沈みかけた太陽が、長い影を作る。
茜色から紺色に暮れていく空。
燃えながら闇に溶けていく残光に、目を細め、結城朱蘭は頬にかかる髪をかきあげた。
汗ばんだ背中を、生暖かい風が撫でていく。
下校時刻もとうに過ぎてしまった、小学校の校庭の隅。
校舎横の箱庭のような空間で、もう2時間近く、彼女はここから見える空を眺めていた。
行く当てもなく、たどり着いた母校の片隅。
朱蘭は闇に溶け込むダークレッドのパンツに、光沢のある白いキャミソールという服装をしていた。
その格好で鈍い光を散らす塗装の剥げたジャングルジムの天辺に陣取っている。
パンツと同色のジャケットは錆びた鉄の棒に無造作に引っ掛けてあった。
片膝を抱え込み、もう一方は投げ出し、流れる黒髪は束ねることもせず、風に晒して、
彼女は小さな声で歌を口ずさむ。時折、散らす残光に目を細めながら。
高く、低く紡がれるメロディーは、生ぬるい風に流されていく。
囁くような歌声が、次の瞬間、止まった。
そろそろ帰らなきゃ、やばいか……な……。
闇に沈む空間に、知らず息を吐き出して、朱蘭はポケットに収めたままの携帯電話へと手を伸ばした。
ひとりになりたくて、わざと電源を切ってあった。しかし、そろそろ連絡が取れる状態にしなければ、
連中が騒ぎ出し、手がつけられなくなるかもしれない。いや、もしかすると、時すでに遅し、という
事態に陥っているかもしれないが……。
携帯電話を探る仕草に合わせるように、視線が自然、下を向く。
足元を見下ろした目に、自分とは違うもうひとつの影を認めて、朱蘭は反射的に影を辿った。
いつの間に現れたのか、すぐ背後に、長身の人影が迫っていた。
柔らかそうな髪が光を反射していた。そのまま視線を下に移動させていくと、いつから着ているのか襟が
よれよれになったシャツに、ねずみ色のスーツ、薄く汚れた靴が目に入った。
引きちぎれんばかりに尻尾を振る犬よろしく、ぽわぽわとした雰囲気を醸し出す青年に、
朱蘭は瞳に浮かんだ刃のような鋭さを放つ光を引っ込めた。
何で、こいつが居るんだ? と抱いた疑問は、体ごと振り返った先の、青年刑事の背中越しに見えた
管理職風の男性の姿に、すぐに解決する。
呼ばれたんだな。ご苦労なことで。
おせっかい坊やを呼んでくれた中年親父に、物騒な色を帯びた眼差しを投げやる。
剣呑な視線を浴びた男性は、怯えたように2、3度身震いをすると、そそくさと校舎内に消えていった。
「呼ばれたんだな……」
消えた背中に向けた視線を青年に戻して、少女は確認ともとれる言葉を呟いた。
隣、いいか? と並びかけたまさみは、苦笑気味に頷く。
「1時間半前から、柄の悪い若者が居座っていて、困っている。子どもたちに危害を加えられることは
ないようだが、器物破損も困るので、強制的に排除して欲しいってね、言われたんだ」
詳しい話を聞いたら、どうやら君らしいと知って、来たんだ。
悪かったかな? と軽く首を傾けて、問いかけてくるまさみに、朱蘭は軽く顔をしかめた。
まさみは顔をしかめたままの少女の横に静かに腰を降ろし、同じように、上着を棒にかける。
「で、ここで何してたんだ?」
困っているような表情のまま、中途半端に笑顔を浮かべ、まさみは朱蘭の顔を覗き込もうとする。
が、かなわない。
「何って……別に……」
朱蘭は携帯電話に触れた指先を鉄の棒に戻して、青年刑事からわざと顔を背けた。
少女の行動に何かを感じ取ったのか、青年の瞳に悲しげな光が揺れた。
けれど、彼の瞳の色も、消えていく残光に眼差しを向け、故意に視線を逸らしている朱蘭からはみえない。
「待っているのか?」
数分の沈黙後、まさみが口を開く。
尋ねることに対して躊躇い覚えているのか、その問いかけは弱い。
知らないくせに、時々、妙に鋭いところを突いてくる。
ずかずかと人の心の中に踏み込んでくる。
「……何を?」
