居心地の悪さと、彼の挑発に乗ってしまったという苦い思いが、胸に落ちた。
あまりの不快感に、青年刑事に別れの挨拶をする気にもなれない。
人間、図星を指されたら短気を起こすものだが、朱蘭も例外ではなかった。
怒りに任せて殴り倒そうかとも考えたが、犬っころそのものな彼に一方的に手を上げるのも憚られて、 結局やめた。
おかげで行き場のない憤りを抱えることになったのだが。
燻っている感情が徐々に広がる。
帰ったら由暁あたりを相手に発散するか。
八つ当たりの対象を勝手に決め、朱蘭はグラウンドの向こうにあるはずの門へと足早に向かう。
背後で金属を打つ不規則な音が聞こえたが、聞こえないフリをした。
聞こえないフリをしないと、嫌な感情がまた顔をだすことになる。
不快な感情の意味を考えると、決心が揺らぎそうだった。
自然と足が速まる。
気持ちを逸らそうと、手に握り締めたままの携帯電話を開き、電源を入れた、その瞬間。
唐突に右腕を捕まれた。
あまりに強い力に、身体が反転する。
視界が変わり、肩で息をしている青年を真正面に捉えた。
「……ってーな」
ふざけんなっと睨みつけ、抗議の声をあげようとした唇に、ふいに影が落ちた。
突然のことに、朱蘭の動きが止まる。アーモンド形のくっきりとした瞳が 限界まで開かれた。
夜を歓迎し、小さく鳴き始めていたはずの虫の声がぴたりとやむ。
一瞬、無音が横たわった。
何がおこったのか、理解できなかった。
再び、鳴き始めた虫の声が辺りに染み渡る。
我に帰った朱蘭は、唇に感じる温もりに眉を吊り上げた。
両手首を掴まれているため、反撃らしい反撃もできない。
握られた手に力が入らず、携帯電話が滑り落ちた。
抗おうともがくが、予想以上に強い青年刑事の力に、抵抗を早々に諦め、されるがままに身を任せる。
唯一自由になる目で、憤りそのままの視線を向けるが、どこを見ているのか判らない瞳に ぶつかるだけで、成果は得られなかった。
諦め、全身の力を抜いた時、すでにすっぽりと青年の胸の中に抱きしめられている 事実(こと)に気付いた。
何のつもりだ?
不愉快のオンパレードだった。
今日の彼の行動は理解できない。
気遣ってくれているのかと思うそばから、意味不明な暴挙──朱蘭にとっての──に出る。
日頃の恨みを晴らしているつもりなのか。
わけがわからず、朱蘭はまさみの腕の中、眉間のしわを深くする。
ほんの少し、夜の冷気を帯びた風がふたりの間を流れた。
梅雨明けも未定のこの時期、密着したこの状態は、はっきりいって暑い。
じっとりと汗ばんできた背中に、不快指数が上昇するのを感じながら、朱蘭はどうしようか、と思案する。
どれくらいの時間、こうしているのか判らなかった。
反応の鈍いグラウンドの照明が、ようやく日暮れに気付き、ゆっくりと辺りを照らし始める。
まさみが解放してくれる様子は、まだない。
蹴り入れてやろうか。
痺れを切らし、ミュールの先で青年刑事のつま先を踏みつけてやろうと足を動かした瞬間。
見計らったような絶妙なタイミングで、落ちて拾われないままの携帯電話から着信を知らせる メロディーが流れ出した。
瞬間、夢見心地だったまさみの瞳に光が戻った。
目玉が零れ落ちんばかりに大きく見開かれた目に、ようやく現実が映し出されたらしい。
熱湯に触れ、やけどしたかのように、大げさに朱蘭から飛びのくと、顔面を赤く、青く、白く、 忙しく色を変えた。
「あっ……ご……そんなつも……あっ……結城……その……ごめん」
裏返った声から発せられる言葉の羅列。
かなり挙動不審な人物と化している気の毒な青年は、落ち着かなく両手を頭に、額に、腰に さ迷わせていた。
今にも泣き出しそうな青年刑事の姿に、半殺しの刑の執行を心に決めていた朱蘭は鼻白んだ。
すっかり気分が削がれてしまい、怒りも流れ、残っていなかった。
強引に唇を奪っといて、この姿勢の低さは何なのだろう。
主人に叱られ、尻尾を巻いてうなだれている犬のようなまさみの姿に、 朱蘭は盛大な溜息を漏らした。
いい年をした大人が、と思わずにはいられない。
情けなさを通り越し、笑いさえ誘う滑稽な姿に、自然、少女の口元に笑みが生まれた。
滑稽だ、と認識したそばから、こみ上げてくる笑いの衝動。
とうとう耐え切れなくなり、吹き出した朱蘭に、土下座を決行しようとしていた青年は、 半ばで動きを止める。
はとが豆鉄砲を喰らったという形容がぴったりの表情もまた可笑しい。
すでに抑えることが不可能になっている笑いの発作の嵐に、朱蘭は涙を浮かべながら、 身体を九の字に曲げ、笑い続けた。
青年には狂ったように見えるだろう。
それでも今さら抑えることはできなかった。
照明が眩しく辺りを照らす中で、朱蘭はそれから15分ほど笑い続けた。


闇の向こうにぽつぽつと柔らかな灯りが輝きはじめる。
次々に点いていく光を涙で滲んだ視界で捉え、朱蘭はようやく笑いを収めた。
照明が眩しすぎて、闇の向こうはよくみることができない。 けれど、生活の匂いのするその灯りはよく見えた。
視線は家々の明かりに固定させながら、ゆっくりと身体を起こす。
