「ここでいいよ」 すっかり日も暮れ、流れる街のネオンが目に眩しい。 すっかり温まった身体を座席に埋めていた少女が急に身を乗り出し、男に合図した。 右にウィンカーを出し、男が入った場所は規模の大きな総合病院。その外来駐車場の一角に、車を停める。 すでに診療時間が終了しているため、人の姿はあまりない。 「本当にいいんですか?」 家まで送らなくて。 着いたと同時に車外へ降りた朱蘭の背中に声がかけられる。 冬の匂いを帯び始めた風を頬に受け、少女は男を振り返った。 スカートのポケットに両手をつっこみ、中途半端にリュックを背負った格好で、朱蘭は軽く数度頷く。 「平気。この時間ならまだ母さんいるだろうし……」 おじさんも約束あるんだろう? もう時間じゃないの? 気遣う台詞が口をついて出るのは、思いの外長く男を引き止めた自覚があるせいだった。 だが、助手席側まで身を乗り出した男は、ちらりと車内の時計に目を走らせただけで急ぐ様子はみせなかった。 約束って嘘なのかな。 思ったが、どうもそうでもないような気もした。 「まだ余裕はあります」 それよりも、本当にいいんですか? 「大丈夫だって」 これ以上甘えるわけに、いかないしさ。 かけられる柔らかいテノールに、朱蘭は別れの挨拶代わりに手を振ろうとして、ふと思いとどまった。 「どうか、しましたか?」 動きが止まった少女を、軽く首を傾げて男は見上げる。 その姿をみて、朱蘭の顔に悪巧みを企んだ小さな子どものような笑みが広がった。 「おじさん!」 「はい?」 駆け寄り、再び助手席のドアを開ける朱蘭に、男は運転席へと身体をずらす。 「言い忘れてた。ちょっといい?」 「どうぞ」 風が遮断されるだけで暖かく感じる、車内の助手席に飛び乗る彼女に、気圧されたように彼は軽く頷いただけだった。 「あのさ」 男の顔を見上げ、にんまりと笑みを浮かべると、朱蘭は男の顔を覆うサングラスを素早く奪い取った。 目鼻立ちのはっきりとした顔。太い眉の下にある瞳は鋭く深い色を宿している。 突然の行為に、しかし動じることなく男は少女を見つめ返した。 「今日は、ありがとね」 しっかり目線を男に合わせた朱蘭は、彼の薄い唇に自分のそれを重ね合わせた。 一瞬、潮の香りが鼻をかすめ、消えた。 軽く触れ合うだけのキス。ひんやりとした唇の感触。 驚いたように目を見開く男が口を開くより前に、朱蘭は助手席から飛び降り、ドアを閉めた。 「今日のお礼。おじさん、おれみたいなの相手って嫌かもしれないけど、それ、おれのファーストキスだから、受け取って」 ありがとう。楽しかった。 奪ったサングラスを右手に持って、振る。 「光栄です」 顕わになった彫りの深い顔立ちを、男は笑みに変える。 男の顔に浮かんだ笑みに、朱蘭はほっと胸を撫で下ろす。 少女はもう一度男に手を振ると、夜間用出入り口へと小走りで向かった。 遠ざかる少女の背中を見送る鳴神の喉からくつくつと笑みが洩れ出る。 まいった。 肘をハンドルにかけ、左手で口元を覆う。 予想のつかないことをする人物だ。 電光石火の少女の行動を思い起こし、鳴神は笑い続ける。 バックミラー越しに映る眼差しが、輝きを増す。 久しぶりに楽しめた。思わぬ収穫だった。 暇つぶしに、と思ったのだが……。 「光栄ですよ」 少女に返した言葉を繰り返す。 ただひとつ残念なのは、名前を聞かなかったことだった。 『名前を知らない方が、ミステリアスだろ?』と最後まで名前を伏せ、彼の名も聞くことをしなかった。 まぁ、どうにかなるでしょう。 手がかりはある。藍色の制服。それに……。 少女の背中を追いかけた目が、ちょうど建物から現れ、ドアの手前でぶつかる人影を捉えた。 髪を後ろで束ね、背筋をピンと伸ばし、少女に話しかける美女。 言葉を交わすその様子がどこか親しげに見えた。 ほんの数分話した後、手を振ってお互い別れ、少女は建物の中に消え、出てきた人物は駐車場に降りてくる。 外灯の下に現れた美女に、男は控えめにクラクションを鳴らした。 束ねた髪を解きながら美女は小走りに車へと近づいてくる。 鳴神はおもむろに運転席のドアを開けると、車から降りた。 ヒールの規則正しい音が、車の前で停まり、近づく彼を待つ。 軽いソバージュかかったふんわりとした髪が風に舞い、微かな薬品の香りが彼の鼻を掠める。 「彼女は知り合い?」 少女が消えたドアを顎でしめす鳴神に、ええっと頷き、美女は彼に答えを寄越した。 「結城主任の娘さんよ。朱蘭ちゃんっていうの。よく来るのよ」 それがどうか、した? 「いや、どうもしないさ」 お帰り。 緩やかに両頬が引き上げられ、笑みを刻む。先ほどの少女の時とは違う甘い笑み。 囁くように紡ぎだされる鳴神の言葉に、沙耶が包むような眼差しを返した。 「ありがとう」 しっとりとした落ち着いたアルトが艶めいた唇から紡ぎだされる。 細い彼女のウエストに腕を回し抱き寄せ、鳴神は柔らかな唇に触れる。 軽く交わされた口付け。 「源也さん、上機嫌ね。何かあった?」 「そうみえますか?」 「ええ」 甘い吐息の合間に重ねられた唇を先に離して、沙耶は鳴神を見つめる。 「おかげで楽しい時を過ごせました。車、ありがとうございます」 彼の胸に添えられた沙耶の手に車のキーを返し、鳴神はさあっと彼女を促した。 「冷えますよ。どうぞ」 「ありがと」 エスコートを受け車内に消えた沙耶の、運転席のドアを閉めると、彼は助手席へと回り込んだ。 車に乗り込む前にもう一度背後の建物を見上げる。 結城……朱蘭……。 彼を乗せたクラシックカーは緩やかに加速し、ネオンの向こうへと消えていった。 |