嫌なやつ、と内心舌打ちしつつ、朱蘭はポーカーフェイスではぐらかした。
視線は暗闇に溶けていく校外の景色に向けたまま。
重なり合った家々の向こう側が、茜色から藤色へ、藤色から藍色へ変化していく。
「彼女と……派手にやりあったって聞いた」
今にも泣き出しそうな声に、思わず朱蘭は目を青年に戻した。
泣いているのかと思った。
が、飛び込んできた顔は、予想に反し、唇を真一文字に結んだ厳しい表情をしていた。
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、朱蘭の目を見返している。
こちらを心配する瞳の色に、「このお人よしが……」と朱蘭は胸中で呟いた。苦笑とともに。
だから、「待っているのか?」なのか……。
どうやら、知らないわけではなかったらしい。
こんな、役にも立たなさそうな奴に、情報を吹き込んでくれるお節介者がいるとは知らなかった。
待っている……か……。
ケンカするたびに、自己嫌悪に陥り、行方をくらます自分を、いつも見つけてくれていたまりあ。
拒絶し、一方的に糸を断ち切ったのは自分なのに。
来てくれるわけがない。もう、見つけてくれるはずがないのだ。
その事実を彼は知らない。
今までのケンカとはわけが違う。絶交だと、もう、友人でも
なんでもない、赤の他人だと、突きつけてしまったのだから。
けれど、青年刑事は執拗に聞いてくる。
「待っているのか?」
何を知りたいのか。自分に何を求めているのか。
しつこい青年に、カッとなった。
「だから?……ケンカがどうだっていうんだよ。おれが、何を……」
来るわけがないのに。どうして、こいつは……。
何を待っているって言いたいんだ? と続けようとして、朱蘭は半ばで口をつぐんだ。
青年に問い返そうとして、気付く。
自分がまりあを待っていたのだと。来てくれるはずがないと思いながら、でも心のどこかで
来てくれると期待している自分がいることに、気付いた。
言葉を失う。憮然とした。
立ち去りがたい思いにかられ、帰ることができないのはそのためだったのかと。
「待つ理由なんて……ないよ」
待つわけがない。まりあを。待っているつもりもない。
心とは裏腹な口調は、強がりだった。虚勢をはっていると判っていた。
けれど、言わなければ、否定しなければ、足元から崩れそうだった。
叶わない約束など、未練以外のなにものでもない。
反故にしてしまった約束が守られることはない。
守ることができない。
「暇つぶしをしていただけだよ」
生まれた感情を飲み込んで、なんとか言葉を搾り出す。
直視してしまった現実から再び視線を逸らすように、隣に座る青年の瞳に映った翳りを、
朱蘭はあえて無視した。
彼の気遣いが、わずらわしい。
どこまで知っているのか、判らないけれど……。
知っていて駆けつけてくれた青年に、礼を言う気は、今は起こらなかった。
現実を突きつけてくれた青年に背を向けるように、朱蘭はその場に立ち上がった。
無言のままひっかけてあった上着を乱暴に引っつかむ。
「結城?」
問いかける声さえ無視して、少女は金属の遊具の頂上から飛び降りた。
力いっぱい足場を蹴りつけたため、着地地点はまさみから2メートルほど離れた柔らかな芝生の上。
勢いをつけ過ぎたのか、両足がじんじんと痛んだ。
腰まで届く黒髪が、思いのほか強く背中を叩いた。
思った以上の衝撃に、朱蘭の顔が歪む。
衝撃が去るまでのほんの数秒、己を見下ろし、その汚さに眉を顰めた。
不快な気分をそのままパンツについた埃に叩きつける。
数度乱暴にはたいたために、膝や太股はひりひりと痛んだが、頓着しなかった。
腕にかけていたジャケットを羽織り、ポケットに収まっていた携帯電話を取り出す。
ここには居たくはなかった。
青年の隣に居続ければ、嫌なことだけが膨らんでいきそうだった。
逃げるように、後ろを見ずに歩き出す。