滲んだ汗を拭って、朱蘭は未だ片膝をついたままの青年に歩み寄った。
まさみちゃんのお陰で、何かが見えた気がした。
まだ少しおどおどしながらも覚悟を決め身構える青年刑事を、無理やり立ち上がらせる。
頼りないが、適任者はこの男しかいない、と判っていた。
目の前のこのお人よしにけして小さくはない迷惑を与えてしまうことになるかもしれない。 彼にとっては枷となるかもしれないけれど。
もう、自分ひとりではどうにもならないところまで事態はきていた。
それは厳然たる事実。目を逸らしてもそのことに変わりはない。
それならば、頼ってもいいのかもしれない。
託してもいいのかもしれない。
彼なら、大丈夫だろう。きっと。良い方向に導いてくれるだろう。彼女を……。
今ならきっと彼は拒みはしない。自分のした行為に罪悪感を抱いている今がチャンスだった。
まだ何が起こるのか理解していない青年に近寄り、引き寄せる。
届かない身長差をつま先立ちになることでカバーして、朱蘭は青年の太い首に腕を回した。
怪訝な顔で朱蘭の動きを黙って見つめるまさみの薄い唇に、自分のそれを重ねる。
瞳は開けたままで。
視界に目を見開いたまま瞬きすらせず硬直した青年の姿が映る。
瞬間冷凍をされた魚のようにカチカチに凍ったまま、彼はピクリとも動かない。
両腕は静止画像のように動き半ばで空中で止まっている。
何をされているのか、まだ理解できていないのか、それとも自ら唇を重ねた朱蘭の行為が 信じられないのか。
先に仕掛けてきたのはまさみちゃん(そっち) のくせに。
内心溜息をこぼしつつ、朱蘭は唇をそっと離した。
「……なぜ?……」
かすれた呟きがまさみから洩れる。呆然としたまま、焦点の合わない瞳が朱蘭を見下ろした。
吐息がかかるほど密着したまま、朱蘭はあいまいな笑顔で答える。
「キスぐらい、いつだってしてやる」
だから……。
いったん言葉を切り、もう一度唇を重ねた。
「おれの代わりにまりあを守ってほしい」
願い、頼み、というよりは命令に近い声音に、その場を包んでいた甘い雰囲気は霧散する。
冷気に似たひんやりとした空気が辺りを漂った。
「君は……」
口を開いたまま結局は何も言わず目を逸らすまさみの頬を両手に挟み、 彼の目を自分に固定させ、朱蘭は続けた。
「約束してくれないか? おれの代わりにまりあを守るって」
なるべく優しい声音で、と気をつけて紡ぎだした言葉は、思いのほか寂しく響いた。
まさみの瞳に同情に似た光が浮かぶ。
「君は……。君はそれで平気なのか?」
平気なわけはない。
胸に落ちた反論を言葉に出さず、代わりに朱蘭は頷いた。
平気なわけはない。
けれど、まりあが自分のせいで、穢れていくよりはましだった。
自分と同じに染まってしまうことの方が耐えられない。
彼女は本来なら、この世界に来ることのないはずの人間なのだから。
だから、おれは平気。
半分嘘が混ざった答えに、まさみの表情が曇る。
どうして彼はこんな時だけ正確に気持ちを察するのだろう。
「君が守るって決めていたんじゃないのか?」
おれじゃあ、もうダメなんだ。
気付けよ。鈍感。言わせるな。
食い下がるまさみに、募る苛立ちを飲み込んで、朱蘭は黙らせるために実力行使に出た。
よけいなことをしゃべらないように何度も口づけを重ねる。
いろいろな感情が浮かぶまさみの瞳を捉え、それがすべて消えるのを待ってから朱蘭は 唇を離した。
「頼みたいんだ」
「でも……」
「まりあは太陽の下が似合う」
それができるのはまさみちゃんだけだから。
「それは君だって」
同じだと言うまさみの言葉を遮るように、朱蘭は首を横に振る。
「おれはいい。こっちの方が好きだから」
おれは好きでここにいるから。
大丈夫だと、安心させるつもりで浮かべた笑顔は、けれど、まさみには違う意味になったらしい。
瞳の奥にある翳りが一層濃くなった。
「頼まれてくれないか?」
あんたしかいないんだ。
懇願に似た言葉は、まさみの心を動かしたらしい。
今にも泣き出しそうな表情をしながらも、まさみはゆっくりと首肯した。
「僕でいいなら」
「まさみちゃんがいいんだ」
青年の柔らかな髪を彼の頬から丁寧に払ってやる。
「わかった。約束する」
朱蘭の手の動きを目で追っていたまさみはやがて硬い声音で頷くと、
だから、もう一度だけ……。
囁くように彼女を抱き寄せる。
彼の意図を察して、朱蘭が苦笑する。
これが最後だからな。
念を押すように呟いてから、求めに応じた。
最後に交わされた口付けは、契約の証。
グラウンドに伸びた長い影は、しばらく重なりあったままだった。

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書き始めた当初は朱蘭がまりあにこだわる理由をまさみちゃんに話すという内容だったんですが、 蓋を開けてびっくり。暴走したまさみちゃんのお陰でこうなってしまいました。
彼はけっこう奥手なようでいて、手は早いみたいです。
今回生まれて初めてラブシーンなるものを書いてみましたが、どうでしたでしょうか?