お花見
まぁるい満月がやわらかくやさしい銀色の光を紡ぐ中、馬の駆ける音が辺りに響く。
でも駆けるといっても、特に急ぐ様子でもない。むしろ月明かりに誘われて散歩に出た、
という程度の速度で複数。
やがてそれに混じって人の声が聞こえたかと思うと、馬の速度ががくんと落ちた。
「やっぱり!思った通りだ、アレク。今日が見頃だよ。」
少し高めの甘さを含んだ男の声が、濃淡のついた紺色の世界に吸い込まれていく。
「ユーリのこういう勘は本当によく当たるな。俺はまだ少し早いと思ったのだが。」
続いて先ほどとは違う低く優しい声が、追って響いた。
「こういう勘って何さ。私の勘は常に当たるよ。
それにしても今日は運がいい。満月だよ、アレク。月見と花見が一緒にできる。」
「そうだな」
その声の主達は、そこで馬を下りた。そして手近な樹木に馬を繋ぐ。
その後、ゆったりとした足音とともに彼らはその場所に現れた。
「誰もいないとは……もったいない。」
感嘆するような声が思わず漏れてしまうほどの、素晴らしい景色。
月明かりを受けて淡く発光する一本の桜の大木に、常より明るい月の光。
それが絶妙で、この上もなく美しい。
そう思ったところで、その表現が常に傍らにいる青年に向けられるものと同じであること
に彼は気付いた。『エリューアの黄金』と呼ばれる美しき乙女達の中でも特に稀有なる宝
玉とまで言われた女性を母に持つ彼は、実に母親の美貌をよく受け継いでいた。
だがアレクセイ自身は青年に対して美しいとは思っていても、この上もないなどとは感じ
たことはない。が、知らぬうちに耳に残っていたようだ。
そのことに気付いて、思わず口元が緩む。
「確かにもったいないけれど………ここは街から離れているからね。仕方がないんじゃないかな。
それよりも人がいなくて良かったと思うけれど?」
隣の青年がそんなことを考えているとは知らないユーリは振り返った直後、
親友の理由の分からない笑みを見て困ったような表情をした。
「何かヘンなことを言ったかな?」
「いや、ユーリは関係ない。俺が勝手に思っていたことだ。
それよりも人がいない方が良いと言うのは、確かにそうかもしれないな。」
良い意味でも悪い意味でも目立つ二人は、実は今お忍びだったりする。
多くの人々に見つかって口に上ることは、できる限り避けたい。
だが騎士団では今ごろ、不在を知ったそれぞれの副官が苦い顔をしているだろう。
なにせ何かと忙しい月初めに、二人していないのだから。
それは仕方のないことにして、あとでおとなしく怒りを頂戴すればいい。
昔偶然この場所を見つけてからは、二人ともいつも満開の時期を狙って花見をすることにしていた。
余りこの辺りでは見かけないこの木の名前を図鑑で調べ、
その一瞬の儚い美を焼き付けようと約束した日は今でも鮮明に覚えている。
少年と青年の狭間の頃のことを思い出しながら桜の木の根元に二人向かい合って座ると、
「せっかく息抜きに来たんだから、ゆっくりしたいよね。叱られることはあとで考えるとするさ。
それよりも今年も手に入れたよ、極上のやつを。」
そう言ってユーリは手にしていた袋から、瓶を取り出した。
それを手渡され銘柄を確認したアレクセイは、感嘆の声を上げた。
「毎年毎年、どうやって手に入れるんだ?
これは本当にトゥナーダでは手に入りにくいものだというのに。」
遥か東邦で造られた清酒。
爽やかですっきりとした余韻を残すこの酒は、生産地である東国自体でも高級品だというのに。
「…………教えて欲しいかい?」
アレクセイの素直な賛辞に気分を良くしたのか、にっこり微笑んでユーリは尋ねた。
その笑顔に、あぁまた何か企んでいるのだろうなと思っても、結局興味に負けて
「あぁ。」
と頷くアレク。
「それはね、」
そこで一旦言葉を切るとユーリは体を伸ばして、アレクセイとの距離をぐっと詰めた。
何事だと目を丸くするアレクに向って、ユーリは艶めいた笑みを浮かべる。
「この顔と」
そう言って感心するほど整った貌(かお)を指差し、さらに距離を詰め笑みを深くした。
「カ、ラ、ダ。」
瞬間、にこりと間近で微笑み、ユーリはすっと体を離した。その直後、
「かっ!?…………ごほごほっ!!」
飲んでいた酒にむせたアレクが、思いっきり咳き込む。
そしてそれを予測したユーリの盛大な笑い声が辺りに響いた。
「あははははは」
「わら…なっ、けほっ」
でもいつまでたっても止まない咳に、ユーリはようやく背中をさすり始めた。
「おいおい、大丈夫か?」
「気管に……入った……………」
やっとのことで落ち着いたアレクは、涙目でユーリを恨みがましそうに見る。
「馬鹿だなぁ。本気にするなよ。冗談だよ、冗談。
美人で働き者の奥さんをもらっている店主たちが男の顔や体によろめくわけないじゃないか。」
あぁそうだな、とぼんやりアレクは思う。でもお前が言うと冗談にならない、とも。
本人が思っている以上に、彼の顔はきれいなのだ。
何だか怪しげなことを考える輩もこの広い世の中何人かはいるだろう。
そんなことを考えられているとは何も知らず、ユーリは理由を考え始めた。
「将来への投資かな?『頑張って出世しろ』とか言われたし。もちろんアレクもね。
あとは話術と、やっぱり顔かなぁ?私は口が上手いし、笑顔は何事にも大事だしね。」
予想通りにアレクセイが引っかかったことに気を良くしているのか、にこにこと話す。
「笑顔……か。確かに大事だろうな。」
あまりの機嫌の良さに、こちらの怒りもそがれる。はぁ、とアレクセイは肩を落とすと、
ユーリを責めることを諦めた。
そんな彼ら二人を美しい夜桜は歓迎するかのように、枝を揺らした。
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木崎結子さんからいただきました小説。
これにはおまけの後日談があります。後日談はここ