。
「まじかよ」
 舌打ちとともに言葉を吐き出した。
 合流付近に、昨日の男たちの姿があったのだ。
 冴えない顔をしたおでこの広い肥満体形の男と、鋭い目付きの背の高い男。二人連れは、 怯えたように身体を硬くしながらすれ違う学生の顔を、確かめるように一人一人覗きこんでいる。
 自分を捜しているのは一目瞭然だった。
「まじかよ」
 苦虫を噛み潰した表情を浮かべ、朱蘭はじりじりと後退りはじめる。
 一度だけなら相手もできるが、二度はごめんだった。
 彼らの自尊心をいたく傷つけた自覚のある朱蘭である。
 かなり根に持つタイプだと連中の言動から容易に想像できたのだが……。
 やっぱ怒らせたのはまずかったか。
 わかってはいたが、同時に彼らの無計画さと幼稚さに苛立ちを覚えたのも事実だった。
 むかむかが理性を超えてしまったのだからしょうがない。今さら後悔しても始まらない、が……。
 あんなこと、しなきゃ良かった。
 軽い後悔の念を覚える朱蘭の視線の向こうでは、男たちが血走った目を周囲に走らせていた。
 ぎらつく2対の瞳が、半ば八つ当たり気味に、通過する学生たちを睨みつけている。
 謝ったとして許してくれるような雰囲気ではない。
 厄介事は大歓迎の朱蘭ではあるが、度を越す類のものは苦手だった。
 なぜか。
 疲れるのだ。激しく。いくら刺激大好きといっても、ものには限度というものがある。  彼女にだって限界は存在する。
 逃げるが勝ちだった。
 幸いにも人影が障害物となり、彼らの視界から彼女の姿を上手く隠してくれている。 通勤、通学ラッシュに重なっていたことが朱蘭にとって幸運だった。
 楽に逃げられる。
 とりあえず、逃げるが勝ちっと動き出そうとした矢先。
 運が悪いことに、男のひとりと目があった。
 チッ。
 野生的素早さで踵を返す。
「兄貴! あのガキだ!!」
 2人組は集団を蹴散らし、遅れて、消えた背中を追いかける。
 だみ声を背中で聞きながら、朱蘭は走った。
 家に戻ることもちらりと考えたが、止めた。
 帰れば「それみたことか」と祖母に説教をされるのが目に見えていた。運が悪ければその上、神沼の 説教もダブルで食らう羽目になりかねない。
 家路、その他の通学路、どちらも選択肢から切り捨て、別ルートを走る。
 向かうは入り組んだ住宅街の迷路。
 追いすがる男たちを振り切るため、右に左に角を曲がる。
 めちゃくちゃに進みすぎて方向感覚を失ったと焦り始めた頃、唐突に視界が開けた。
 十数度目に曲がった先の景色は、交通量の多い大通りのものだった。
 見慣れた景色にも見知らぬ景色にも見える。
 乱れた呼吸を落ち着けるため立ち止まり、周囲に目を走らせた。
 何度か瞬きを繰り返し、今までの道順と、目の前の景色を記憶に照らし合わせる。
 思い当たったのは、家とは逆方向の風景だった。
 現在地を確認し、気持ちを落ち着けると、少女は額の汗を拭い、再び歩き出す。
 速度を上げて通過する車の動きを目で追って、車道に一歩踏み出した。
 とりあえず、向こう側に渡った方が追っ手をまけるかもしれない。
 しかしその考えを少女は実行することができなかった。
 切れ目を狙って道路を横断しようと一歩踏み出した朱蘭を、 突然現れた人物が邪魔をしたのである。



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