プロローグ


東の空に新たな星が瞬く。


一年の多くを雪と氷に閉ざされる永久凍土の大陸ガザ。生き物を拒むかのような厳しい自然が牙を剥く この大地にも、ごく僅かだが人は住む。大陸の南部、気温が穏やかなほんの少しの土地に 身を寄せ合うように、いくつかの小国家が存在していた。
その国々のちょうど対極。最も激しく自然が牙を剥く辺境の地に、聖都市のひとつアジェク=レイはある。
聖都市、自治都市として存在するものの、その規模はどの国よりも小さく、狭い。 まるでひっそりと隠れるように一族だけで暮らす、秘境の村のよう。
月光が辺りを青白く照らし、聖都市の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
闇の中に浮かび上がる都市は、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
鋭い冷気を帯びた風が通り過ぎていく。
月明りを反射するように薄い膜が光を散らす。透明な糸で織り成された膜の中心には、 この地を守護する玄武の神殿があった。
神殿の地下、最奥に造られた祈りの間。痛いほどの静寂が支配する空間に人の気配があった。
明かりとりの役目をもつ天窓から青銀色の光が差し込む。
光を浴びる横顔の、真摯な眼差しが上空の生まれたばかりの光をみつめた。
浮かぶ表情は波のない平らな水面のように穏やかだ。
色素の抜けた白髪を後頭部で束ね、神官服の上から毛皮を纏う年を重ねた巫女。
「次代が……生まれたのね」
しわの増えた顔に笑みを広げ、女性はそっと胸元の聖玉へと手を伸ばす。 黒曜石の聖玉の下にある玄武の刻印へと。
もうすぐ役目が終る。
細められた優しい眼差しに浮かぶ寂寥感。
しかし、抱いたことを恥じるように軽く首を振り、女性は聖玉と同じ色の瞳を伏せた。
いや、まだ役目は終らない。
使命を終えるのは、まだ先のこと。
聖使としての最後の大きな仕事がまだ残されていた。
「忙しく、なるわね」
これからのことを思い、穏やかな横顔が引き締まる。
次代は生まれた。この大陸のどこかで。
「今度こそは……」
気紛れな運命の神に祈る。
縋るような眼差しが次代の誕生を知らせる小さな光を仰ぎ見る。
今度こそ失われることがないように……。
青銀色に染まる巫女は深まる闇の中、祈り続けた。


同時刻。
漆黒の髪を風になびかせ、黒曜石の瞳を宙に向ける老婆がいた。
厳しい冬の最中にも関わらず、老婆は驚くほどの薄着だった。
闇よりも深い漆黒の大きな布一枚を身体に巻きつけ、裾をはためかせ、彼女は身を切る風の中に佇んでいる。
老婆の、何かを求めるように一点を凝視した瞳が細められた。
「次代が生まれた」
しっとりとした声が濃紺の闇に溶けた。しわの刻まれた顔には春の陽射しに似た笑みが広がる。
深まる闇の向こう、幾重にも色を重ね、色を変える幻想的な光の帯の煌めき。 一瞬ののち、跡形もなく消失してしまう。
捉え損ねる確率の方が高い、瞬きする間の出現であったが、老婆の瞳は確かに捉えた。
白い息とともに安堵の溜息が洩れる。
「ようやく……」
零れた言葉の続きは闇に溶け、音にならない。
軌跡さえも残さない光の帯をたどり、老婆もほころばせた顔を引き締めた。
今度こそ、失われることのないようにしなければ。
次代はまた、聖地とは別の場所で誕生した。
身に刻まれた刻印はその存在を彼女に強く示していたが、迎えに行くには遠すぎた。
存在を示す光は大陸南西部。険しい山を越え、氷の大地を渡った遥か先で輝いている。
迎えとして派遣しようとも彼女の伴侶もまた、年をとりすぎていた。
光の強さは今まで以上。簡単に失われるような輝きではない。
「では……」
導こう、この地へ。次代を。
遥か対極の大地へと目を向け、老婆は決意を固める。
かの者をこの地へ。
何者も拒絶する閉ざされた大地へ向け、凛とした声が放たれた。
かの者を、導け。

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