サバイバー
「つまんねぇ」
呟いた瞬間、煙草の臭いが鼻をかすめた。
顔を顰め、朱蘭は漂ってくるはずのない煙草の煙を払うように左手を左右に振った。
空いた右手に見事なまでの腰までの黒髪のひと房を絡ませ、5階分下の町並みを見下ろす。
雨足を強めた天気に、一斉に咲く傘の花。
早足で行き交う花の乱舞を見下ろし、朱蘭は髪から指を外し、八つ当たり気味に窓ガラスに拳を当てた。
ゴンッ。
けっこうな大音量で響き渡った音に、ビリヤードに興じていたグループが何事かと振り返る。
「お客様。乱暴は止めてください」
近付く気配。一拍置いて少女の頭上から柔らかいバリトンボイスが降って来た。
適度にドスの効いた声には、苦笑の混じった、悪戯好きのやんちゃな子どもをしかりつける親の
心情を垣間見るような響きが含まれていた。
「ああ? なんか言ったか? ヤス」
現れた男を不機嫌丸出しの顔で振り返った少女の瞳は、大の男が飲み込まれるほどの迫力に充ちている。
が、ヤスと呼ばれた男は怯むことなく、形の良いスキンヘッドを軽く撫で、強面の顔に笑みを浮かべた。
右手で銀のお盆を胸に抱いている。
笑うと右耳から唇の右端までに渡る深い傷跡が引きつった。
お代わりのアイスティーを華奢なテーブルの上に優しく置き、ヤスは少女の向かい側に腰を下ろす。
「何をむくれているのかあっしは知りませんが、店に当たるのだけは勘弁してくだせぇって言ってるんです」
「だってよ。つまんねぇんだ」
紅い炎が揺れる眼差しを微かに和らげ、朱蘭は新しいグラスへと手を伸ばした。
拳を突き出しても、ストローの口に噛み付いても気分が収まらないのか、今度はテーブルの足を蹴りつける。
ガクンガクン。
「三代目」
揺れるテーブルを即座に立て直し、ヤスは少女を叱りつける。
「この店だって大事な組の収入源なんです。営業妨害されるのでしたらお帰りいただきますよ。お客様」
語尾を強めて少女をしかりつけ、ヤスは彼女が蹴りつけたテーブルを無骨な手で撫でさする。
「ごめん」
バツが悪そうに肩を竦め、少女は謝罪の言葉を口にする。
「分かればいいっすから」と応えたヤスの真後ろで、カランっと涼しげな音が鳴った。
店内へと繋がるドアに取り付けた小さな鐘が、来客を告げる。
「いらっしゃいませ」
どう繕ってもヤクザを消せない顔に営業用スマイルを浮かべ、ヤスが客に近付いていく。
「つまんねぇ……」
ストローでグラスの底をかき回し呟く少女の瞳は、ヤスの背中を追いかけていた。
男の背中越しに見知った顔が現れる。意外な人物の出現に表情を和ませ、朱蘭は軽く右手を上げて合図を送る。
カウンターに戻ったヤスが心得たように背後の棚からコーヒーの容器を取り出した。
前髪をオレンジ色に染めあげ、立たせたヘアースタイルの少年は、真っ直ぐに少女の席へと近付く。
当然のように真向かいの椅子を引き、腰を下ろした。その顔は何かを企んでいる。にやにやと気色悪い笑みを浮かべていた。
おまけです。
好きな場面だったんですが、長くなりそうだったので、削った部分。
自分的にヤスが気に入ったので、ボツ稿だけど、こっそりUPしてみました。
ヤスは工藤組所有のプールバーの雇われマスターです。朱蘭が普通の少女に戻れる場所のひとつを提供してます。
柄の悪い人たちがよく訪れますが、意外や意外、彼のいれるコーヒーはなかなか良く、普通のお客様もいらっしゃいます。
もちろん、篤志たちの溜まり場でもあったり。だけどヤスの気遣いか、少年たちは朱蘭が工藤組13代目だとは知りません。