彼女の指し示すままに、鳴神は海沿いまで車を走らせる。
 少女はダブルのアイスを実に美味しそうに食べながら、時折思い出したようにナビをつとめた。
 くるくると表情を変える瞳が、楽しげな光を宿す。
 街が遠ざかり、船の汽笛が聴こえ始めると、少女の瞳がますます輝きを増した。
 1時間半ほどの道のりを経て目的地に辿り着いた頃には、太陽が西の空を赤く染め始めていた。
 目的地で食べようと考えていたらしいアイスは、すでに少女の胃袋の中に収まってしまっている。
 ついでに男の分も半分以上は彼女の胃袋に消えてしまっていた。
 ふたつのアイスを平らげた少女は、あごにアイスの一部をつけたまま、待ち遠しそうに 窓から身を乗り出している。
 適当な場所に車を停めると、エンジンを切るのを待たずに、ドアを蹴破りそうな勢いで車外へと飛び出していった。
 鳴神は苦笑を崩さず、少女の後ろ姿を見送る。
 長い髪を風にさらわれるままに流し、気持ち良さそうに大きく伸びをするその背中。
 何度か深呼吸を繰り返して、潮の香りを楽しんでいるらしい。
 少女が開け放ったままのドアから流れてくる潮の香りに、表情を緩め、鳴神は車のエンジンを切った。
 聴こえてくる潮騒に耳を傾ける。
 聴こえてくるのは、波の音と、明るい子どもの笑い声。  公園の一角であるから、散歩を楽しむ家族連れがいるのだろう。
 日常的な音に、海の音が重なる。
 時が止まったような、静かな時間だった。
 こんな時間を持つのも久しぶりだったと、軽く目を閉じようとしたその時、
「おじさん、何してんの?」
 助手席の開け放たれたままのドアから、首を傾げ、こちらを見つめる少女の姿があった。
 なかなか降りてこない彼に焦れたらしい。
「具合、悪い?」
 上半身を傾ける少女の動きに合わせ、背後の黒髪が暮れかかる日の光に反射し、揺れる。
 眉根を寄せ、初めて気遣わしげな目をした少女に、彼は唯一顕わになっている唇を笑みの形に 引き上げた。
「いえ。お1人では不安ですか?」
 からかうような男の口調に、少女は途端に唇を尖らせる。
「あのなぁ。そんなガキじゃないって。でもひとりよりふたりが楽しいだろ?」
 あんたもそう思うだろう? と勝手に決め付けて、少女は車内に戻ると鳴神の腕を力任せに引っ張った。
「おれに付き合ってくれるんだろ? なら、おれの気の済むまでつきあってよ」
 どこまでも自分勝手な物言いは、傲慢なものなのだが、しかしなぜか彼女の口から発せられると嫌な 印象は受けない。逆らい難い雰囲気を持って、彼に迫ってくる。
 な? 早く早く!
 助手席から降り、運転席に回ると、少女はドアを開けた。
 鳴神は苦笑を浮かべ、促されるままキーを片手に車を降りる。
 心地よい風が潮の香りを運び、伸びかけた男の髪を揺らした。
 ほらほら、と手招きし、先を行く少女の後を追いながら、鳴神は目を細めて周囲を眺めやる。
 キャキャと騒ぐ声に導かれるように浜辺へと降りて行くと、親子連れがかもめと戯れていた。
 波打ち際では、打ち寄せる波に足を濡らすカップルや愛犬と散歩をする若者の姿があった。
 まばらながらも人の姿はあり、思ったほどその数は少なくない。
 都会の空を覆うスモッグの向こうにある巨大なビル群が景色としては余計だったが、まあまあの眺めである。
 視線を少女に戻すと、彼女は流木を利用した不恰好なベンチに腰を下ろすところだった。
 少女は澄んだ眼差しを海へと向ける。
 柔らかな雰囲気を放ちながらも、どこか奥の部分で張り詰めていた緊張と警戒の糸が緩んだ瞬間だった。
 彼女を包む空気が穏やかなものへと変わる。
 朱色に染まる周囲の景色に溶けた横顔が、ふと鳴神を見上げた。
「おじさん、ここ。ここ」
 手招きして自分の横を指差す少女の隣に、彼は黙って腰を降ろした。
 男が座ったのを確認し、少女は再び海へと目を戻す。
 しばらく少女の横顔と景色を眺めていた男は、おもむろに口を開いた。
「海が好きなんですか?」
 彼の問いかけに、彼女の頭が軽く縦に揺れた。
「めったに来ないけどね」
 波打ち際でかもめと戯れる親子連れを見る眼差しは優しい。
「どうしてです?」
「家庭の事情ってもんがさ、あるわけよ」
 肩をすくめて答えた少女の顔に、少し哀しげな笑みが浮かんでいた。
 何気ない問いかけだったはずだが、少女には苦い記憶があるらしい。
 浮かんだ表情は正直に彼女の心を表していた。
 それよりさ。
「おじさんってさ。なんで、おれに付き合ってくれてんの?」
 気まずい空気を変えようとしてか、唐突に少女は話題を変える。
 風に乱れる髪を耳の後ろで押さえつけ、少女は鳴神に目を戻す。
「さっきからさ、気になってんだ。考えると変だよね。普通さ、ここまで付き合う人なんていないっしょ」
 眉間にしわをつくり、首を傾げ、少女は理解不能と顔に書く。
「貴女が誘ったんですよ」
 穏やかな笑みを作っての彼の科白に、彼女は即座に首を横に振った。
「おれが強引だったのは認めるけどさ、おじさんなら力づくで誘われたっ て嫌なら絶対断るだろうし、そうなったらてこでも動かないよな」
 付き合う気がなかったら、おれを騙してでもあの場であの男に引き渡していただろうし。
 やけにはっきりと断言する少女に、男の右眉尻が軽く上がった。
「そうみえますか?」
「実際、そうだろ? 違う?」
