お墓について
沖縄の墓は不思議な形をしています。
本土の墓とは違って、曲線を描く形をしています。
外形が亀甲状になっているため、「きっこうばか」とも読みます。ちなみに私は「かめこうばか」
と読んでいます。どちらもいわれる言い方です。方言では「カーミナクーバカ」というらしいです。
作られ方には二通りあります。
@丘を掘り込んで築造する様式
伝統的な(1)堀込墓を踏襲した形。
A丘を削りとって石を巻いて天井を作り、土砂をかぶせて造る形式。
城門や石橋のアーチの技法を採り入れた手法。
沖縄の亀甲墓は華南系墓式の影響を受けているといわれています。最も古いものは1685年頃に築造
された那覇市首里の伊江御殿(いえうどぅん)家の墓とのこと。
首里王府時代は庶民の築造が禁じられていた為に、一般に広く普及したのは、明治中期から大正・
昭和初期にかけて。
亀甲墓は母体(女性の子宮)を象ったものと言われています。
女の人から生まれて、死んだ後、またその胎内に戻る
(帰元思想というそうです)とされています。墓の各部の名称も人体の各部の名称を採用している
ものが少なくないそうです。
亀甲墓の分布。
南──与那国島(よなぐにじま)
北──伊平屋島(いへやじま)
※与論島(よろんとう・鹿児島県)以北には亀甲墓はみられない。
南限は台湾やタイ・ベトナム方面(華南系の人々が住んでいる為)
この亀甲墓の他にも墓の形がありまして、こちらは破風墓(はふばか・ハフーバカ)
と呼ばれる形です。亀甲墓はこの破風墓より後代にあらわれたようです。
屋根の形が破風型をしているから、そう呼ばれているようですが、どういう形なのか、すいません、
説明できません。(泣)
屋形墓(やかたばか・ヤーグァバカ)──現在の沖縄の多くの墓の形──と外観
は同じですが、異なる点は岩壁を背にして堀削した洞穴を利用しているところにあります。
(屋形墓は平地に築造された家形破風墓)横に長い形となっています。
沖縄に初めて現れた破風墓は1501年に創建された(2)
第2尚氏王統歴代の陵、(3)
玉陵。(たまうどぅん)
もともと王家の専用する形式だったものが、1879年の廃藩置県後に解禁。
庶民にも普及するようになったようです。
このような墓ですが、沖縄戦ではその大きさにより防空壕の代わりに使用しました。
墓の中に隠れた住民とその入り口で投降を呼びかける米軍。応じない場合は、中に向かって
火炎放射器が放たれ、爆弾が落とされました。
そんな歴史を持つ沖縄の墓です。
急ぎ足になりましたが、小説「青い空の下で──祈り──」の
補足として書いてみました。
また、お墓が個々に作られるようになったのは明治末から大正時代くらいの頃からでして、
それ以前は村墓でした。村民共同で利用するお墓の形態だったようです。現在では村墓は存在していても
使われることなく、拝み墓とされているところが多いそうです。
村墓の4つの形態。
@2基存在し、一基はシルヒラシ(死体を棺に入れたまま朽ちさせるところ)もう一基は
洗骨後の遺骨を安置する墓とする。
Aシルヒラシのための村墓。洗骨された遺骨は家族墓、(4)
摸合墓、門中墓に納められる。
B洗骨された遺骨を合葬するための村墓。シルヒラシの墓・棺を洗骨するまで放置する崖葬地
が別にある。
C墓室内にシルヒラシの区画と納骨壇が設けられている村墓。
他には、
岩壁を背後に石やサンゴの化石などを積み上げて囲いを造っただけの摸合墓や共同墓などがあったりしました。
ハンセン氏病(ライ病)患者に対しては墓はなく、村のはずれにある穴や崖の近くの穴などに
放り込む、という手段をとったりもしていました。
最後に。
亀甲墓の写真についてはこちらのサイトさんの
風俗・風習の沖縄の墓にあります。上から2番目が屋形墓。
(1)砂礫岩層や粘板岩層に横穴をうがち、墓の顔面や袖を装飾を凝らしている形式の墓のこと。
きわめて古い時代から採用されている形式。砂岩層への堀込墓はほぼ全島に分布。特徴としては
材料がほとんど要らず、入り口のふただけに石を用いていること。
うちの母方の実家の墓はこの形です。
装飾は全然なく、いたってシンプル。入り口のふたに石を用いているだけです。
(2)第2尚氏王統とは、1469年、金丸という人物が、尚徳(しょうとく・第1尚氏王統)にかわって王位に
つき、名を尚円(しょうえん)と改めてひらいた王統のこと。1879年の最後の王尚泰(しょうたい)まで
の19代、409年続きました。
まぁ、平たく言えば、クーデター起こして興した王朝ってことです。
血を受け継いでいないのに、尚氏を名乗っていたのは、中国に対して、「奪ったんじゃないよー。
受け継いだんだよーー」と言い訳するための手段。
下克上は道に反していたため、これを知られたら朝貢貿易を打ち切られる可能性があったために
このような形をとりました。
(3)首里城のすぐ隣にあり、県立首里高校のまん前にあります、国指定重要文化財&史跡&世界遺産。
第2王統第3代王 尚真(しょうしん)によって築かれた第2尚氏王統の陵墓。破風墓を3基連続した
形式。東室は中央前室と両脇室、奥の2個室から成る。中国の帝陵にならった造り。中室は洗骨までの
遺体を安置するシルヒラシの役割を果たす部屋。独立した一室から成る。西室は王子・王女の遺骨を
安置する部屋。最も小規模な構造となっている。
(4)摸合というのは本土で言うところの頼母子講・無尽講のことで、相互扶助的な金融のしくみの
ことをいいます。球陽にも出てくるほど古い時代からあります。現在でもあります。現在の摸合は
摸合としてではなく、集まるための口実に使われているような気もしないでもない。「摸合だから」
といえば、その場から抜けることも家から抜けることもできるし……。
金銭のための摸合の他、労働力を対象にした(ユイマールという)人足摸合などもあります。
摸合墓とは組仲間や知人、友人などの気のあった仲間同士で経費を出し合って造った墓のこと。
参考文献:沖縄大百科事典
戻る