「なんとかしてくれ」
久しぶりに定時で帰れるはずだった。その電話があるまでは。
電話の向こうの男の、悲鳴まじりの第一声に、神崎まさみは、手にした受話器を もとの位置に戻そうかと、真剣に悩んでしまった。
直前で実行に移さなかったのは、育った環境の良さか、はたまた彼自身の性格ゆえか。
相手は一般人で、こちらは警察。
困ったことがあるから電話をしてきたわけで、無下に断るわけにはいかない。地域の治安を守るのが 警察の役目なんだから、と、本人が悩んでいたかはともかく、彼は電話の向こうの相手に誠実に対応 することにした。
「どうかしたんですか?」
「どうかって、あんたなぁ、どうかしたから電話したに決まってんだろうが、とにかく来てくれよ。 どうしようもなくて、困ってんだよ」
はい。ごもっともです。
反射的に平身低頭する自分が哀しい、と思いつつ、神崎まさみは、電話の向こうに頭を下げながら、 まったく要領の得ない内容に、途方にくれた。
ちらっと顔をあげると、「面倒ごと」の気配を察し、同僚達は帰り支度をさっさと済ませ、 まさみから目をそらし、足早に去って行く。
こういう時、厄介ごとに対して鼻のきく(要領がいいともいう)彼らの能力が、うらやましい上、恨めしい。
「詳しく聞かせていただけますか?」
帰宅を急ぐ同僚達の背中を見送りつつ、胸の内で小さな溜息を吐き出すと、まさみは電話の主に 気持ちを向けた。
相変わらず要領を得ないまま、喋りまくる男性をなだめすかし、用件を聞き終え、ようやく電話を 切ることが出来た時には、すでに就業時間を半時間ほどすぎていた。
電話中書き留めていたメモに視線を落とし、次いで周囲をみやって、溜息を吐き出す。
人影はまばらで、頼めそうな人物はいなかった。
いや、たとえいたとしても、他者に任せられる一件でもない。
電話の内容を要約すると、こうだった。
小学校の中庭に、もう1時間半ほど、柄の悪い若者がいる。出て行くように注意したが、聞かない。 何をするか判らず、不安だから来てくれ。
最近の事件を考えれば、急いで駆けつけなければならない事態なのだが、 児童は別ルートで下校済とのことで、子どもたちに対する被害の心配はないと知り、とりあえず安堵する。 学校にも教師にも今のところは被害はないという。
まぁ、問題の人物が子どもたちに危害を与えることは絶対にないことは知っているので、安堵の息を 漏らすのは、相手に対して失礼ではあるのだが……。
とりあえず、被害は出ていないことに胸を撫で下ろした。
危害を与えるとするとそれは大人に対して、もしくは物に対して、である。
どちらに対しても、犯罪となることに変わりはないのだが、今回についてはどちらの 被害もでていないようだった。
……何をやっているんだ。
問題の人物のいる学校と、その人物の容姿を細かく書き留めたメモに再度目を落とし。ついで時計をみやる。
別にこの後、予定があるわけではない。ないのだが……。
正直、気が重かった。
件の人物が先日、親友と盛大なケンカをし、 決定的な別れに至ったという情報はすでに彼の耳にも届いていた。
修復は不可能らしいとも聞いている。
まさみは件の少女が親友をどれほど大切に思っているかよく知っていた。
いつも親友を第一に考え、親友の不利益にならないように、常に気を使い、接していたことも。
大切だという思いが、近くにいて痛いほどに伝わってきていたから。
だから、今、顔を合わせるのは、気が重かった。
しかし、だからといって自分以外の人間が、動いてくれることがないことも知っていた。
何かとこの界隈を騒がしてくれる少女への対応は、すべてまさみに一任されていた。 押し付けられた、といった方が正解なのだが。
いつの間にか決定事項として署内に浸透している現在、誰も彼の代わりを務めるつもりはないらしい。
務めたとしても、彼らが彼女の扱いに手を焼くことは目に見えていた。
結局、自分がでばらずにはいられないのだ。
諦めて椅子にかけていた背広を羽織る。
家に帰るには少々遠回りになるが、仕方がない。
「お疲れサマっしたー」
上司に挨拶を残し、すれ違う他の課の人間に軽く会釈して、外に出る。
蒸し暑い外気温に触れ、顔を歪ませる。
室内とのあまりの温度差に、不快指数が上昇する。
梅雨の中休みを感じさせる日暮れ前の空を仰ぎ見ると、彼は歩き出した。


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