 そう言う少女の洞察力に舌を巻く。
 あれだけの時間でよく見抜けるものだ。
 これはいい拾い物をした。
 内心ほくそ笑む鳴神とは反対に、いまだ疑問の海に漂っている少女は眉間のしわを深くする。
「人がいいっていうのとちょっと違うしなぁ。そんな人には見えないし……」
 ずいぶんな言われようである。が、鳴神は可笑しそうに薄い唇の端をあげるだけで、何も言わない。
「下心が妥当な線?? でも援コーするほど女の人に飢えてなさそうだし……」
 放っておくとあらぬ方向へと暴走しそうな少女の思考を、適当なところで中断させる。
「下心は、ありましたね」
 のんびりと発するテノールが、意外なことを口にする。
 瞬間、少女の瞳が警戒を強めた。
 が、鳴神は気にしない。
「ちょうど退屈していたところだったので、いい退屈しのぎになりました」
 人と約束をしていましてね。時間まではまだだいぶありましたので、暇を持て余していたんですよ。
「退屈しのぎ??」
 少女の眼差しが険しくなる。
「ええ、貴女が飛び込んで来てくれて助かりました」
 のほほんとした口調で、彼は続ける。しかし柔らかなテノールは彼女から怒る気力を殺ぎ落としたらしい。 まだ懐疑的な眼差しを浮かべてはいるものの、少女はおとなしく頷いた。
 唇を尖らせたままだったのだけれど。
「援コーの方がよかったんですか?」
「おれはそんなに安くねぇよ」
 からかうような鳴神の言葉を、即座に切り捨てる。
 それならいいじゃないですか。
 まだ釈然としない少女に笑みを向けると、彼女はむむむっと唸り、低い声で言葉を搾り出した。
「そんなのが理由でいいのか?」
 案外、人がいいんだな。
「他の理由が良かったんですか?」
「う〜ん……どうだろう?? ま、いっか」
 生来あまり深く長く考える性質ではないらしい。 少女は一瞬だけ悩んだようだが、すぐに中断すると数度こめかみを揉み、立ち上がった。
「さてと。日が沈むし、もう帰る?」
 そろそろ寒くなってきたしさ。
 軽く身震いして少女は鳴神を見下ろす。
 スカートのポケットに両手を突っ込む少女を見上げ、鳴神も立ち上がった。
 確かに太陽は海の向こうにその姿の3分の2を隠していた。
 日中よりも温度の下がった風が海から上がってくる。
 海を背に少女を道路へと促し、鳴神は辺りを見回した。
 いつの間にか散歩途中の犬を連れた若者も、カップルもいない。 子どもを連れた家族連れが帰路に向かうところだった。
 遠く光を散らす高層ビル群にもちらほらと灯りが点き始めている。
「そうですね、帰ってもよろしいですが。姫さまのお時間がよろしければ、この後、お食事など、いかがですか?」
「食事?? おれはここでいいよ。やつらも諦めただろうし。おじさんも待ち合わせなんだろ?」
 そこら辺の適当なとこでおれを降ろしてくれればいいからさ。
 小さな坂を登っていた背が、鳴神を顧みる。
 これ以上は付き合ってくれなくっていいよっと紡がれる言葉に、男は左腕の袖を捲った。 時計の針を確認して、困ったと髪をかきあげる。
「まだずいぶん時間がありまして」
 どうしましょうか。
 独り言のような呟き。サングラスの奥の目と少女の目が合う。
 にっと唇の両端を引き上げる鳴神を見下ろし、しばらく思案した後に少女は破顔する。
「了解。おれのわがままにつきあってくれたんだもんな。今度はおれが付き合う」
 いいもん食わしてくれるんだろ?
 声を弾ませて車へと駆けていく少女の後を追い、鳴神はもちろんと口の中で呟いた。


「いいもんってこれかよ」
 期待して損したー。
 あーあーと店の主人に失礼な台詞を吐き出す少女に、隣に並んでラーメンを啜っていた鳴神はにっこり笑顔で
「なかなかいけるでしょう」
 と飄々とした答えを返す。
 寒空のとある街中の一角。
 冬の気配が近づいた道路の隅で、屋台のラーメンを啜る男女の姿があった。
「ここのラーメンは美味いって評判なんですよ。ね、ご主人」
「旦那にはいつもご贔屓にしてもらって。おかげで大繁盛ですよ」
 がははと豪快に笑いながら、店主は頷く。
 行列ができて1時間待ちということもあるのだとは主人の言葉だが。
「確かに美味いけどさ」
 このつゆ、確かにダシがきいていて美味しいんだけど、と、ぼやく少女に、 褒められて照れた主人が冷を片手に
「いや〜お嬢ちゃん、味が判るねぇ。うれしいよ。これも付けよう」
 と彼女のどんぶりに数枚チャーシューを追加した。
「いや、あの……だからさ」
 主人のおまけ攻撃に、少女は困惑気味に箸を進める。
 確かに今まで食べた中では1,2を争うラーメンではある。 こってり目の見た目とは違い、味は意外にもさっぱりとしていた。文句なく美味しい。 自分好みの味ではある。だが……。
「もっと豪華なの……期待していたんだけど……な」
 恨めしげに隣を見やると、美味しそうに麺を啜る男の瞳と(サングラス越しに)ぶつかった。
「美味しくないですか?」
「美味しいよ」
「温まるでしょう」
 小さく頷く少女はまぁいいか、と独りごち、麺の制覇へと意識を向けることにしたらしい。
 隣でその姿を見やり、次いで店の主人をみやって、鳴神はスープを一気に飲み干した。



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